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郵便受けのチョーク印は何を意味したのかSMILE信号地点、住宅捜索、ボゴタ会談

郵便受けのチョーク印は何を意味したのか|SMILE信号地点、住宅捜索、ボゴタ会談

諜報・スパイ事件

1993年10月13日、午前7時頃。

ワシントンD.C.北西部。

37th StreetとR Streetの交差点にある郵便受けの側面に、
一本の横向きのチョーク線が現れていた。

ただの落書きではない。

FBIはすでに、
この郵便受けがアルドリッチ・エイムズとロシア情報機関の間で使われる

「SMILE」

と呼ばれる信号地点であることを把握していた。

前日の10月12日。

電子監視によって、
エイムズが妻ロサリオへ、
翌朝早く出て

「signal」

を置き、
自分が会合へ行くことを確認するという趣旨の会話をしていることも把握していた。

翌13日朝。

エイムズは午前6時22分頃に自宅を出た。

午前6時44分頃に戻った。

そして午前7時頃、
SMILEの郵便受けには横方向のチョーク印があった。

重要なのは、

FBI捜査官は、エイムズが実際にチョークを付ける瞬間そのものは目撃していない。

それでも、
10月12日の会話。

翌朝の行動。

郵便受けに現れた印。

そして数日前にエイムズ宅から回収した秘密通信資料。

それらは同じ一点へつながっていた。

約8年間、
CIAとFBIが探してきた「モグラ」は、
もはや分析表の中だけにいる人物ではなかった。

ロシア側との秘密通信を、FBIの監視下で実際に続けていた。

前回|1993年、FBIはエイムズ一人を追う捜査へ移った

第7回では、
1992年の財務分析から1993年の本格捜査開始までを追った。

エイムズの銀行口座には、
CIA給与では説明できない巨額の資金が入っていた。

さらに入金時期を調べると、
1985〜86年のソ連外交官セルゲイ・チュヴァーヒンとの接触時期と対応するものが見つかった。

スイスの口座も判明した。

1993年にはFBIが専用チームを編成し、
FISAに基づく電子監視、
物理監視、
mail cover、
車両追跡などが始まった。


← 第7回|FBIはなぜエイムズへ本格捜査を向けたのか|1993年、資金分析からFISA監視へ

1993年夏|FBIが知りたかったのは「今も続いているのか」

この時点で、
エイムズが過去にソ連側へ情報を渡したという疑いは極めて強くなっていた。

だがFBIには、
さらに確認したいことがあった。

1993年現在も、ロシア情報機関との秘密関係が続いているのか。

もし続いているなら、

どのように連絡するのか。

どこでメッセージを渡すのか。

どこで金を受け取るのか。

次の直接会合はいつなのか。

これを把握できれば、
財務記録や過去のアクセス分析とは異なる、
直接的な証拠を得られる。

FBIはエイムズ夫妻の行動と通信を継続的に監視した。

9月9日|夫婦はワシントン市内のある交差点へ向かった

1993年9月9日。

エイムズ夫妻は、
息子の学校で行われた集まりに参加した。

その後、
車でワシントンD.C.北西部へ向かった。

行き先は、

Garfield StreetとGarfield Terraceの交差点付近。

FBIの監視によれば、
夫妻はそこで、
ロシア側が信号を残していないか確認していた。

この頃エイムズは、
11月に予定されるロシア側担当者との直接会合に向け、
複数の秘密通信を行っていた。

まだ逮捕しない。

FBIは、
通信経路そのものを追っていた。

9月15日|ゴミの中から、破られた手書きメモが出た

9月15日。

FBIはエイムズ宅から出されたゴミを調べた。

そこで、
エイムズ本人の筆跡とみられる
破られたメモが見つかった。

内容は、
コロンビアのボゴタで予定される秘密会合に関係するものと判断された。

予定日は、

1993年10月1日。

この段階でFBIは、
単にエイムズがロシア側と通信しているだけではなく、

国外で直接会おうとしている可能性

を具体的に把握した。

9月29日|予定されていたボゴタ訪問が突然消える

しかし9月29日。

FBIが監視していた電話で、
エイムズ夫妻は不自然な会話をした。

エイムズは妻へ、

「訪問がキャンセルされた」

という趣旨の話をした。

ロサリオは、

「では何かを回収するという意味?」

という趣旨で応じた。

エイムズは肯定した。

翌9月30日。

エイムズは、
ボゴタへの航空予約を取り消した。

FBIは、
ロシア側が新しい日程や連絡方法を伝えようとしている可能性を考えた。

10月6日|ゴミから「消したつもりの文章」が出てくる

10月6日。

FBIは再びエイムズ宅のゴミを調べた。

そこで見つかったのは、
タイプライターまたはプリンターのリボンだった。

リボンには、
以前に打ち出した文字の痕跡が残る。

調べると、
1992年頃にエイムズが作成したとみられる2つの文書を復元できた。

その内容には、

  • CIA職員に関する情報
  • 機密情報へのアクセス
  • CIAの秘密作戦

などが含まれていた。

ゴミ箱へ捨てた物から、
秘密活動の痕跡が積み上がっていった。

10月9日|FBIはエイムズ宅へ入った

そして10月9日。

捜査は大きく進んだ。

FBIは、
バージニア州アーリントンにあるエイムズ夫妻の自宅を秘密裏に捜索した。

ここで得られた資料は、
それまでとは質が違った。

発見1|1992年カラカス会談についてのKGB宛てメモ

自宅内で見つかったタイプライター・リボンには、
1992年10月にベネズエラのカラカスで行われた会合について、

エイムズがKGB側担当者へ書いたメモ

の痕跡が残っていた。

過去のロシア側との直接会合を示す資料だった。

発見2|ワシントンの郵便受けを「信号地点」とする文書

さらに、
エイムズのコンピューター内から重要な文書が見つかった。

そこには、
ワシントンD.C.の

37th StreetとR Streetの交差点にある郵便受け

が、
秘密連絡のためのsignal siteとして記録されていた。

後の公式資料では、
この地点は

「SMILE」

と呼ばれている。

SMILEは「文書を置く場所」ではなく「合図を出す場所」

ここは用語を分けた方が分かりやすい。

スパイ通信では、
本人同士が直接会わずに情報を交換するため、
複数の場所や方法を使うことがある。

Signal site

「次の行動をする」

「メッセージを置いた」

「会合に同意する」

といった意思を、
簡単な印などで知らせる場所。

Dead drop

文書、金、指示書などを、
一方が置き、
後から別の人物が回収する場所。

37th and R Streetsの郵便受け――SMILEは、

基本的には信号地点だった。

郵便受けそのものへ機密文書を入れて受け渡す、
という意味ではない。

発見3|KGBとの関係を記録したコンピューター文書

さらに重大だったのが、
エイムズのコンピューターから得られた一連の文書だった。

内容には、

  • 秘密通信の方法
  • CIAの秘密作戦
  • CIAの人的情報源
  • ロシア側から受け取った金
  • 過去の連絡

などが含まれていた。

これまでFBIは、

「金が多すぎる」

「ソ連外交官との接触と入金が対応する」

という外側からの証拠を集めていた。

10月9日の住宅捜索では、

エイムズ自身が作成・保存していた秘密関係の記録

へ到達した。

コンピューターから、秘密通信の「地図」が見え始めた

これによってFBIは、
それまで断片的に観察していた行動を、
通信計画へ対応させられるようになった。

なぜあの交差点へ行ったのか。

なぜ特定の場所を通過するのか。

どの地点が信号地点なのか。

どこがdead dropなのか。

そして、
次のボゴタ会談をどう確認するのか。

エイムズが使う通信体系を知ることで、
FBIは

「不審な行動を観察する側」から、「次に何が起こるかを予測する側」

へ回った。

10月12日|「明日の朝、signalを置く」

住宅捜索から3日後。

1993年10月12日。

FBIが電子監視していたエイムズ夫妻の会話に、
決定的な内容が入った。

エイムズは、
翌朝早く仕事へ出る必要があると話した。

理由について、

自分が行くことを確認するためのsignalを置く

という趣旨の発言をした。

FBIには、
すでにSMILEの場所が分かっている。

翌朝、
監視すべき地点も分かっていた。

10月13日午前6時22分|エイムズが自宅を出る

翌13日。

FBIによれば、
エイムズは午前6時22分頃に自宅を出た。

そして、
午前6時44分頃に戻った。

22分ほどの外出だった。

この時間なら、
アーリントンの自宅からワシントンD.C.の信号地点へ向かい、
戻ることが可能だった。

午前7時|SMILEに横向きのチョーク線があった

FBI捜査官がSMILEを確認すると、
午前7時頃、

郵便受けの側面に横向きのチョーク印

が現れていた。

ここで史実上の注意点がある。

FBIの現在の事件紹介では、
エイムズがチョーク印を残したことが簡潔に説明されている。

一方、
1994年の米上院情報特別委員会報告は、

捜査官はエイムズが実際に線を引く瞬間を目撃していなかった

と明記している。

したがって、

「FBIがエイムズの手元を目撃した」

とは書かない方が正確である。

では、なぜエイムズが付けたと判断できたのか

証拠は一本のチョーク線だけではなかった。

FBIは、

1. エイムズ宅のコンピューターからSMILEの位置を確認していた。

2. 前日の会話で、翌朝signalを置くという趣旨の発言を把握していた。

3. 翌朝6時22分頃にエイムズが外出した。

4. 6時44分頃に戻った。

5. 7時頃にはSMILEに新しい横向きのチョーク線があった。

という流れを把握していた。

さらに、
その日の午後にはチョーク線が消えていた。

つまり、

通信計画、会話、行動、現場の変化が一致した。

一本の線の意味|「ボゴタへ行く」

FBIが押収・回収した通信資料から、
SMILEの印が何を意味するかも分かっていた。

今回のsignalは、

予定されている国外での直接会合へ出席する意思を確認するためのもの

だった。

当初10月1日に予定されていたボゴタ会談はキャンセルされた。

新しい日程が設定され、
エイムズはそれを確認する必要があった。

会合は、
1993年11月初め。

場所は、

コロンビア・ボゴタ。

なぜ国外で会うのか

エイムズは1990年代に入ると、
ロシア側担当者との直接会談を主に国外で行うようになっていた。

1990年にはウィーン。

1990年12月にはボゴタ。

1991年にもボゴタ。

1992年にはカラカス。

そして1993年11月にもボゴタ。

米国内では、
信号地点やdead dropなど、
本人同士が直接会わない通信方法を利用する。

定期的な直接会談は国外で行う。

長期間続いた関係には、
こうした通信計画が形成されていた。

10月後半|ロサリオが心配していたのは「大量の現金」だった

ボゴタ出発が近づくと、
FBIが監視する夫婦の会話にも変化が現れた。

ロサリオが気にしていたのは、
帰国時に持つことになる金だった。

税関などで、
大きな現金を持っていることが発見されないか。

夫婦はそのリスクについて会話していた。

FBI側から見れば、

ボゴタ会談=ロシア側からの資金受領

という疑いがさらに強くなった。

11月1日|エイムズがボゴタへ向かう

1993年11月1日。

エイムズはコロンビアのボゴタへ向かった。

FBIも追跡した。

FBIの現在の公式事件史では、
捜査官はボゴタで

エイムズと、別行動を取るロシア側担当者の双方を監視した

と説明している。

一方、
1994年の上院報告では、
FBIが監視した電話会話などから、
現地で実際に会合が成立したことを確認した経緯が記録されている。

直接会談は一度ではなかった

公式記録によれば、
エイムズは現地でロシア側担当者と、
少なくとも2回会った。

日時 確認された接触
11月1日夜 ロシア側担当者との会合
11月2日午後 再びロシア側担当者との会合

ボゴタ滞在中、
エイムズはアーリントンに残ったロサリオへ電話をかけた。

11月1日の会話では、
その日に短い会合を行い、
翌日にもさらに会う予定があるという趣旨の話をしている。

FBIはその会話も監視していた。

ロシア側は金だけではなく「1994年の通信計画」を渡した

ボゴタ会談でロシア側から渡されたのは、
現金だけではなかった。

エイムズは、
1994年に使用する新しい秘密通信計画
も受け取った。

そこには、

  • ワシントンD.C.周辺の新しいsignal site
  • 新しいdead drop
  • 1994年2月の交換予定
  • 3月
  • 5月
  • 8月
  • 9月

などが組み込まれていた。

さらに、
1994年11月にはカラカスまたはキト、
1995年にはウィーンまたはパリで直接会談する計画まであった。

これは重要である。

ロシア側は、
1993年11月で関係を終わらせようとしていたのではない。

少なくとも1995年まで続ける通信体系を準備していた。

「あなたのために190万ドルを保管している」

1994年上院報告によれば、
ボゴタ会談でロシア側はエイムズへ、

190万ドルを彼のために保管している

とも伝えた。

すべてを一度に現金で渡すのではなく、
将来のためにロシア側が保持している資金だった。

これは、
エイムズとロシア側の関係が
単発の情報売買からはるかに遠いところへ進んでいたことを示している。

帰国すると、銀行口座に約4万3,200ドルが入った

ボゴタ会談後。

FBIは再びエイムズの金融記録を追った。

1993年11月3日から10日にかけて、
地元の金融機関へ入金された金額は、
合計およそ

4万3,200ドル。

つまり、
第7回で捜査の突破口になった

「ロシア側との接触」

「その後の大口入金」

というパターンが、
FBIの監視下でもう一度現れた。

過去の記録ではなく、「現在進行中」で再現された

ここが1992年の財務分析との最大の違いだった。

1992年に捜査官が行ったのは、
何年も前の銀行記録と接触記録を後から照合する作業だった。

1993年秋には、

秘密通信の準備。

signal。

国外移動。

ロシア側との会談。

現金。

帰国後の入金。

その流れを、

FBIが現在進行形で追跡した。

この時点で逮捕しなかったのはなぜか

ここまで証拠が集まれば、

「なぜ11月に逮捕しなかったのか」

という疑問が出る。

FBIには、
監視を継続する理由があった。

エイムズはまだCIA職員だった。

ロシア側との通信も続いていた。

通信地点や担当者について、
さらに情報を得られる可能性がある。

また、
証拠を積み重ねれば、
刑事事件としての立証もより強くなる。

そこでFBIは、

逮捕ではなく、ほぼ常時監視を続ける

方針を取った。

11月以降|ほぼ常時監視へ

上院報告によれば、
1993年11月から逮捕まで、
エイムズはFBIによる

ほぼ常時の物理監視

下に置かれた。

FBIは、
次に機密情報をロシア側へ渡す機会を警戒していた。

エイムズがどこへ行くか。

誰と接触するか。

どのsignal siteを使うか。

どのdead dropへ向かうか。

監視は続いた。

それでもCIA内部では、機密情報へのアクセスが続いていた

一方、
CIA側では危険な状態が続いていた。

エイムズがFBIの最重要監視対象であることは、
職場の全員に共有されていない。

捜査を悟らせないためである。

その結果、
エイムズには機密情報へのアクセスが残った。

1993年秋には、
CIAコンピューターシステムの変更により、
大量の機密情報をフロッピーディスクへダウンロードできるようになった。

エイムズは、
自身の担当業務と直接関係しないロシア・欧州関係の情報まで保存していた。

逮捕後の調査では、
その情報をロシア側へ渡す前に逮捕されたことが確認されている。

つまり、

FBIがモグラをほぼ特定して監視している一方で、その人物がCIA内部では新しい機密情報へアクセスできる

という危険な状態だった。

トルコ出張では、上司に自分のパソコンを貸していた

1993年9月。

エイムズはCIAの公務でトルコへ出張した。

その際、
個人所有のノートパソコンを持参した。

ところがそのパソコンには、
許可なく保存した大量の機密情報が入っていた。

同行した上司が、
ゲームをするためにパソコンを借りたいと言った。

エイムズは貸した。

上司は内部を見て、
大量の機密ケーブルやメモが保存されていることに驚いた。

さらに
「VLAD」
というファイル名も目にしたが、
中身までは開かなかった。

帰国後、
このCIA職員はCIAとFBIへ報告した。

すでにFBIから疑われている人物が、
自分の秘密活動を示す可能性のあるパソコンを、
上司へ自ら貸していた。

事件末期のエイムズのセキュリティ管理は、
極めて杜撰になっていた。

郵便受けのチョーク印だけで捕まったわけではない

アルドリッチ・エイムズ事件の象徴的な証拠として、
SMILEの郵便受けは非常に分かりやすい。

実際、
現在のFBI公式ページでも写真が公開されている。

しかし、

一本のチョーク線だけが決定的証拠になったわけではない。

その線を意味ある証拠にしたのは、
その前に積み重なった情報だった。

銀行記録。

ソ連外交官との接触。

スイス口座。

FISA電子監視。

ゴミから出た手書きメモ。

プリンター・リボン。

住宅捜索。

コンピューター内の通信計画。

夫婦の会話。

エイムズの行動。

ボゴタでの会合。

帰国後の現金入金。

異なる証拠が、
相互に補強し合っている。

「一つの証拠」ではなく「閉じた証拠の輪」ができた

1991年までのモグラ捜査には、
説明の逃げ道があった。

巨額の住宅。

→妻の家族からの金かもしれない。

ソ連外交官との接触。

→CIAの正規業務かもしれない。

ポリグラフ。

→最終的には合格。

しかし1993年秋になると、
それぞれの別解釈が成立しにくくなる。

コンピューターには秘密通信計画がある。

その計画にSMILEがある。

翌朝signalを置くという会話がある。

実際に郵便受けへ印が出る。

そのsignalが示すボゴタへエイムズが行く。

現地でロシア側担当者と会う。

金を受け取る。

帰国後に大口入金がある。

ここまでつながると、

それぞれを別々の偶然で説明することは難しい。

FACT CHECK|1993年秋、FBIは何を確認したのか

FACT|1993年9月15日、エイムズ宅のゴミからボゴタ秘密会合に関係するとみられる手書きメモが見つかった

当初は10月1日の会合を示すものと判断された。

FACT|9月29日の監視電話で、予定されていた訪問のキャンセルについて夫妻が話した

翌30日、エイムズはボゴタへの航空予約を取り消した。

FACT|10月6日、ゴミからタイプライターまたはプリンター・リボンが回収された

復元された文書にはCIA職員、機密情報へのアクセス、秘密作戦等についての内容があった。

FACT|10月9日、FBIはエイムズのアーリントンの自宅を捜索した

KGB側へのメモ、SMILE信号地点を示すコンピューター文書、秘密通信・CIA作戦・人的情報源・支払い等に関する文書が確認された。

FACT|37th StreetとR Streetの郵便受けはSMILEと呼ばれるsignal siteだった

文書やFBI公式資料で確認されている。

FACT|10月12日、エイムズは翌朝signalを置くという趣旨の会話をした

FBIの電子監視によって確認された。

FACT|10月13日朝、SMILEに横向きのチョーク印が現れた

エイムズは6時22分頃から6時44分頃まで外出し、7時頃に印が確認された。

IMPORTANT|FBIはエイムズが実際にチョーク線を引く瞬間そのものは目撃していない

1994年米上院報告に明記されている。会話、行動、通信資料、現場の変化を総合してエイムズによるsignalと判断された。

FACT|11月1〜2日、エイムズはボゴタでロシア側担当者と少なくとも2回会った

11月1日夜と11月2日午後に会合したことが公式調査で確認されている。

FACT|ボゴタ会談で現金と新しい秘密通信計画を受け取った

1994年以降のsignal site、dead drop、直接会談予定などが含まれていた。

FACT|ロシア側は190万ドルをエイムズのために保有していると伝えた

米上院情報特別委員会報告がStatement of Factsを基に記録している。

FACT|帰国後の11月3〜10日、約4万3,200ドルの大口入金が確認された

過去の「接触後に現金が入る」というパターンがFBIの監視下でも再現された。

1993年9〜11月|証拠がつながっていく

日付 出来事
9月9日 エイムズ夫妻がGarfield Street / Garfield Terrace付近でロシア側のsignalを確認。
9月15日 ゴミからボゴタ秘密会合に関係するとみられる破られたメモを回収。
9月29日 夫妻の電話で予定会合のキャンセルに関する会話を監視。
9月30日 エイムズがボゴタ行き航空予約を取り消す。
10月6日 ゴミからCIA関連情報の残るタイプライター/プリンター・リボンを回収。
10月9日 FBIがエイムズ宅を秘密捜索。SMILEを含む秘密通信資料を確認。
10月12日 翌朝signalを置くという趣旨の夫婦の会話を電子監視で把握。
10月13日朝 SMILEの郵便受けに横向きのチョーク印を確認。
11月1日 エイムズがボゴタへ渡航。夜にロシア側担当者と会合。
11月2日 午後、再びロシア側担当者と会合。
11月3〜10日 帰国後、合計約4万3,200ドルの入金をFBIが確認。
11月以降 FBIがほぼ常時の物理監視を継続。

8年かけて、ようやく「行動」と「証拠」が一致した

1985年、
CIAには情報源喪失という結果しか見えていなかった。

1986年、
内部にモグラがいる可能性を考えた。

1991年、
198人から29人へ絞った。

1992年、
エイムズの金とソ連側との接触がつながった。

1993年。

ついにFBIは、

秘密通信の文書。

signal site。

チョーク印。

ボゴタ会談。

現金。

その一連の流れを、
同じ捜査の中で確認した。

「CIA内部にモグラがいる」

という仮説は、

「アルドリッチ・エイムズが現在もロシア側と秘密関係を続けている」

という具体的な事件へ変わっていた。

残る問題は一つ。

いつ逮捕するか。

次回|なぜ1994年2月21日だったのか

FBIは1993年11月の時点で、
極めて強い証拠を持っていた。

しかし監視は続いた。

エイムズ自身も、
自分がFBIにこれほど追われているとは知らない。

CIA職員として働き、
機密情報へのアクセスを続けていた。

そして1994年初頭、
一つの予定が捜査側を動かす。

エイムズがCIAの公務でモスクワへ出張する。

国外へ出せば、
ロシア側へ警告する可能性がある。

出張を再び止めれば、
自分が疑われていると察知する可能性がある。

FBIは決断する。

1994年2月21日。

アーリントンの自宅を出たエイムズの前に、
FBI捜査官が現れた。

次回は、

9年間続いたスパイ活動が終わった朝から、有罪答弁、終身刑まで

を追う。

前の記事:

← 第7回|FBIはなぜエイムズへ本格捜査を向けたのか|1993年、資金分析からFISA監視へ

次の記事:

第9回|アルドリッチ・エイムズはどう逮捕されたのか|1994年2月21日から有罪答弁・終身刑まで →

CASE FILE 34|アルドリッチ・エイムズ事件 全10回

  1. 第1回|アルドリッチ・エイムズ事件とは?|CIA内部の「モグラ」はどう特定され、逮捕されたのか
  2. 第2回|アルドリッチ・エイムズはなぜKGBへ接触したのか|1985年4月、CIA職員がソ連大使館を訪れた日
  3. 第3回|エイムズは何をKGBへ渡したのか|CIA・FBI情報源の喪失と1985〜86年の異常
  4. 第4回|なぜ最初のモグラ捜査はエイムズへ届かなかったのか|1986〜1990年、CIAとFBIの迷走
  5. 第5回|CIAとFBIはどう容疑者を絞ったのか|1991年、198人から29人へ進んだ合同防諜捜査
  6. 第6回|なぜ「説明できない資産」は見逃されたのか|現金購入の住宅、ジャガー、ポリグラフ検査
  7. 第7回|FBIはなぜエイムズへ本格捜査を向けたのか|1993年、資金分析からFISA監視へ
  8. 第8回|郵便受けのチョーク印は何を意味したのか|SMILE信号地点、住宅捜索、ボゴタ会談【現在の記事】
  9. 第9回|アルドリッチ・エイムズはどう逮捕されたのか|1994年2月21日から有罪答弁・終身刑まで
  10. 第10回|アルドリッチ・エイムズ事件は米国防諜体制をどう変えたのか|制度改革と2026年の死去

出典・参考資料

資料について:
本記事では1993年9〜11月の監視・秘密捜索・SMILE信号地点・ボゴタ会談について、1994年米上院情報特別委員会報告とFBI公式事件史を中心に再構成した。特に1993年10月13日のチョーク印について、FBI公式事件紹介はエイムズが印を付けた事実を簡潔に記載しているが、上院報告は捜査官がエイムズ本人の手で印を付ける瞬間を直接目撃していなかったと記録している。そのため本記事では、前日の電子監視、翌朝の外出、SMILEの位置を示す押収資料、7時頃に現れた印を総合してエイムズによるsignalと判断された、と記述した。また1993年時点の相手機関はソ連KGB解体後のロシア対外情報機関であるため、1993年の現行関係については「ロシア側」「SVR系統」とし、公式報告が歴史的経緯を含めKGBと表記する箇所との混同を避けた。