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アルドリッチ・エイムズはなぜKGBへ接触したのか1985年4月、CIA職員がソ連大使館を訪れた日

アルドリッチ・エイムズはなぜKGBへ接触したのか|1985年4月、CIA職員がソ連大使館を訪れた日

諜報・スパイ事件

THE QUESTION

アルドリッチ・エイムズはなぜKGBへ接触したのか | 1985年4月、CIA職員がソ連大使館を訪れた日について、この回が担う固有の論点は何か。

STORY SO FAR

前回「アルドリッチ・エイムズ事件とは?|CIA内部の「モグラ」はどう特定され、逮捕されたのか」で確認した論点を受け、この回ではアルドリッチ・エイムズはなぜKGBへ接触したのか | 1985年4月、CIA職員がソ連大使館を訪れた日について、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。

1985年4月16日。

ワシントンD.C.のソ連大使館に、1人のCIA職員が入っていった。

男の名は、アルドリッチ・エイムズ。

当時43歳。CIA本部のソ連・東欧部門で、防諜に関わる仕事をしていた。

彼がソ連大使館へ入ること自体は、それだけなら異常ではなかった。

エイムズには、CIAの承認を受けてソ連政府関係者と接触し、その中から米国側の情報源になり得る人物を探る仕事があったからである。

ソ連側の人間と会うことは、仕事の一部だった。

しかし、この日の目的は違っていた。

エイムズはCIAの指示ではなく、自分の意思でKGBへ秘密情報を売ろうとしていた。

受付に残した封筒には、CIA内部の情報と、自分が本物のCIA職員であることを示す材料が入っていた。

そして要求した金額は、

5万ドル。

後に米上院の調査を受けたエイムズは、この最初の行為について、金銭的な苦境から抜けるための一度限りの計画だったと説明した。

だが約2か月後。

彼はKGBへ、CIAとFBIがソ連内部で持っていた最重要級の人的情報源をまとめて渡すことになる。

一度限りの「金を取る計画」は、どこで本格的なスパイ活動へ変わったのか。

前回|CIA内部の「モグラ」はどう捕まったのか

第1回では、1985年に始まった情報漏洩から、CIA・FBIによる長期のモグラ捜査、そして1994年2月21日の逮捕までを俯瞰した。[1]

今回扱うのは、その出発点である。


← 第1回|アルドリッチ・エイムズ事件とは?|CIA内部の「モグラ」はどう特定され、逮捕されたのか

1985年当時、エイムズはCIAの「対ソ連側」にいた

この事件で重要なのは、エイムズがKGBについてほとんど知らない一般職員ではなかったことである。

CIAでの勤務は1960年代から続いており、トルコ、ニューヨーク、メキシコシティなどで勤務した経験を持っていた。

1983年にワシントンへ戻ると、CIAのソ連・東欧部門――Soviet/East European Divisionに配属された。

ここではソ連情報機関を対象とする防諜業務に携わり、CIAが運用していたソ連関係のケースにもアクセスできる立場にあった。

しかも、CIA内部での評価が完全に低かったわけでもない。

メキシコシティ勤務時代には勤務成績上の問題もあったが、ソ連・東欧部門へ移った後の評価記録では、
ソ連問題に詳しく、機微なケースを扱った経験を持つ職員として一定の評価を受けていた。

つまり1985年の時点でエイムズは、

「CIAの秘密を知らない人物」ではなく、「どの情報をKGBが欲しがるかを理解できる人物」

だった。

さらに危険だったのは、ソ連外交官との接触が仕事として認められていたこと

通常、CIA職員がソ連大使館関係者と個人的に接触すれば、それ自体が警戒対象になり得る。

エイムズには事情が違った。

1983年末から1984年頃、彼はCIAの別部門を支援する形で、
ワシントンに勤務するソ連政府関係者を米国側の情報源として採用できないか評価する仕事を行っていた。

この活動は直属の上司やCIAの担当部署だけでなく、FBIとも調整されていた。

エイムズは偽名とカバー上の肩書を使ってソ連側の人物に接触していた。

その中の一人が帰国する際、次の接触相手として紹介した人物がいた。

セルゲイ・ドミトリエヴィチ・チュヴァーヒン。

ソ連外務省の外交官で、軍備管理問題を担当していた人物だった。

CIA側から見れば、エイムズはチュヴァーヒンが米国側の情報源になり得るかを探る立場にあった。

チュヴァーヒン自身も、エイムズとの接触を米ソ安全保障問題などについて話す機会だと認識していた。

この正規の接触経路を、エイムズは別の目的に利用する。

その頃、私生活では金銭問題を抱えていた

エイムズ自身は後に、KGBへ接触する直接のきっかけとして金銭問題を挙げている。

ここは、「金に困っていたからスパイになった」と単純化しない方がよい。

確認できる事実と、本人が後から説明した動機を分ける必要がある。

まず、金銭的な負担そのものは実在した。

エイムズは1983年10月、最初の妻と正式に別居した。

財産分与の取り決めでは、1985年6月から42か月にわたり毎月300ドルを支払うことになり、
累計1万2,600ドルの負担を抱えた。[1]

さらに、既存のクレジットカードやその他の債務約3万3,350ドルについても、エイムズ側が支払うことになっていた。

新しい自動車ローン、個人ローン、クレジットカード支払いもあった。

同時期には、後に妻となるマリア・デル・ロサリオ・カサス・デュピュイと同居していた。

エイムズ自身は1994年の上院調査で、離婚、債務、住居、将来の家庭生活などについて強い金銭的不安を感じていたと説明している。

ただし、「破産寸前だった」とまでは言えない

ここには重要な注意点がある。

エイムズ本人も後の証言で、当時の状況を本当の意味で絶望的だったとは説明していない。

むしろ、実際の債務以上に自分自身が強い圧力として受け止めていた、という趣旨の説明をしている。

つまり、

金銭問題は確認できる。しかし、それがスパイ行為を不可避にしたわけではない。

同程度あるいはそれ以上の負債を抱える人間が、国家機密を外国情報機関へ売るわけではない。

「借金があった」という事実と、「なぜその解決策としてKGBを選んだのか」は別の問題である。

エイムズ本人は「KGBから金を取る一度限りの計画」だったと説明した

1994年の上院情報特別委員会の調査では、逮捕後のエイムズ本人への詳細な聴取内容が使われている。

それによると、1984年12月から1985年2月頃にかけて、エイムズは初めてスパイ行為を考えるようになったという。[1]

そして1985年4月までに、

KGBから金を得るための一度限りの計画

を考えたと証言している。

彼の発想は、自分が本物のCIA職員であることを証明しつつ、
米国側に大きな損害を与えない情報をKGBへ渡して5万ドルを得る、というものだった。

ここで注意すべきなのは、これはエイムズ自身が逮捕後に語った説明だということである。

本当に1985年4月時点で「一度だけで終える」つもりだったのか。

自分の最初の裏切りを後から小さく見せようとしていないか。

本人の内面について、外部資料から完全に証明することはできない。

したがって本シリーズでは、

「エイムズは一度限りのつもりだった」と断定せず、「本人はそう説明した」と扱う。

1985年4月16日|ソ連大使館の受付に封筒を置く

1985年4月16日、エイムズはチュヴァーヒンとの会談を設定していた。

CIA側は、通常の情報源獲得活動の延長だと認識していた。

しかしエイムズは、この機会を利用してKGBへ直接接触する準備をしていた。

ワシントンD.C.のソ連大使館へ入ったエイムズは、受付担当者にチュヴァーヒンの名前を告げた。

同時に、一通の封筒を残した。

宛先として意図されていたのは、エイムズが大使館内で最上位のKGB職員だと認識していた人物だった。

その後、チュヴァーヒンと短時間話し、大使館を出た。

CIA職員が、勤務先の許可を受けた接触を装いながら、その裏でKGBへ自分を売り込んだ瞬間だった。

封筒には何が入っていたのか

封筒の中身も、後の上院報告からある程度確認できる。

エイムズは、CIAへ協力を申し出ていたソ連人に関する2〜3件のケースについて説明した。

ただしCIAは当時、その人物たちをKGB側が送り込んだ二重工作員ではないかと疑っていた。

エイムズ自身は後に、
このため最初に渡した情報について、米国側にとってほとんど価値を失った情報だと考えていた、と説明している。

だがKGB側から見れば、重要なのは情報そのものだけではなかった。

封筒には、CIAソ連・東欧部門の内部ディレクトリのページも入っていた。

そこではアルドリッチ・エイムズ本人の実名が強調されていた。

さらに、過去にソ連関係者へ接触した際に使っていた偽名も記載した。

つまり彼は、

「私はCIA内部の人間であり、実際に内部情報へアクセスできる」

ということをKGB側が確認できる材料を自ら提供した。

そして最後に、

5万ドルを要求した。

なぜ5万ドルだったのか

エイムズは後に、この額なら自分の当面の金銭問題の大部分を解消できると考えていたと説明している。

一方、KGB側が実際に5万ドルを支払う保証はなかった。

最初の封筒で、エイムズは次の会合日時や継続的な通信方法を明確に指定していなかったとされる。

表面上は、一度金を受け取れば終わらせる計画だったというのが本人の説明である。

数週間後、チュヴァーヒンから再び会食の予定が設定された。

5月15日|「5万ドルを支払う」

1985年5月15日。

エイムズは再びソ連大使館へ入った。

チュヴァーヒンを訪ねたが、案内されたのは別の部屋だった。

そこへKGB職員が現れ、一枚のメモを渡した。

内容は、

KGBが5万ドルを支払うことに同意した

というものだった。

また今後も、チュヴァーヒンをエイムズとKGBの仲介役として使いたいという意向が伝えられた。

2日後の5月17日。

エイムズはチュヴァーヒンと会い、現金5万ドルを受け取った。

FBIの公式事件史も、1985年4月16日にエイムズが自らソ連大使館でKGBへ接触し、その後ほどなく5万ドルを受け取った経緯を確認している。

ここで終わっていれば、事件はまったく違う形になっていた

エイムズ本人の後年の説明をそのまま採れば、目的は達成された。

借金を埋めるための5万ドルを受け取った。

本人は上院で、5月に金を受け取った時点では「これで終わった」と考えた趣旨の証言をしている。

ところが、終わらなかった。

そしてここから先については、最初の接触以上に動機が曖昧になる。

なぜ5万ドルを受け取った後も続けたのか

1994年の上院報告は、この点について慎重な書き方をしている。

5万ドルを受け取った後、エイムズがなぜKGBとの関係を継続したのかは、本人自身にとっても完全には明確ではなかった。

エイムズは後の証言で、一線を越えてしまったことへの恐怖や、
KGBからさらに大きな金を得られるという認識などについて語っている。

また、最初の連絡を振り返ると、KGB側が継続的な協力を期待できるような余地を自分で残していたとも話している。

しかし、

「最初は借金のためだった」

という説明だけで、その後9年間に及ぶ行動すべてを説明することはできない。

最初の5万ドルは、あくまで入口だった。

1985年6月13日|「一度限り」では説明できない行動に出る

約1か月後の1985年6月13日。

エイムズは再びチュヴァーヒンと会った。

今回渡した情報は、4月の封筒とは比較にならなかった。

CIAとFBIのためにソ連内部から情報を提供していた10人を超える重要な人的情報源を特定できる資料だった。

上院報告によれば、エイムズは5〜7ポンド、約2.3〜3.2kgに相当する通信・資料類をプラスチック袋に入れ、CIA本部から持ち出した。

当時CIAでは、職員が建物から持ち出す荷物を常時検査していなかった。

そのため、極めて機密性の高い資料でありながら、
エイムズはそれを非常に単純な方法で外へ運び出すことができた。

CIA関係者は後の調査で、この6月13日の提供について、
一度の会合でKGBへ渡されたものとしては極めて大量かつ重大な情報だったと評価している。

しかもKGBから「もっと情報を出せ」と命じられた結果ではなかった

この点は、事件の動機を考えるうえで重要である。

上院報告によれば、6月13日の大量情報提供は、
KGB側から具体的に命じられたり、追加の報酬を約束された結果ではなかった。

エイムズ自身が行動を拡大した。

後の本人の説明では、自分がKGBへ協力していることをCIAへ知らせ得るソ連側情報源を排除し、自分自身を守るという意図も含まれていたとされる。

つまり、この段階ではすでに、

「借金を返すため5万ドルだけ得る」

という4月時点の説明から大きく外れている。

「金だけ」が答えなのか

事件を簡単に説明する場合、

「エイムズは金のためにCIAを裏切った」

という表現は、大枠では間違いではない。

実際、最初の接触を考えた理由として本人が語ったのは金銭問題であり、
最初から5万ドルという具体的な金額も要求している。

その後もKGBから巨額の報酬を受け取った。

ただし、資料を細かく読むとそれだけでは不足する。

確認できるのは、

金銭的負担が存在したこと。

本人がそれを強い心理的圧力として感じていたこと。

KGBなら金を支払うと考えたこと。

そして、実際に5万ドルを要求したこと。

一方、

なぜ5万ドルを受け取った後もやめなかったのか。

なぜ翌月には最重要級の情報源を大量に売ったのか。

そこには本人の後年の証言しか確認できない部分が残る。

したがって、

「最初の動機には金銭問題が強く関係した。しかし、それだけで9年間のスパイ活動すべてを説明することはできない」

というのが、公開資料から言える範囲に近い。

そしてCIA側にも、すでに警告材料は存在していた

エイムズ個人の行動だけを見ると、1985年4月16日がすべての始まりに見える。

だが組織側から見ると、もう一つ重要な問題がある。

エイムズがソ連政府関係者と接触していること自体はCIAが知っていた。

それは正規業務として認められていたからである。

一方でCIAでは、こうした接触について報告を求めていた。

後の上院調査は、1985年のエイムズによるソ連関係者との接触を、CIA管理側がもっと厳格に監視・確認していれば、より早い段階で疑問が生じた可能性を指摘している。

敵側へ接近するための正規業務が、
同時に敵側へ接近するための隠れ蓑にもなった。

CASE34が単なる「裏切ったCIA職員の話」ではなく、SYSTEMの側面も持つ理由の一つである。

検証ポイント|今回どこまで確認できるのか

FACT|エイムズには離婚・クレジットカード等による実際の金銭的負担があった

1994年の米上院情報特別委員会報告には、離婚に伴う支払い義務や既存債務の具体額が記録されている。

CLAIM / TESTIMONY|本人は金銭的圧力からKGBへの接触を考えたと証言した

これは逮捕後のエイムズ本人による説明である。金銭問題の存在自体は別資料で裏づけられるが、内面的な動機を外部から完全に証明することはできない。

FACT|1985年4月16日、エイムズはソ連大使館でKGBへの連絡を残した

米上院報告とFBI公式事件史の双方で確認できる。

FACT|最初の要求額は5万ドルだった

エイムズはCIA内部資料などを使って自分の身元とアクセス能力を示し、5万ドルを求めた。

FACT|1985年5月17日に5万ドルを受け取った

5月15日にKGB側から支払い同意を示され、17日にチュヴァーヒンから現金を受け取ったと上院報告は記録している。

UNCERTAIN|5万ドル受領後、なぜスパイ活動を継続したのか

上院報告自体が完全には明確でないとしている。エイムズ本人は金銭、後戻りできないという感覚などを後に語っているが、単一の理由として確定できない。

FACT|1985年6月13日には10人を超える重要情報源を特定できる資料を渡した

この段階で、行為は本人が説明した「一度限りの5万ドル計画」を大きく越えていた。

1985年4月から6月まで

日付 出来事
1984年末〜1985年初頭 エイムズ本人によれば、金銭的圧力からKGBから金を得る計画を考え始める。
1985年4月16日 ワシントンD.C.のソ連大使館へ入り、KGB向けの封筒を残す。5万ドルを要求。
1985年5月15日 ソ連大使館でKGB職員から、5万ドルを支払うとのメッセージを受ける。
1985年5月17日 チュヴァーヒンから5万ドルの現金を受領。
1985年6月13日 CIA・FBIの10人を超える重要なソ連側情報源を特定できる資料などをKGBへ提供。

一通の封筒から、CIAの情報源喪失へ

4月16日にソ連大使館へ持ち込んだ封筒は、
本人の説明では「一度だけ金を取る」ためのものだった。

しかし、その約2か月後にエイムズが渡した情報は、すでにその範囲には収まらない。

そしてCIA側では、同じ1985年から異変が始まる。

ソ連内部で米国へ情報を提供していた人物が、次々と拘束されていった。

ある者は消息を絶ち、
ある者は処刑された。

だが当時のCIAには、

その原因がアルドリッチ・エイムズであるとは分からなかった。

さらに悪いことに、エイムズ以外にもソ連へ秘密を渡していた元CIA職員が存在していた。

何が、誰から漏れたのか。

次回は、エイムズがKGBへ渡した情報と、
1985年から1986年にCIA・FBIのソ連側情報網で起きた「異常」を追う。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] U.S. Senate Select Committee on Intelligence, An Assessment of the Aldrich H. Ames Espionage Case and Its Implications for U.S. Intelligence , S. Prt. 103-90, 1994
  2. [2] Federal Bureau of Investigation, Aldrich Ames
  3. [3] Central Intelligence Agency, The People of the CIA — Ames Mole Hunt Team
  4. [4] CIA Inspector General investigation materials cited in S. Prt. 103-90

  1. 01 アルドリッチ・エイムズ事件とは?|CIA内部の「モグラ」はどう特定され、逮捕されたのか
  2. 02 アルドリッチ・エイムズはなぜKGBへ接触したのか|1985年4月、CIA職員がソ連大使館を訪れた日
  3. 03 アルドリッチ・エイムズ事件|エイムズは何をKGBへ渡したのか|CIA・FBI情報源の喪失と1985〜86年の異常
  4. 04 アルドリッチ・エイムズ事件|なぜ最初のモグラ捜査はエイムズへ届かなかったのか|1986〜1990年、CIAとFBIの迷走
  5. 05 アルドリッチ・エイムズ事件|CIAとFBIはどう容疑者を絞ったのか|1991年、198人から29人へ進んだ合同防諜捜査
  6. 06 アルドリッチ・エイムズ事件|なぜ「説明できない資産」は見逃されたのか|現金購入の住宅、ジャガー、ポリグラフ検査
  7. 07 アルドリッチ・エイムズ事件|FBIはなぜエイムズへ本格捜査を向けたのか|1993年、資金分析からFISA監視へ
  8. 08 アルドリッチ・エイムズ事件|郵便受けのチョーク印は何を意味したのか|SMILE信号地点、住宅捜索、ボゴタ会談
  9. 09 アルドリッチ・エイムズはどう逮捕されたのか|1994年2月21日から有罪答弁・終身刑まで
  10. 10 アルドリッチ・エイムズ事件は米国防諜体制をどう変えたのか|制度改革と2026年の死去

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