1991年8月。
CIAとFBIの合同チームの前に、
198人の名前が並んでいた。
共通していたのは一つ。
1985〜86年に失われたCIAの対ソ連作戦について、何らかの形で情報へアクセスできた可能性があること。
この中に、アルドリッチ・エイムズもいた。
ただし、
198人全員が「スパイ容疑者」だったわけではない。
まず情報へアクセスできた人物を広く拾い出し、
そこから優先して調べる人物を絞るための母集団だった。
合同チームは198人を検討し、
最終的に29人を優先調査対象として選んだ。
エイムズは、その29人に入った。
それだけではない。
合同チームの全メンバーが、
それぞれの選考でエイムズを残していた。
彼には失われた情報への広いアクセスがあり、
すでにCIA内部では突然の生活水準上昇について疑問が出ていたからである。
しかし、
「29人に入った」ことと「エイムズが犯人だと分かった」ことの間には、まだ大きな距離があった。
1991年。
6年間迷走してきたモグラ捜査は、
ようやく「原因は何か」から、
「誰がやったのか」
を探す捜査へ変わっていく。
前回|1986〜1990年、捜査はなぜ人物へ収束しなかったのか
第4回では、
CIAとFBIが1985〜86年の情報源喪失について、
さまざまな原因を調べていたことを追った。
エドワード・リー・ハワード。
モスクワの米国大使館への侵入。
通信・施設への技術的侵入。
KGBによる欺瞞。
CIA側の作戦上の失敗。
内部のモグラ。
複数の仮説が検討された。
しかし1986年にCIAが設置したSpecial Task Forceは、
失われたケースの分析を中心としており、
正式な容疑者リストを作って人物を一人ずつ調べるところまでは進まなかった。
1989年にはエイムズの突然の裕福さが内部から報告され、
54万ドルの住宅を住宅ローンなしで購入していた事実まで確認された。
それでも1990年末の段階では、
FBIによる正式なスパイ捜査にはつながっていなかった。
← 第4回|なぜ最初のモグラ捜査はエイムズへ届かなかったのか|1986〜1990年、CIAとFBIの迷走
1991年4月|CIAはモグラ捜査をもう一度やり直す
転換点は1991年4月だった。
1985〜86年の情報源喪失を長く調べてきたCIAの防諜担当者2人がFBIを訪れた。
CIA側は、
未解決のまま残っていた損失原因調査を再活性化させる方針を伝えた。
そこでFBI側から出たのが、
「今度は両組織で一緒にやろう」
という提案だった。
CIA側も直ちに同意した。
後の上院調査では、
なぜこの時点で再び動き出したのかについて、
一つの明確な理由があったとは確認されていない。
ソ連崩壊へ向かう情勢変化によって新しい情報を得やすくなったことを挙げた関係者もいれば、
1985年の損失が長年解決していない「傷」として残り続けていたと説明した関係者もいる。
いずれにせよ、
ここで捜査方法が変わる。
初めてCIAとFBIが「一つのモグラ捜査班」を作った
1991年夏。
CIAのCounterintelligence Centerを拠点に、
CIA側2人、FBI側2人からなる小規模な合同ユニットが本格的に動き始めた。
米司法省Inspector Generalの後年の報告では、
この組織はSpecial Investigations Unit(SIU)と呼ばれている。
重要なのは人数ではない。
1986〜88年にもCIAとFBIは会議を開き、
情報交換を行っていた。
しかし今回初めて、
同じチームが同じ資料を見て、同じ損失を分析し、人物を探す
という形になった。
それまでCIAはCIAの損失を、
FBIはFBIの損失を中心に調べていた。
1991年の合同ユニットは、
1985〜86年に起きた一連の異常を横断して扱う。
捜査の問いが変わった
1986年のSpecial Task Forceが主に考えていたのは、
「何が原因で情報源が失われたのか」
だった。
1991年の合同ユニットでは、
そこに新しい問いが加わった。
「もし内部にモグラがいるなら、誰ならすべての情報を知ることができたのか」
調べる対象は、
失われた作戦そのものだけではなくなった。
その作戦を知っていた人間へ向けられた。
最初の作業|失われたケースへの「アクセス」を逆引きする
方法は地味だった。
1985〜86年に失われたケースについて、
- どの部署が情報を保有していたか
- どの会議で共有されたか
- どの職員が資料を見ることができたか
- 誰が複数の失われたケースを横断して知っていたか
を確認していく。
例えば、
10件の作戦が失われていたとして、
A職員は3件しか知らない。
B職員は5件。
C職員は9件。
D職員は10件すべて。
という状態なら、
内部犯を探すうえではD職員の優先度が高くなる。
もちろん、
アクセスできたことだけで犯人にはならない。
しかし、
漏れた秘密を知らない人物は、少なくともその秘密を直接漏らすことはできない。
アクセス分析は、
巨大なCIA組織から候補を削るための最初のフィルターだった。
1991年8月|198人
合同ユニットは、
1985〜86年に失われたケースへのアクセスを調べた。
1991年8月までに抽出されたCIA職員は、
198人。
ここで誤解しない方がよい。
「CIA内部に198人のスパイ容疑者がいた」
という話ではない。
この198人は、
失われた機密へアクセスできた人物の集合
である。
本人が実際にスパイ行為を行ったという証拠があったわけではない。
この198人から、
さらに調査価値が高い人物を選ぶ必要があった。
198人から29人へ
合同ユニットは198人を検討し、
29人を「priority attention」――優先して調べる対象として選んだ。
問題は、
29人を選ぶ完全な数式が存在したわけではないことである。
上院報告では、
チームのメンバー自身がこの絞り込みについて、
科学的な選別というより、かなり判断的な要素を含んでいた
と認めている。
CIA側の担当者は、
候補者の多くを個人的にも知っていた。
そのため、
勤務上の問題。
過去の行動。
性格上の懸念。
説明しにくい違和感。
そうした情報も判断材料になった。
一方、FBI側のメンバーはCIA職員を個人的にはほとんど知らない。
そのため、
「失われたケースへ実際にどこまでアクセスできたか」
をより重視した。
異なる観点から候補を選び、
それを重ね合わせた。
エイムズは「全員のリスト」に入った
アルドリッチ・エイムズは、
合同ユニットの全メンバーが選んだリストに残った。
しかも複数の担当者にとって、
優先順位はかなり高かった。
理由の一つは明確だった。
アクセスである。
1985年当時、
エイムズはCIAのソ連・東欧部門に勤務していた。
失われた重要ケースへ、
広範にアクセスできる立場だった。
これはモグラ候補として極めて重要な条件だった。
もう一つ、
すでに解決していない問題があった。
金。
1989年以降、
CIA内部ではエイムズの突然の裕福さについて疑問が出ていた。
CIA職員の給与水準では説明しにくい生活。
54万ドルの住宅。
住宅ローンなし。
大口現金取引。
これらの情報は、
1991年の合同ユニットにも引き継がれた。
それでも「エイムズが最有力犯」と決まったわけではない
ここも後知恵で見ないことが重要である。
上院報告によれば、
エイムズは全メンバーの候補に入り、
複数のリストで上位に置かれていた。
しかしチーム内には、
エイムズより他のCIA職員を強く疑っていた人物もいた。
29人の中には、
過去の職務上の問題、
ポリグラフ上の問題、
情報へのアクセス、
外国との関係など、
それぞれ疑う理由を持つ人物がいた。
この時点で、
「エイムズだけが条件を満たす」
という状態ではない。
むしろ捜査側に必要だったのは、
29人をさらに減らすことだった。
29人について何を調べる計画だったのか
合同ユニットは、
単に29人の名前を並べて終わったわけではない。
複数の方法を組み合わせる計画を立てた。
198人については、
失われたケースへのアクセス範囲をさらに確認するための面談を行う。
現在もCIA職員であり、
1985年以降にポリグラフ検査を受けていない人物については、
Office of Securityによる検査を検討する。
29人については、
- 人事記録
- セキュリティ記録
- 過去の勤務状況
- 機密情報へのアクセス
などを重点的に確認する。
一部については医療関連記録も専門家が確認する計画だった。
つまり、
アクセス分析だけではなく、人物側の異常も重ねていく
という捜査へ変わった。
エイムズについてだけ、詳細な時系列表が作られ始めた
この段階で、
エイムズにはもう一つ特徴的な扱いが始まっている。
CIA Inspector Generalの調査によれば、
合同ユニットのCIA側担当者の一人は、
エイムズの行動を詳しく追うchronology――時系列表を作り始めた。
どの時期に、
どこで働いていたのか。
どの情報へアクセスしたのか。
誰と接触したのか。
どこへ赴任したのか。
新しい情報が判明するたび、
エイムズの時系列へ追加していった。
しかも上院報告によれば、
同じレベルの詳細な時系列表は、他のモグラ候補について作られていなかった。
この時点で、
エイムズは「29人の一人」でありながら、
すでに他の候補とは少し違う位置へ入り始めていた。
ところが1991年10月、また新しいモグラ情報が入る
合同ユニットが動き始めて間もない1991年10月、
新しい情報が飛び込んできた。
海外勤務中のCIA職員が、
KGB関係者から得たという情報を報告した。
内容は、
「KGBは以前からCIA内部に、ソ連生まれの人物をモグラとして持っている」
というものだった。
しかもその人物は、
モスクワでのCIA活動について詳細な情報をKGBへ提供し、
現在も活動中だという。
以前からCIAが調べていた別の侵入疑惑と似た点もあった。
合同ユニットは、この情報を無視できなかった。
再び捜査の優先順位を変更した。
しかし新情報は、ほぼ捏造だった
CIA本部で情報を検討すると、
次第に内容への疑問が強まった。
報告したCIA職員を呼び戻して調べたところ、
情報自体が作り話である可能性が高いと判断された。
本人はCIAを退職。
事件は司法省へ送られた。
また一つ、
「モグラへつながるかもしれない情報」が消えた。
合同チームは再び、
198人と29人の分析へ戻る。
1991年11月12日|合同チームはエイムズ本人と話している
1991年11月12日。
CIA・FBI合同ユニットは、
アルドリッチ・エイムズ本人を面談した。
この時点で彼は、
合同チームの優先対象29人に含まれている。
しかし面談は、
「あなたをスパイ容疑者として調べている」
という尋問ではなかった。
主に確認されたのは、
1985〜86年当時、
誰がどの仕事をしていたか。
書類がどう流れていたか。
誰がどの会議へ出席していたか。
どの情報へ誰がアクセスできたか。
といった、
いわば業務フローの確認だった。
面談対象者には、
自分が容疑者リストに入っていることも、
捜査方法も伝えられていなかった。
エイムズは自分から「開けたままの金庫」の話をした
この面談で興味深い出来事がある。
エイムズは自ら、
ソ連・東欧部門勤務時代に、
金庫を閉めず施錠しなかったことでセキュリティ違反を受けたことがあると二度説明した。
その金庫には、
ケースの時系列資料や、
別の金庫に関係する情報が入っていたという。
上院報告は後知恵で、
エイムズが、
「1985〜86年の情報漏洩は、自分の金庫から他人が情報を得た可能性もある」
という方向へ疑いを向けようとした可能性を指摘している。
ただしこれは、
エイムズ本人がそう意図したと当時確認された事実ではない。
公式報告による事後的な評価である。
結果的には逆だった。
エイムズについて、さらに詳しく調べる材料になった。
合同チームは、エイムズだけをコンピューターで詳しく検索した
1991年後半。
合同ユニットはCIA作戦部門の記録について、
エイムズに関する包括的なコンピューター検索を行った。
ここでも重要なのは、
同じ検索は他のモグラ候補には行われなかった
という点である。
検索から出てきたのが、
1985〜86年にエイムズが接触していたソ連外交官、
セルゲイ・チュヴァーヒン
に関する記録だった。
第2回で扱ったように、
エイムズがKGBへの秘密連絡を始めた時期に利用していた接触相手である。
1986年の記録に、「未報告の接触」という痕跡が残っていた
CIA記録には、
1986年7月のケーブルも残っていた。
そこにはFBI側から、
エイムズとチュヴァーヒンの接触について、CIAへ正式報告されていないものがある
という問い合わせが記録されていた。
CIA本部は当時、
エイムズとチュヴァーヒンの接触は短時間のものが3回程度で、
作戦上の進展はなかったと回答していた。
さらに詳しい説明を、
ローマ赴任後のエイムズ本人から送らせるとしていた。
しかし、その追加報告は送られなかった。
そしてCIA側も追跡しなかった。
1986年に残っていた小さな未解決事項が、
1991年になって再び浮上した。
ただし、まだ決定的ではなかった
CIA記録だけを見ると、
エイムズとチュヴァーヒンの関係には疑問がある。
しかし、
「ソ連外交官と接触していた」
だけではスパイ行為の証明にはならない。
エイムズは正規のCIA業務として、
ソ連関係者へ接触する立場でもあったからである。
必要なのは、
報告された接触と、実際の接触が一致しているのか
を確かめることだった。
ここでCIA内部の記録だけでは足りない。
FBI側の記録を見る必要がある。
FBI本部の記録を見ても、最初は何も出なかった
合同ユニットに参加していたFBI側メンバーの一人は、
FBI本部に保管された記録から、
エイムズとチュヴァーヒンの接触を調べた。
だが、重要なものは見つからなかった。
ここでも記録が分断されていた。
必要な資料はFBI本部ではなく、
FBIワシントン支局側の記録に残っていたのである。
その記録が詳しく調べられるのは、
1992年に入ってからだった。
そしてそこから、
エイムズが1985〜86年にチュヴァーヒンと多数接触していたにもかかわらず、その多くをCIAへ正式報告していなかった
ことが分かっていく。
1991年12月|合同チームは一度成果を整理する
1991年12月。
CIA・FBI合同ユニットは、
両組織の上級管理者を集めてオフサイト会議を開いた。
それまでに、
198人のアクセスリスト。
29人の優先対象。
面談。
セキュリティ記録。
エイムズの時系列。
チュヴァーヒン関係資料。
などが集まり始めていた。
翌1992年1月には、
FBIワシントン支局も、
CIA・FBIへのソ連側侵入を調べる独自タスクフォースを設置する。
モグラ捜査は、
1986〜90年とは明らかに違う段階へ入っていた。
それでも合同チームには構造的な弱点が残っていた
1991年の合同捜査は大きな前進だった。
しかし後の司法省Inspector Generalは、
このチームにも問題があったと評価している。
最大の問題は、
「分析チームなのか、容疑者を追う捜査チームなのか」が最初から明確ではなかったこと。
一部の担当者は、
失われたケースすべてを分析して原因を説明することを重視した。
一方では、
エイムズを含む特定人物について調査が進められた。
小規模なチームが、
「事件全体の分析」
と
「個別容疑者の捜査」
を同時に行った。
その結果、
限られた人員が分散したと司法省OIGは評価している。
1991年の時点で、エイムズはどこまで怪しかったのか
ここまでを整理すると、
1991年末のエイムズには複数の警告材料が重なっていた。
| 材料 | 1991年時点の意味 |
|---|---|
| 1985〜86年の失われたケースへの広いアクセス | モグラとして犯行可能な位置にいた。 |
| 1989年から問題化した突然の裕福さ | 政府給与だけでは説明しにくい生活水準だった。 |
| 54万ドル住宅を住宅ローンなしで購入 | 資金源を確認する必要があった。 |
| 大口現金取引 | 収入との整合を確認する必要があった。 |
| チュヴァーヒンとの接触 | 業務上の接触自体は合法だが、報告内容との整合に疑問が残った。 |
| 合同チーム全員が29人の優先対象に選定 | 複数の異なる評価軸でも残った。 |
| エイムズだけ詳細な時系列を作成 | 他の候補より深い分析が始まっていた。 |
これだけ見ると、
すぐFBIが本格捜査を始めても不思議ではない。
しかし実際には、
そうならなかった。
なぜ「29人の中のエイムズ」から、一気に逮捕へ進まなかったのか
理由の一つは、
それぞれの材料に一応の別解釈が存在したことである。
ソ連ケースへアクセスしていたのは、
仕事上必要だったから。
ソ連外交官との接触も、
正規業務として説明できる。
裕福さについては、
妻ロサリオのコロンビア側家族が裕福だからだと説明していた。
そして1991年には、
定期的な身辺再調査とポリグラフ検査も行われていた。
その結果は、
エイムズへの疑いを強めるどころか、
一時的に弱める方向へ働く。
ここで事件は、
もう一つの重要な分岐点へ入る。
FACT CHECK|「198人から29人」は何を意味するのか
FACT|1991年4月、CIAとFBIは1985〜86年の損失について合同で調べることに合意した
1991年夏からCIAのCounterintelligence Centerを拠点に合同ユニットが活動した。
FACT|1991年8月までに198人のCIA職員が抽出された
1985〜86年に失われたケースへアクセスできた可能性のある職員であり、198人全員が犯罪容疑者だったという意味ではない。
FACT|198人のうち29人が優先調査対象になった
アクセスだけでなく、勤務上の問題やその他の懸念も含めて選別された。
FACT|エイムズは合同ユニット全メンバーのリストに入った
失われたケースへのアクセスと、未解決だった突然の裕福さが主な理由だった。
FACT|エイムズより強く疑われていた人物もいた
1991年8月時点でエイムズが唯一または確定的な最有力容疑者だった、とするのは正確ではない。
FACT|合同ユニットはエイムズについて詳細な時系列表を作成した
同様の詳細なchronologyは他のモグラ候補には作られていなかったと上院報告は記録している。
FACT|1991年11月12日、合同ユニットはエイムズ本人を面談した
ただしスパイ容疑を直接追及する尋問ではなく、1985〜86年当時の情報アクセスや業務フローを確認する面談だった。
OFFICIAL RETROSPECTIVE ASSESSMENT|エイムズが金庫の施錠違反を自ら持ち出したのは、別の漏洩可能性へ注意を向けようとした可能性がある
これは後の上院報告による事後評価であり、当時本人の意図として確認された事実ではない。
FACT|1991年後半、エイムズについて包括的なCIA記録検索が行われた
同規模の検索は他の候補については行われず、チュヴァーヒンとの接触記録などが再発見された。
1991年|モグラ捜査が変わった一年
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1991年4月 | CIAとFBIが1985〜86年の情報源喪失について合同で再調査することに合意。 |
| 1991年夏 | CIA・FBI合同ユニットが本格活動を開始。 |
| 1991年8月まで | 失われたケースへアクセスできたCIA職員198人を抽出。 |
| 1991年8月 | 198人の中から29人を優先調査対象に選定。エイムズも含まれる。 |
| 1991年10月 | 新しいCIA内部侵入情報が入り、一時的に調査を変更。後に信頼できない情報と判断。 |
| 1991年11月12日 | 合同ユニットがエイムズを面談。 |
| 1991年後半 | エイムズについて詳細な時系列表と包括的なCIA記録検索を実施。 |
| 1991年12月 | CIA・FBI上級管理者を交えたオフサイト会議を開催。 |
| 1992年1月 | FBIワシントン支局もソ連側侵入を扱う独自タスクフォースを設置。 |
198人から29人へ。そして29人から1人へ
1991年の合同ユニットが行ったことは、
映画のような尾行や秘密捜索ではない。
大量の過去記録を読む。
アクセスを照合する。
人事記録を見る。
本人や同僚へ聞く。
過去の報告書を探す。
異なる組織に残っている記録を突き合わせる。
極めて地味な作業だった。
しかし、
1986〜1990年の捜査との最大の違いはそこにある。
原因となり得る現象を探すのではなく、
人を一覧化し、一人ずつ削る。
198人。
29人。
その29人に、
アルドリッチ・エイムズは残った。
しかもアクセスだけではない。
金。
住宅。
現金取引。
ソ連外交官との接触。
複数の異常が、
少しずつ一人の人物へ集まり始めていた。
それでも1991年の終わり、
CIA内部ではエイムズへの疑いを一度弱める材料も存在した。
その中心にあったのが、
「妻の家族は裕福だ」という説明と、CIAのポリグラフ検査だった。
次回|なぜ「説明できない資産」は見逃されたのか
1989年。
エイムズ夫妻は54万ドルの住宅を購入した。
住宅ローンはなかった。
高級車。
高額な衣類。
大きなクレジットカード支出。
CIA職員の給与だけでは説明しにくい生活が、
周囲から見えるほどになっていた。
そしてCIAは、
実際にその金について疑っていた。
1991年には身辺再調査も行った。
ポリグラフ検査も行った。
それでもエイムズは、
機密情報へのアクセスを失わなかった。
なぜか。
次回は、
「見つからなかった警告」ではなく、「見えていたのに決定打にならなかった警告」
を追う。
CASE FILE 34|アルドリッチ・エイムズ事件 全10回
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第1回|アルドリッチ・エイムズ事件とは?|CIA内部の「モグラ」はどう特定され、逮捕されたのか
-
第2回|アルドリッチ・エイムズはなぜKGBへ接触したのか|1985年4月、CIA職員がソ連大使館を訪れた日
-
第3回|エイムズは何をKGBへ渡したのか|CIA・FBI情報源の喪失と1985〜86年の異常
-
第4回|なぜ最初のモグラ捜査はエイムズへ届かなかったのか|1986〜1990年、CIAとFBIの迷走
- 第5回|CIAとFBIはどう容疑者を絞ったのか|1991年、198人から29人へ進んだ合同防諜捜査【現在の記事】
-
第6回|なぜ「説明できない資産」は見逃されたのか|現金購入の住宅、ジャガー、ポリグラフ検査
-
第7回|FBIはなぜエイムズへ本格捜査を向けたのか|1993年、資金分析からFISA監視へ
-
第8回|郵便受けのチョーク印は何を意味したのか|SMILE信号地点、住宅捜索、ボゴタ会談
-
第9回|アルドリッチ・エイムズはどう逮捕されたのか|1994年2月21日から有罪答弁・終身刑まで
-
第10回|アルドリッチ・エイムズ事件は米国防諜体制をどう変えたのか|制度改革と2026年の死去
出典・参考資料
-
U.S. Senate Select Committee on Intelligence,
An Assessment of the Aldrich H. Ames Espionage Case and Its Implications for U.S. Intelligence,
S. Prt. 103-90, 1994. -
U.S. Department of Justice, Office of the Inspector General,
A Review of the FBI’s Performance in Uncovering the Espionage Activities of Aldrich Hazen Ames,
Unclassified Executive Summary, 1997. -
Federal Bureau of Investigation,
Aldrich Ames. - Central Intelligence Agency historical materials concerning the Ames mole-hunt team.
資料について:
本記事では1991年に開始されたCIA・FBI合同防諜捜査について、1994年米上院情報特別委員会報告と1997年米司法省Inspector General報告を中心に再構成した。「198人」は失われたケースへのアクセス可能性から抽出されたCIA職員であり、198人全員を犯罪容疑者と扱ったものではない。そのうち29人が優先調査対象となった。エイムズは合同ユニット全メンバーのリストに入り、複数のリストで上位に置かれた一方、当時エイムズより強く疑われた別の職員も存在した。このため、1991年8月の時点ですでにエイムズが確定的な最有力犯だったとは記述していない。また、エイムズ面談時の発言についての「疑いをそらそうとした可能性」は上院報告による事後評価であり、確認事実とは分離した。