現実世界のCASE FILE 現実世界のCASE FILE

ヒンターカイフェック農場はどこにあったのか事件現場と周辺地域を地図で確認

ヒンターカイフェック農場はどこにあったのか|事件現場と周辺地域を地図で確認

殺人・重大犯罪

ヒンターカイフェック事件は「人里離れた農場で一家6人が殺害された事件」と紹介されることが多い。その表現から、周囲数キロに家も道もない山奥の一軒家を想像するかもしれない。しかし、1922年の警察記録と現在のバイエルン州資料を照合すると、実際の地理はもう少し複雑である。

ヒンターカイフェックは村の名前ではなく、グルーバー/ガブリエル家が暮らしていた一つの単独農場だった。2026年のバイエルン州立公文書館カタログに引用された現場記録では、歴史的住所は「Gröbern 27½, Gemeinde Wangen」。最寄りの農家とGröbernの集落までは徒歩約10~15分とされている。

バイエルン州公式文化ポータルbavarikonは、農場をGröbernの南西約500メートル、Schrobenhausenから約6キロの場所にあった単独農場としている。周囲には畑と林があり、夜間の孤立性は高かった一方、地域社会から完全に切り離された場所ではなかった。

そして事件を理解するうえで、地理以上に重要なのが建物そのものの構造である。住居、家畜小屋、納屋は完全に離れた別棟ではなく、連続した農場建築の中で接続していた。6人の遺体が複数の区画で発見された理由を考えるには、現代の「家+離れた納屋」というイメージをいったん外す必要がある。

CASE FILE 04|ヒンターカイフェック事件特集(全8回)

この特集では、1922年の六重殺人を「不気味な未解決事件」という印象だけで扱わない。事件前の異変、3月31日夜から遺体発見までの時系列、農場の位置と構造、警察捜査、主要人物、犯人説、後世に広まった怪談・俗説を、当時の警察記録とバイエルン州立公文書館の資料を軸に全8回で整理する。

  1. 第1回|ヒンターカイフェック事件とは?一家6人が殺害された未解決事件の全貌
  2. 第2回|ヒンターカイフェック事件前に何が起きていたのか|足跡・物音・消えた鍵を検証
  3. 第3回|ヒンターカイフェック事件当日に何が起きたのか|1922年3月31日から遺体発見までの時系列
  4. 第4回|現在の記事:ヒンターカイフェック農場はどこにあったのか|事件現場と周辺地域を地図で確認
  5. 第5回|ヒンターカイフェック事件の捜査|現場に残された証拠から警察は何を調べたのか
  6. 第6回|ヒンターカイフェック事件の容疑者は誰だったのか|警察が調べた主要人物と捜査線
  7. 第7回|ヒンターカイフェック事件の犯人は誰なのか|有力説と犯人像を証拠から検証
  8. 第8回|ヒンターカイフェック事件の怪談はどこまで事実か|足跡・屋根裏・犯人滞在説を検証

この記事で分かること

  • ヒンターカイフェックはドイツのどこにあったのか
  • 「Hinterkaifeck」という村が存在したのか
  • Gröbern・Schrobenhausenとの位置関係
  • 本当に「完全に孤立した農場」だったのか
  • Google Mapでは何を確認し、何を確定地点として扱わないのか
  • 1952年の復元平面図はどのような資料なのか
  • 住居・家畜小屋・納屋・機械小屋がどうつながっていたのか
  • 6人が農場内のどこで発見されたのか
  • 屋根裏潜伏説を建物構造からどこまで評価できるのか
  • 現在、事件農場や記念碑はどうなっているのか

先に結論|現在の地図上に「確定した母屋の一点」を打つべきではない

農場が存在した地域自体は明確である。1922年の司法委員会記録は「Gröbern 27½, Gemeinde Wangen」とし、2026年の州立公文書館カタログも同じ住所を引用している。bavarikonはGröbernの南西約500メートル、Schrobenhausenから約6キロという位置関係を示す。

一方、農場は1923年に解体され、現在地表に母屋・納屋・家畜小屋の輪郭は残っていない。後世には歴史地籍図、航空写真、事件写真、住民証言などを組み合わせた復元が行われ、従来想定された位置が修正された例もある。

したがって、本記事ではGoogle Mapへ「ここが1922年の台所」「ここが4人の発見地点」という精度のピンを置かない。Google MapはGröbern/Waidhofen周辺の現在地理を理解するために使い、事件当時の正確な建物配置は公文書館資料と復元図で確認するという二層構成にする。

ヒンターカイフェックの場所|公式資料で確認できる範囲

項目 確認できる内容
ドイツ
地域 バイエルン州・オーバーバイエルン
現在の自治体 Waidhofen周辺
近隣集落 Gröbern
1922年当時 Gröbern 27½, Gemeinde Wangen
Gröbernとの位置関係 bavarikonでは南西約500m
Schrobenhausenとの距離 約6km
最寄りの農家・Gröbernまで 1922年現場記録では徒歩約10~15分
農場建物 1923年に解体、現存しない

Google Mapで現在のGröbern/Waidhofen周辺を見る

現在の地理を把握するには、Gröbernを基準に見るのが分かりやすい。事件農場はこの小集落の外側、農地の中に存在した。地図上ではWaidhofen、Schrobenhausen、周囲の農地や道路との距離感を確認できる。

このGoogle Mapは現在のGröbern/Waidhofen周辺を示す広域参照です。1922年のHinterkaifeck母屋の確定座標や、各遺体発見地点を示すピンではありません。農場は1923年に解体され、道路・農地・記念施設の位置もその後変化しています。

現在のGröbern/Waidhofen周辺。事件農場そのものは現存しません。公式資料では農場はGröbernの南西約500mにあったとされています。


GoogleマップでGröbern/Waidhofen周辺を大きく見る

「Hinterkaifeck」という村があったわけではない

事件名だけを見ると、Hinterkaifeckという村の中で事件が起きたように感じる。しかし、Hinterkaifeckは多数の家が集まる集落名ではなく、グルーバー/ガブリエル家の一農場を指す地域的な呼称だった。

バイエルン州資料では「Einödhof」と表現される。これは村落の中心から離れて単独で建つ農場を意味する言葉で、「周囲数キロに人間が一人もいない山奥」という意味ではない。事件現場の司法記録でも、最寄りの農家とGröbernまで徒歩10~15分とされている。

したがって、正確には「地域社会の外縁にある単独農場」と理解する方がよい。昼間には近隣住民、郵便配達員、販売員、修理工が往来できる場所であり、子どもは学校へ通い、一家は教会とも接点を持っていた。

それでも夜間の孤立性は高かった

完全な僻地ではないからといって、事件を周囲がすぐ察知できる環境だったわけでもない。1922年の現場記録は、農場が開けた土地にあり、ある程度離れたところを林に囲まれていたと記している。

最寄りの家まで徒歩10~15分という距離は、現代の住宅街では大きい。街灯や連続した住宅がない夜間に、農場内部で起きた短時間の出来事を近隣住民が必ず聞き取れるとは考えにくい。

さらに、司法委員会が家畜小屋側と住居側で行った聴取実験では、厚い壁のため、家畜小屋で大声を出しても住居の使用人部屋では聞こえなかった。建物内部でさえ音が遮られていたことは、「数百メートル離れた隣家が異変に気づくはずだった」という単純な推論を弱める。

建物構造を知るための最重要資料|1952年の復元平面図

ヒンターカイフェックの建物を理解するうえで重要なのが、2026年の州立公文書館展示カタログにも掲載された1952年の「Bauplan des Anwesens Hinterkaifeck」である。ただし、この図を1922年当時に作成された正式な建築設計図と誤解してはいけない。

図の作成に関わったAndreas SchwaigerはGröbernの農家・宿屋経営者で、グルーバー/ガブリエル家をよく知り、農場へ頻繁に出入りしていた人物だった。1951年12月の警察聴取で建物について説明し、その証言をもとに1952年に平面図が作られている。

したがって、図は事件現場を理解するための非常に重要な復元資料ではあるが、事件当日の実測建築図ではない。細部の寸法や家具位置まで絶対的なものとして使うのではなく、主要区画と動線を理解するための資料として扱う。


バイエルン州立公文書館「Der sechsfache Mord in Hinterkaifeck」展示カタログを見る(1952年復元平面図はPDF 26ページ)

農場を大きく3ゾーンに分けると理解しやすい

1952年復元図と1922年の現場記録を合わせると、農場は大きく生活空間/家畜・飼料空間/納屋・農作業空間の3ゾーンとして理解できる。これらは完全に離れた建物ではなく、互いに接続していた。

ゾーン 主な区画 事件との関係
生活空間 台所、寝室、居室、使用人部屋、廊下 マリアとヨーゼフが発見された
家畜・飼料空間 家畜小屋、飼料通路、飼料準備区画 住居と納屋をつなぐ中間領域
納屋・農作業空間 納屋、農機具・荷車の区画、機械小屋等 家族4人が納屋入口側で発見された
建物上部 屋根裏・藁の保管空間 梯子、ロープ、藁の窪み、ずれた瓦が確認された

縮尺なしの簡略構造図|「家」と「納屋」は連続していた

下の表は、1952年復元平面図と1922年現場記録をもとに、事件理解用に接続関係だけを簡略化したものだ。正確な縮尺・方角・壁厚を再現する建築図ではない。

農作業側 接続部 生活側
納屋・作業区画
大型出入口
農機具・荷車区画
家畜小屋
飼料通路
住居へ続く通路
台所
居室・寝室
使用人部屋
上部:屋根裏空間/藁保管部/機械小屋側から上がる梯子・ロープ

この連続性が重要である。現代の家から数十メートル離れた別棟の納屋を想像すると、家族4人の発見場所や、発見者が機械小屋側から住居へ進んだ経路を理解しにくくなる。

4人が発見されたのは「納屋の中央」ではない

アンドレアス・グルーバー、ツェツィーリア・グルーバー、ヴィクトリア・ガブリエル、7歳のツェツィーリア・ガブリエルの4人は、納屋側で発見された。2026年の公文書館カタログが引用する司法委員会記録では、機械小屋側から扉を通って納屋へ入った直後の区域に4人がいたとされる。

記録は、ツェツィーリア・グルーバーが扉の敷居近く、ヴィクトリアがその横に倒れていたと説明している。一方、アンドレアスと7歳のツェツィーリアは、最初の発見者Lorenz Schlittenbauerが幼児ヨーゼフを探すために遺体を動かしており、警察到着時には元の位置ではなかった。

そのため、「4人の最終的な写真配置=犯行直後の完全な配置」ではない。建物図は発見場所のゾーンを理解するには有効だが、殺害順序や一人ずつ誘い出された順番を確定するものではない。

マリアとヨーゼフは住居側で発見された

新しい使用人マリア・バウムガルトナーは、住居側の使用人部屋で発見された。司法委員会は家畜小屋から飼料通路を通って住居へ進み、前室、台所を確認した後、使用人部屋へ入ってマリアを発見している。

幼いヨーゼフ・グルーバーはさらに住居内の寝室、乳母車の中で発見された。つまり6人は一か所に集められていたわけではなく、家族4人は納屋側、マリアとヨーゼフは生活空間側に分かれていた。

この配置は、犯人が少なくとも農場の複数区画を移動した可能性を示す。しかし「複数区画を移動できた=農場内部を熟知した近隣人物」と即断することはできない。扉や通路を実際に進めば把握できる構造でもあったためである。

発見者と司法委員会は機械小屋側から入った

1922年4月4日、Lorenz Schlittenbauer、Jakob Sigl、Michael Pöllの3人は、機械小屋側から農場へ入り、納屋の扉を破って内部へ進んだ。そこで4人を発見し、Schlittenbauerはその後一人で住居側へ進んだ。

翌日の司法委員会も、現場再構成では西側の機械小屋から入り、そこから納屋へ進む経路を確認している。公文書館カタログは、司法委員会が「犯人も同じ経路を使った可能性」を想定して現場を見たと説明する。

ただし、これも「犯人の侵入経路が確定した」という意味ではない。現場記録上、潜在的な出口は閉じられていたとされるが、事件前後の人の出入りや鍵の問題、屋根裏経路には未解明部分が残る。

事件前のモーター小屋と、事件後の修理工

第2回で確認した通り、事件前日の3月30日、アンドレアスは雪上の不審な足跡がモーター小屋方向へ続き、建物に侵入された形跡があると周囲へ話していた。この場所は、事件前の異変と4月4日の発見経過の両方に登場する。

4月4日には修理工Albert Hoferが農業用モーターの修理のため農場を訪れ、数時間作業している。すぐ近くの建物内に6人の遺体があったにもかかわらず、Hoferは住人と会えないまま修理を終えた。

この事実から分かるのは、農場が一つの建物として接続していても、各区画が視覚的・音響的に完全に開放されていたわけではないことだ。作業場所から遺体のある区画が直接見える構造ではなかった。

屋根裏|「移動可能」と「犯人が潜伏」は別の話

司法委員会が建物を詳しく調べると、機械小屋の梯子から小さな屋根裏へ上がれることが分かった。そこには藁が敷かれ、人が横たわれそうな窪みがあり、太いロープが屋根裏から機械室側へ下ろされていた。

さらに屋根瓦が2カ所ずらされ、そこから農場全体を見渡せたと2026年のカタログは記している。1930年のSchlittenbauer供述には、犯人が屋根裏を通って農機具・荷車側へ移動し、ロープで降りたのではないかという推測も残る。

しかし、これはあくまで移動可能性の話である。藁の窪みに誰が寝たのか、ロープを誰が設置したのか、瓦を誰が動かしたのかを示す識別証拠は残っていない。屋根裏を移動できる構造だったことはFACT、殺人犯が事件前から潜伏していたことはTHEORYとして分ける必要がある。

家畜の音で4人を誘い出した説|建物構造はむしろ単純化を否定する

4人が家畜小屋・納屋の接続部で発見されたことから、「犯人が牛を放し、家畜の異常を確認しに来た家族を一人ずつ襲った」という説が作られた。2026年カタログにも、この犯行再構成が当時の司法委員会で検討されたことが記されている。

ところが委員会が実際に音の聞こえ方を試すと、厚い壁のため家畜小屋側で叫んでも住居側の使用人部屋では聞こえなかった。したがって、「家畜を騒がせれば家族全員が順番に住居から出てくる」という単純な仕掛けには疑問が残る。

建物構造は犯行を説明する万能の答えではない。むしろ、通路・壁・各区画の接続を確認するほど、「なぜ4人がそこへ来たのか」という疑問が残ることが分かる。

1952年復元図が教えてくれること/教えてくれないこと

読み取れること 読み取れないこと
住居・家畜小屋・納屋の大まかな接続 1922年3月31日の扉の開閉状態すべて
主要な部屋・農作業区画の相対配置 犯人が実際に通った経路
家族4人とマリア・ヨーゼフの発見ゾーン 正確な殺害順序
生活空間と農業空間が一体化していたこと 犯人が農場に詳しい人物だったか
屋根裏移動が構造上可能だったこと 犯人が実際に屋根裏へ潜伏したか
1951年証言時点で記憶されていた農場構造 原設計図と同等の寸法精度

復元図を使う最大の利点は、事件を「納屋で4人、家の中で2人」という抽象的な情報から、連続した建物内で起きた出来事として理解できることにある。一方、その図を使って犯人の移動線まで一本に固定すると、資料の精度を超えてしまう。

現在、農場は残っていない

Hinterkaifeckの建物は事件翌年の1923年に解体された。解体時には建物の隠れた床空間から、後に凶器と判断されるReuthaueが発見されている。現在、当時の母屋・納屋・家畜小屋を現地で見ることはできない。

かつての農場一帯は農地として利用されてきた。そのため、現代の衛星写真で建物輪郭をそのまま追うことはできず、歴史地籍図や過去の写真・証言を使った復元が必要になる。

現在の記念施設と「事件農場跡」は同じではない

現地では長年、事件を悼む小さなMarterl(路傍の祈念碑)が置かれてきた。ただし地元の資料サイトHinterkaifeck.netによれば、このMarterlは農地利用などの事情で複数回移設され、1984年にはWetterfichteと呼ばれる木の付近へ移された。2022年には旧Marterlが撤去されている。

同サイトによれば、2025年3月31日にはWetterfichte付近に新しい追悼施設が設置され、4月5日に祝別された。これは現在現地で事件を記憶するための場所であり、1922年の母屋中心点を示す測量標識ではない

したがって、現在の記念施設をGoogle Mapで見つけても、その座標をそのまま「事件が起きた建物の位置」として記事へ埋め込むのは適切ではない。本記事では広域地図にとどめ、歴史的現場位置と現在の追悼場所を分離している。

FACT CHECK|場所と建物についてどこまで確定しているか

主張 判定 根拠・注意点
Hinterkaifeckは大きな村の名前だった FALSE 単独農場を指す呼称
歴史的住所はGröbern 27½, Gemeinde Wangen FACT 1922年司法委員会記録を2026年公文書館カタログが引用
農場はGröbernの南西約500mにあった FACT / 公的整理 bavarikonによる位置説明
周囲数kmに家がない完全な山奥だった FALSE 最寄り農家・Gröbernまで徒歩約10~15分
住居と納屋は完全に離れた別棟だった FALSE 家畜小屋などを介して接続する農場建築
1952年の平面図は1922年の原設計図である FALSE 後年の証人Andreas Schwaigerの説明を基にした復元図
家族4人は納屋側で発見された FACT 1922年現場記録・事件写真で確認
マリアとヨーゼフは住居側で発見された FACT 司法委員会現場記録で確認
屋根裏を移動できる構造だった FACT 梯子・ロープ・上部移動経路を現場調査で確認
犯人が屋根裏に潜伏していた THEORY 利用者を特定する物証なし
現在の追悼施設の位置が1922年の母屋中心点である FALSE 旧Marterlは移設歴があり、新施設も追悼場所として設置
現在のGoogle Map一点から各部屋の位置まで確定できる FALSE 建物は1923年に解体され、復元上の誤差もある

地理と構造から見えてくる5つのこと

1|完全な孤立農場ではない

Gröbernまで約500メートルという距離は、ヒンターカイフェックが地域社会と接点を持つ場所だったことを示す。学校、教会、郵便、商人、修理工との往来が成立していた。

2|それでも夜間には発見されにくい

単独農場であり、周囲は農地と林だった。建物内部でも厚い壁が音を遮ったことから、夜の短時間に起きた事件を近隣がすぐ察知できなかったことは不自然ではない。

3|「家」と「納屋」を別世界として考えると事件を誤解する

生活空間から家畜小屋、飼料通路、納屋へ連続する構造だった。4人が納屋側で見つかった事実は、「わざわざ屋外の遠い別棟へ移動した」という意味ではない。

4|建物構造は犯行順序を決めてくれない

4人の発見場所は分かっていても、発見者が一部の遺体を動かし、警察到着前に現場が乱されている。さらに家畜の音を使った誘導説も聴取実験と単純には整合しない。

5|屋根裏潜伏説は「可能」でも「証明」ではない

梯子、ロープ、藁の窪み、ずれた瓦は潜伏説の材料になる。しかし建物がそのように使えることと、実際に殺人犯が数日前から潜伏していたことは別の命題である。

よくある疑問

ヒンターカイフェックは今もGoogle Mapで見つかる?

地域として検索結果や関連地点が表示されることはあるが、1922年の農場建物は存在しない。現在の地点表示を母屋・納屋の正確な位置として扱うべきではない。

事件農場は本当にGröbernから500mしか離れていなかった?

bavarikonはGröbernの南西約500mとしている。1922年の司法委員会記録も、最寄りの農家とGröbernまで徒歩10~15分としており、「完全に人里から隔絶した山奥」というイメージとは異なる。

1952年の建物図は信頼できる?

主要区画・動線を理解する資料として価値が高く、2026年のバイエルン州立公文書館展示にも採用されている。ただし事件から約30年後の証言を基にした復元図であり、1922年当時の建築士による実測設計図ではない。

現在の記念碑が事件現場?

同じ地域の追悼地点ではあるが、1922年の母屋中心点を示すものではない。旧Marterlには複数回の移設歴があり、2025年に設置された新しい追悼施設もWetterfichte付近に置かれている。

4人はどこで見つかった?

家族4人は納屋側、機械小屋から進入してすぐの区域で発見された。マリアは住居側の使用人部屋、ヨーゼフは寝室の乳母車内だった。

まとめ|地図より重要なのは「場所の精度を分ける」こと

ヒンターカイフェックは、バイエルン州のGröbern近郊にあった単独農場である。1922年の歴史的住所はGröbern 27½, Gemeinde Wangen。bavarikonではGröbernの南西約500メートル、Schrobenhausenから約6キロと整理されている。

農場は地域社会から完全に孤立してはいなかったが、夜間に内部の異変が近隣へ即座に伝わる環境でもなかった。さらに住居、家畜小屋、納屋が連続していたため、現代の「家から離れた別棟の納屋」というイメージで事件を見ると犯行現場を誤解する。

1952年の復元平面図は、家族を知るAndreas Schwaigerの証言をもとに作られ、現在も事件構造を理解する重要資料になっている。ただし原設計図ではないため、細部まで絶対的な建築図として扱うことはできない。

そして現在の地図・追悼施設・歴史的農場位置も同じではない。Google Mapは現在地理、1952年図は建物の復元、1922年司法記録は事件当時の現場記述――それぞれ役割が異なる。次回はこの現場に残された痕跡へ視点を移し、警察が何を証拠として扱い、何を取り逃したのかを検証する。


前の記事/次の記事

← 前の記事:ヒンターカイフェック事件当日に何が起きたのか|1922年3月31日から遺体発見までの時系列

次の記事:ヒンターカイフェック事件の捜査|現場に残された証拠から警察は何を調べたのか →


ヒンターカイフェック事件特集 全8回

  1. 第1回|ヒンターカイフェック事件とは?一家6人が殺害された未解決事件の全貌
  2. 第2回|ヒンターカイフェック事件前に何が起きていたのか|足跡・物音・消えた鍵を検証
  3. 第3回|ヒンターカイフェック事件当日に何が起きたのか|1922年3月31日から遺体発見までの時系列
  4. 第4回|現在の記事:ヒンターカイフェック農場はどこにあったのか|事件現場と周辺地域を地図で確認
  5. 第5回|ヒンターカイフェック事件の捜査|現場に残された証拠から警察は何を調べたのか
  6. 第6回|ヒンターカイフェック事件の容疑者は誰だったのか|警察が調べた主要人物と捜査線
  7. 第7回|ヒンターカイフェック事件の犯人は誰なのか|有力説と犯人像を証拠から検証
  8. 第8回|ヒンターカイフェック事件の怪談はどこまで事実か|足跡・屋根裏・犯人滞在説を検証

出典・参考資料


  • Elena Hiemer — Der sechsfache Mord in Hinterkaifeck, Bayerisches Hauptstaatsarchiv, 2026

    本記事の中核資料。1922年現場記録によるGröbern 27½、最寄り農家・Gröbernとの徒歩距離、現場内動線、家族4人・マリア・ヨーゼフの位置、屋根裏構造、1952年復元平面図を確認。
  • Staatsarchiv München, Polizeidirektion München 8091b
    2026年展示カタログが引用する警察資料群。1922年4月4~5日の司法委員会現場記録、事件写真、発見者供述の基礎資料。

  • bavarikon — Kriminalfälle (19./20. Jahrhundert): Hinterkaifeck

    バイエルン州公式文化ポータル。農場がGröbernの南西約500m、Schrobenhausenから約6kmにあったこと、単独農場であることを確認。
  • Bayerisches Armeemuseum, B.VI. P2, P19 Mappe 7, 101 — Bauplan des Anwesens Hinterkaifeck, 1952
    2026年州立公文書館展示カタログ掲載の復元平面図。Andreas Schwaigerの1951年証言をもとにした建物配置資料。

  • Hinterkaifeck.net — Der Tatort

    歴史地籍図・航空写真・地域調査を使った農場位置復元、Gröbern・Waidhofenとの距離、位置復元の修正履歴を確認する補助資料。

  • Hinterkaifeck-Wiki — Der Hof Hinterkaifeck

    農場跡位置と旧Marterlの移設、1984年の現地証言などを確認する補助資料。

  • Hinterkaifeck-Wiki — Andachtsstätte Hinterkaifeck

    旧Marterlの移設・2022年撤去、2025年3月31日にWetterfichte付近へ設置された新しい追悼施設について確認。現在の追悼地点と1922年の農場位置を混同しないために使用。

本記事は、2026年にバイエルン州立公文書館が公開した展示カタログと、その基礎となるStaatsarchiv Münchenの警察資料、バイエルン州公式文化ポータルbavarikonを最優先資料として構成しています。建物構造には2026年展示カタログ掲載の1952年復元平面図を使用していますが、これは1922年当時の原設計図ではなく、農場へ頻繁に出入りしていたAndreas Schwaigerの後年証言をもとに作成された資料です。現在のGoogle Map、追悼施設、1922年の農場建物位置は同一ではないため、推測座標を確定現場として表示していません。また、屋根裏の移動可能性や家畜を使った誘導説を、犯人の実際の行動としてFACTへ格上げしていません。