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ヒンターカイフェック事件の容疑者は誰だったのか警察が調べた主要人物と捜査線

ヒンターカイフェック事件の容疑者は誰だったのか|警察が調べた主要人物と捜査線

殺人・重大犯罪

ヒンターカイフェック事件には、100年以上にわたって数多くの「犯人候補」が挙げられてきた。近隣住民、逃亡中の人物、元受刑者、被害者の親族、第一次世界大戦で死亡したはずの夫、そして事件と直接関係のない人物まで、警察には大量の情報が寄せられた。

しかし、「名前が捜査記録に出てくる」「誰かに犯人だと告発された」「実際に警察が重要人物として追った」は同じ意味ではない。1922年9月の検察報告では、この時点ですでに65件の人物・情報が調べられ、その多くは短期または詳細な捜査で根拠がないと判断された。バイエルン州立公文書館の2026年整理では、1930年までに100件を超える捜査手続きが行われたとされる。

その中で現在まで最も有名なのが、近隣住民ローレンツ・シュリッテンバウアーである。だが、1930年の警察再検討は「容疑者から完全には除外できないが、何も立証できない」と評価し、1931年の詳しい再聴取後には担当捜査官が犯人である可能性を低く見ている。

この第6回では、誰が犯人に見えるかではなく、なぜ警察がその人物を調べ、何が確認され、どこで捜査線が止まったのかを基準に整理する。後世の人気犯人説と、1922~1930年代の実際の捜査記録を分けて読む。

CASE FILE 04|ヒンターカイフェック事件特集(全8回)

この特集では、1922年の六重殺人を「不気味な未解決事件」という印象だけで扱わない。事件前の異変、3月31日夜から遺体発見までの時系列、農場の位置と構造、警察捜査、主要人物、犯人説、後世に広まった怪談・俗説を、当時の警察記録とバイエルン州立公文書館の資料を軸に全8回で整理する。

  1. 第1回|ヒンターカイフェック事件とは?一家6人が殺害された未解決事件の全貌
  2. 第2回|ヒンターカイフェック事件前に何が起きていたのか|足跡・物音・消えた鍵を検証
  3. 第3回|ヒンターカイフェック事件当日に何が起きたのか|1922年3月31日から遺体発見までの時系列
  4. 第4回|ヒンターカイフェック農場はどこにあったのか|事件現場と周辺地域を地図で確認
  5. 第5回|ヒンターカイフェック事件の捜査|現場に残された証拠から警察は何を調べたのか
  6. 第6回|現在の記事:ヒンターカイフェック事件の容疑者は誰だったのか|警察が調べた主要人物と捜査線
  7. 第7回|ヒンターカイフェック事件の犯人は誰なのか|有力説と犯人像を証拠から検証
  8. 第8回|ヒンターカイフェック事件の怪談はどこまで事実か|足跡・屋根裏・犯人滞在説を検証

この記事で分かること

  • 「容疑者」と「情報提供で名前が出ただけの人物」の違い
  • 1922年9月までに65件もの情報が調べられた理由
  • ローレンツ・シュリッテンバウアーが長年疑われた理由
  • 警察・検察はシュリッテンバウアーを最終的にどう評価したのか
  • Joseph Bärtlが主要捜査対象になった理由
  • Andreas/Karl Schreier兄弟が一時拘束された経緯
  • Adolf Gumpに事件直後から捜索指示が出た理由
  • 「死んだ夫Karl Gabriel生存説」を警察がどう検証したのか
  • 外部犯・流れ者・元受刑者も本格的に調べられていたこと
  • なぜ多数の候補者がいても犯人を一人に絞れなかったのか

先に結論|2026年時点で「犯人と確認された人物」は一人もいない

バイエルン州立公文書館は2026年の公式展示でも、ヒンターカイフェック事件を現在まで未解決の六重殺人として扱っている。100件を超える捜査手続きが行われたにもかかわらず、特定人物の犯行を証明する結果には至らなかった。

このため、本記事で名前を挙げる人物は「犯人一覧」ではない。警察が実際に調べた人物、告発を受けて確認した人物、一定期間重要視した人物を、捜査記録上の位置づけに従って並べる。

人物・捜査線 なぜ調べられたか 捜査上の結末
Lorenz Schlittenbauer 被害者との近い関係、父親問題、発見時の行動、地域からの告発 長期再検討。立証なし。1931年には担当捜査官が犯人可能性を低く評価
Joseph Bärtl 逃亡中で地域を通過した可能性が疑われた 主要捜索対象の一人。確保されず、事件との直接証拠なし
Andreas / Karl Schreier 元受刑者・近隣からの情報 一時拘束。アリバイ等を調査し、手続き終了
Adolf Gump 別件の重大な強盗・殺人疑惑、所在不明 1922年4月9日に捜索指示。直接物証なし
Karl Gabriel 戦死したはずのヴィクトリアの夫が生存していたという説 戦友・軍歴を再確認。1914年戦死を支持する証言あり
Karl Gabrielの元戦友 農場の財産状況を聞いていた可能性 部隊名簿を作成し事情聴取。犯行につながる証拠なし
匿名告発された人物 手紙・噂・自称告白など 個別確認されたが、多くは根拠なし
流れ者・元受刑者 当時の外部犯・強盗犯説 出所者名簿まで作成し所在・アリバイを確認

なぜ候補者が100件以上に膨らんだのか

事件発覚当初、ヒンターカイフェックは強盗殺人として大きく報じられた。4月7日には、犯人逮捕につながる情報へ10万マルクという高額な懸賞金が設定された。2026年の州立公文書館カタログは、捜査側が共犯者からの告発を期待する一方、懸賞金目当ての虚偽情報が増えることも懸念していたと説明している。

実際、警察には匿名手紙、酒場で聞いた噂、受刑者同士の告発、知人の不審発言、突然金を持ったという話などが大量に寄せられた。1931年には匿名手紙でJosef Lackermeierという人物が名指しされたが、本人はヒンターカイフェック周辺へ行ったこと自体を否定し、警察は手紙の差出人側まで筆跡確認している。

つまり「捜査記録に100人以上の候補がいる」のではなく、100件を超える疑い・人物情報・捜査手続きが存在したと考える方が正確である。内容の強さは大きく異なり、匿名の噂から長期捜査対象までが混在していた。

最も長く疑われた人物|Lorenz Schlittenbauer

現在もっとも頻繁に名前が挙がるのが、Gröbernの農家で地域のOrtsführerでもあったLorenz Schlittenbauerである。2026年の公文書館カタログも、彼を事件史上の主要な被疑対象の一人として独立項目で扱っている。

彼が注目された最大の理由は、被害者一家との距離の近さだった。Schlittenbauerは夫を戦争で失ったViktoria Gabrielと一時期交際し、1919年に生まれたJosef Gruberの父親問題にも関与していた。結婚の話、父親認知、金銭のやり取り、Andreas Gruberとの対立が警察資料に残っている。

しかし、過去に人間関係の対立があったことと、1922年3月31日に6人を殺害したことは別である。捜査機関に必要だったのは、動機として説明可能な事情だけではなく、事件当夜とSchlittenbauerを結ぶ証拠だった。

遺体発見時の行動が疑いを強めた

4月4日、SchlittenbauerはJakob Sigl、Michael Pöllとともに農場へ入り、最初の4人を発見した。彼は幼いJosefを探すために遺体を動かし、一人で住居側へ進み、Josefと使用人Mariaの遺体を確認した。その後も農場に残り、家畜の世話をしている。

こうした行動は、現場保存の観点から見れば重大な問題になった。さらに地域では、「遺体を見る前から全員が殺されていると知っていたのではないか」「なくなった鍵を持っていたのではないか」といった疑いが加わり、Schlittenbauer犯人説が長く残ることになる。

「発見前から殺害を知っていた」発言は証言が一致しない

後世に最も有名になったのが、農場へ向かう途中でSchlittenbauerが「Kaifeckでは皆殺されている」という趣旨の発言をしたという話である。これが事実なら、発見前に事件内容を知っていたことになり、強い疑いにつながる。

しかし、2026年公文書館カタログは、Jakob Siglの1922年4月5日の初期供述では、Schlittenbauerの発言が「Gabrielのところでは何かが起きている。首を吊ったか、ほかの何かだ」という程度だったことを示している。後年伝わった断定的な文言と、最初期証言は一致しない。

したがって、「発見前に6人の殺害を言い当てた」をFACTとして扱うことはできない。Schlittenbauerをめぐる疑惑では、事件直後の供述と数年後に強まった地域内の対立・告発を分ける必要がある。

「消えた鍵を持っていた」説も、そのままでは成立しない

Schlittenbauerが事件前になくなった家の鍵を持ち、その鍵で最初に住居へ入ったという話も広く知られている。だが、現存する初期記録では、3人は機械小屋から入り、納屋の扉を破って建物内へ進み、その後Schlittenbauerが住居内部から東側入口を開けている。

2026年の公文書館資料も、1922年4月5日の最初の供述では扉の鍵の状態が記録されておらず、1931年になって改めて鍵について問われたと整理する。したがって、「彼が盗んだ鍵を使って外から玄関へ入った」という筋書きは資料に支持されない。

警察はSchlittenbauerを本当に詳しく調べていた

「地元の有力者だったため、警察がまともに調べなかった」という説もある。しかし現存資料は、むしろ彼が繰り返し再検討されたことを示している。1922年には本人への疑いを扱う捜査手続きがあり、その後も新しい告発が出るたびに資料が集められた。

2026年公文書館カタログでは、1930年9月10日、上級検察官KestelがSchlittenbauerに関する専用資料を含む「Hauptakt」をミュンヘン警察へ送り、改めて意見を求めたことが紹介されている。Kriminalinspektor Martin Riedmayrは、この段階では容疑者の範囲から完全には外せないが、犯行を立証するものもないと結論した。

1931年3月30日にはSchlittenbauer本人がミュンヘンへ呼ばれ、再度詳しい聴取を受けた。Riedmayrの後の記録では、その聴取を踏まえてSchlittenbauerが犯人である可能性を「非常に低い」と評価し、さらに進めるための具体的な手掛かりがないとした。

したがって、最も正確な位置づけは、長期間にわたり本気で疑われたが、警察・検察が犯人と立証できず、後期の再捜査では担当者が犯人可能性を低く評価した人物である。

Joseph Bärtl|事件前から逃亡していた人物が主要捜査線になった

2026年の州立公文書館カタログで、Schlittenbauerと並んで「Hauptverdächtiger」の一人として紹介されるのがJoseph Bärtlである。Bärtlは独身のパン職人で、Günzburgの施設から逃亡しており、事件以前から捜索対象になっていた。

公文書館展示に掲載された1922年2月5日の捜索文書は、ヒンターカイフェック事件より前に作成されたものである。したがって、「2月5日に事件の容疑者として指名手配された」という意味ではない。事件後、Schrobenhausen周辺を通過した可能性があるとみられたことから、この既存の逃亡者捜索が事件捜査と結び付いた。

警察が依頼した霊視者の一人もBärtlを犯人としたと公文書館資料は記している。しかし、霊視は人物を犯行へ結び付ける科学的証拠ではない。重要なのは、Bärtlが逃亡中で所在確認できず、地域を通過した可能性を理由に現実の捜索対象になったことである。

Bärtlは最終的に確保されず、1922年3月31日にヒンターカイフェックへいたことを示す直接物証も確認されなかった。そのため、主要捜査対象ではあっても「犯人と証明された人物」ではない。

Andreas/Karl Schreier兄弟|実際に一時拘束された捜査線

事件で「逮捕された人物はいなかった」とする説明も正確ではない。1922年、SattelbergのAndreas SchreierとKarl Schreier兄弟は、具体的な情報を受けて一時的に身柄を拘束された。

1922年9月9日のノイブルク検察報告では、Andreasが以前の同房者から疑われ、さらに兄弟の母親に関する情報も出たため捜査が進められたことが記されている。当時の新聞には、事件解決を思わせるような報道まで出た。

しかし、警察・検察が事件当夜の行動を確認した結果、兄弟については犯行を裏付ける十分な根拠が得られなかった。12月29日の検察報告では、Schlittenbauerに対する手続きと同様、Schreier兄弟に対する手続きも疑いが不十分として終了した。

この例は、「拘束された=犯人に近かった」とは限らないことを示す。捜査上の強い措置が取られても、その後のアリバイ・証拠評価で容疑が崩れることはある。

Adolf Gump|事件9日後に捜索指示が出た外部犯候補

1922年4月9日、捜査責任者Georg ReingruberはAdolf Gumpら複数の人物について、所在確認と詳しい聴取を求めた。Gumpは事件現場の近隣住民ではなく、外部犯捜査の一例である。

警察文書では、Gumpらが1921年の上シレジア情勢の中で複数の農民を殺害・強盗した疑いを持たれており、その所在が不明だった。そのためReingruberは、Gumpがヒンターカイフェック事件へ関与した可能性を排除できないとして、3月30日・31日・4月1日の所在を確認するよう求めた。

ここでも、過去の重大犯罪疑惑と所在不明が捜査の入口になっているだけで、ヒンターカイフェックからGumpの指紋・所持品・目撃証言が出たわけではない。事件直後から実際に捜索された人物と、事件に直接結び付く証拠がある人物は分ける必要がある。

1950年代に再燃したGump兄弟説

Gump家をめぐる疑いは事件直後だけで終わらなかった。1950年代、家族内で「AdolfとAnton Gumpがヒンターカイフェック事件の犯人だった」という趣旨の話があったとする伝聞が捜査機関へ持ち込まれ、再び確認が行われた。

しかし、その中心は事件から約30年後の伝聞であり、1922年当夜の行動を直接示す新物証ではなかった。Adolf本人はすでに死亡しており、犯行への関与を物証で確定するところまでは進まなかった。

したがって、Gump兄弟について言えるのは、Adolfは1922年事件直後から実際の捜索対象となり、後年には兄弟説も再調査されたことまでである。

Karl Gabriel|「戦死した夫が帰ってきた」説を警察も調べた

ヒンターカイフェック事件で最も奇妙に聞こえる候補の一人がKarl Gabrielである。彼はViktoria Gabrielの夫だったが、第一次世界大戦中の1914年12月12日にフランスで戦死したと記録されていた。

それでも1922年の捜査初期には、「実は生き延びて捕虜生活などを経て帰国したのではないか」という説が警察資料へ現れた。もし8年近く後に帰宅し、妻に自分以外の子どもがいたことを知ったなら、動機になり得るのではないかという推測である。

警察はこの説を噂として放置せず、Karlと同じ部隊にいた兵士を調べた。2026年公文書館カタログには、1923年に第13予備歩兵連隊第6中隊の所属者一覧を作成し、元戦友を聴取した記録が掲載されている。

1924年、元上官がKarlの戦死を具体的に証言

1924年1月25日、元下士官Josef Brummerは、Karl Gabrielが1914年12月12日12時ごろ、戦地で地雷によって死亡し、自分がその死亡を上官へ報告したと供述した。軍の記録とも整合する情報である。

このため、現在の資料からは「Karlが実は生きており、1922年に農場へ戻った」とする説を有力視する根拠は乏しい。警察が実際に検証した説ではあるが、検証が進むほど死亡記録を支持する材料が増えた捜査線である。

Karl Gabrielの元戦友まで調べられた

捜査はKarl本人の生存確認だけでは終わらなかった。警察は、戦地でKarlからHinterkaifeckの家族や財産について聞いた元戦友が、後に農場を狙った可能性まで検討した。

そのため部隊所属者をリスト化し、複数の元兵士へ事情聴取を行った。だが、Karlは戦線へ出てから死亡までの期間が短く、元戦友の証言でも家族事情を詳しく話していたという裏付けは得られなかった。

この捜査線は、当時の警察が「土地勘のある近隣犯」だけに絞っていなかったことを示す。遠方の外部者でも、農場の財産情報を知る機会があれば調査対象になった。

匿名告発|名前が出たからといって容疑が強いわけではない

2026年の展示カタログには、1931年の匿名手紙によってJosef Lackermeierという労働者が犯人として名指しされた例が紹介されている。警察は本人を呼び、事件や地域との関係を確認した。

Lackermeierは事件について聞いたことはあるが、Hinterkaifeck周辺へ行ったことはないと説明した。警察は匿名手紙の差出人と思われる義理の息子から筆跡見本まで取り、告発そのものの出所を検証している。

別の人物も木板に書かれた告発文で犯人とされたが、公文書館資料は、その後の事件ファイルに有力な展開が残っていないとする。こうした例は、「警察資料に犯人として名前が書かれている」だけでは証拠にならないことをよく示している。

外部犯捜査|出所者名簿まで作られていた

現在の事件紹介では、近隣人物説が目立つ。しかし当時の警察は、流れ者、逃亡者、出所直後の受刑者、地域を通過した不審人物も広く調べていた。

2026年の州立公文書館カタログには、犯行時期前後にAmbergの刑務所から釈放された人物をまとめた名簿が残っている。氏名、生年月日、罪名、釈放日、釈放後の行先を記録し、見つかった人物には3月31日の所在と、それを証明できる者がいるかを聴取していた。

さらに4月1日と11日に、顔を隠そうとした若い男たちや、警察を気にする発言をした男性の目撃情報も記録された。結果的に犯人特定にはつながらなかったが、捜査機関が「犯人は地元の誰か」と最初から固定していたわけではない。

主要捜査線を「証拠の強さ」で比較する

人物・捜査線 事件との接点 本人性を示す物証 評価
Lorenz Schlittenbauer 非常に強い。近隣・家族関係・発見者 確認されていない 最も長く検討された人物の一人。ただし立証なし
Joseph Bärtl 地域通過の可能性、逃亡中 確認されていない 初期主要捜査対象。所在未確認のまま
Schreier兄弟 具体的告発があり一時拘束 確認されていない 捜査後に手続き終了
Adolf Gump 別件の重大犯罪疑惑、所在不明 確認されていない 事件直後に捜索。直接証拠なし
Karl Gabriel 被害者の夫 犯行物証なし。むしろ戦死記録あり 生存説を捜査したが戦死を支持する証言
Karlの元戦友 財産情報を聞いた可能性 確認されていない 名簿・聴取まで実施、立証なし
匿名告発された人物 告発者の話のみの場合が多い 多くはなし 個別確認後、捜査線が消える例が多い

FACT CHECK|容疑者について広まりやすい誤解

主張 判定 根拠・注意点
警察はLorenz Schlittenbauerをほとんど調べなかった FALSE 1922年から1931年まで繰り返し検討・再聴取
Schlittenbauerは犯人だと警察が結論した FALSE 立証できず、1931年には担当捜査官が犯人可能性を低く評価
Schlittenbauerは失われた鍵で最初に玄関を開けた 資料に支持されない 3人は機械小屋・納屋側から入り、住居入口は内部から開けた
Schreier兄弟は犯人として有罪になった FALSE 一時拘束されたが捜査手続きは終了
Adolf Gumpは事件と無関係な後世だけの候補である FALSE 1922年4月9日にReingruberが実際に捜索を依頼
Joseph Bärtlへの1922年2月5日捜索はHinterkaifeck事件のためだった FALSE 事件前から逃亡者として捜索され、事件後に捜査線へ入った
Karl Gabrielは1922年に生きていたことが確認された FALSE 元戦友証言・軍関係記録は1914年戦死を支持
警察は近隣住民しか調べなかった FALSE 逃亡者、元受刑者、流れ者、元兵士など外部犯も広範に調査
2026年時点で公式に犯人が判明している FALSE バイエルン州立公文書館は現在も未解決事件として扱う

警察は最終的に誰を一番疑っていたのか

この問いには、一人の名前で答えない方が正確である。時期によって捜査の方向が変わったからだ。事件直後は強盗犯・逃亡者など外部犯を広く追い、地域内部ではSchlittenbauerへの疑いも早くから検討された。

1922年にはSchreier兄弟のように一時拘束まで進んだ捜査線があり、Adolf Gumpも事件直後から捜索された。1923~24年にはKarl Gabriel生存説と元戦友が検討され、1930~31年にはSchlittenbauerへの疑いを再度集中的に洗い直した。

つまり、警察組織が一貫して「真犯人はこの人物だが証拠だけがない」と考えていたことを示す資料は確認できない。むしろ、複数の捜査線を切り替えながら、一人へ収束できなかったこと自体がこの事件の特徴である。

なぜSchlittenbauerだけが現在も突出して有名なのか

Schlittenbauerには、他の候補者にない「物語としての接点」が多い。被害者Viktoriaとの過去の関係、Josefの父親問題、事件前日にAndreasから不審な足跡の話を聞いていたこと、最初の遺体発見者であること、現場で遺体を動かしたこと、事件後も地域住民から疑われ続けたことが一人に集中している。

これらを並べると非常に疑わしく見える。しかし、捜査機関が必要としたのは接点の多さではなく、犯行時刻に彼が農場でReuthaueを使用したことを示す証拠だった。その種類の証拠は残っていない。

逆に、接点が少ない外部犯には「なぜこの農場を知り、複雑な建物内で犯行できたのか」という問題が生じる。近隣犯説と外部犯説は、どちらも説明できる点と説明できない点が残った。

現在も分からないこと

第一に、犯人が近隣人物だったのか外部者だったのかは確定していない。第二に、一人で6人を殺害したのか、複数人だったのかも確定していない。

第三に、金銭目的だったのか、人間関係が動機だったのか、あるいは複数の要因があったのかも不明である。第四に、事件前の足跡、屋根裏、鍵、事件後の農場活動を同一人物へつなぐ証拠もない。

そして、どの主要候補についても、Reuthaue、血痕、指紋、足跡などの物証が本人へ一致したという記録は確認できない。この一点が、候補者比較で最も重要な限界になる。

まとめ|「有名な容疑者」と「証拠が強い人物」は同じではない

ヒンターカイフェック事件では、事件発覚から数カ月の段階ですでに65件の疑い・情報が調べられ、1930年までに100件を超える捜査手続きが行われた。捜査対象は近隣住民だけでなく、逃亡者、元受刑者、流れ者、戦死者の生存説、元兵士まで広がっていた。

Lorenz Schlittenbauerは、被害者一家との近さと発見時の行動から最も長く疑われた人物の一人である。警察も繰り返し検討し、1930年には専用資料を含む事件ファイルを再審査した。しかし犯行を立証できず、1931年の詳しい再聴取後には担当捜査官が犯人である可能性を低く評価した。

Joseph Bärtlは逃亡者として主要捜索対象となり、Schreier兄弟は一時拘束、Adolf Gumpには事件9日後に捜索指示が出された。Karl Gabriel生存説は警察が元戦友まで調べたが、1914年の戦死を支持する証言が得られた。いずれも犯行を直接示す物証には至っていない。

このため、容疑者記事の結論は「一番怪しい人物」を決めることではない。警察が何を疑い、どこまで確認し、なぜその先へ進めなかったのかを残すことである。次回はこの捜査記録を土台に、近隣犯、外部犯、複数犯などの犯人像を、証拠との整合性から比較する。


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ヒンターカイフェック事件特集 全8回

  1. 第1回|ヒンターカイフェック事件とは?一家6人が殺害された未解決事件の全貌
  2. 第2回|ヒンターカイフェック事件前に何が起きていたのか|足跡・物音・消えた鍵を検証
  3. 第3回|ヒンターカイフェック事件当日に何が起きたのか|1922年3月31日から遺体発見までの時系列
  4. 第4回|ヒンターカイフェック農場はどこにあったのか|事件現場と周辺地域を地図で確認
  5. 第5回|ヒンターカイフェック事件の捜査|現場に残された証拠から警察は何を調べたのか
  6. 第6回|現在の記事:ヒンターカイフェック事件の容疑者は誰だったのか|警察が調べた主要人物と捜査線
  7. 第7回|ヒンターカイフェック事件の犯人は誰なのか|有力説と犯人像を証拠から検証
  8. 第8回|ヒンターカイフェック事件の怪談はどこまで事実か|足跡・屋根裏・犯人滞在説を検証

出典・参考資料

本記事は、2026年にバイエルン州立公文書館が公開した展示カタログと、その基礎となるStaatsarchiv München, Polizeidirektion München 8091bを最優先資料として構成しています。Hinterkaifeck-Wikiは、公文書館の展示に収録されていない1922年検察報告や1931年再聴取関連文書の転記を照合する補助資料として使用しています。名前が警察記録に出ること、身柄を拘束されたこと、長期間疑われたことのいずれも、犯行が立証されたことを意味しません。Lorenz Schlittenbauer、Joseph Bärtl、Andreas/Karl Schreier、Adolf Gump、Karl Gabrielを含め、本記事に登場する人物の誰についても、ヒンターカイフェックの六重殺人を実行したと確定する物証は確認されていません。