1986年秋。
CIAには、すでに重大な異常が見えていた。
前年から、ソ連内部に持っていた重要な情報源が次々と失われている。
CIAとFBIを合わせれば、問題が起きた対ソ連作戦は最大約30件。
CIA内部では、
「巨大な問題が起きている」
という認識が上層部まで共有されていた。
そして実際、原因の中心にはCIA職員アルドリッチ・エイムズがいた。
だが、それをCIAもFBIも知らない。
彼らに見えていたのは、
「情報源が消えている」
という結果だけだった。
内部にモグラがいるのか。
元CIA職員エドワード・リー・ハワードが漏らしたのか。
モスクワの米国大使館が侵入されたのか。
秘密通信がKGBに破られたのか。
CIA側の作戦手順に問題があったのか。
あるいは、複数の原因が重なっているのか。
1986年から1990年まで、
CIAとFBIはこれらの可能性を一つずつ調べていった。
しかしその間も、エイムズはCIA職員として働き続けていた。
なぜ「モグラがいるかもしれない」という捜査は、目の前にいたモグラへ届かなかったのか。
前回|1985〜86年、CIAのソ連情報網に何が起きていたのか
第3回では、エイムズがKGBへ渡した情報と、
その直後からCIA・FBIのソ連側情報源に起きた異常を追った。
1985年6月、エイムズは36件のケースに関する情報をソ連側へ提供した。
その中には、米国側へ重要情報を提供していたソ連内部の人物も含まれていた。
その後、情報源の逮捕、連絡途絶、処刑が相次いだ。
1986年秋までには、
単発の失敗では説明しにくい規模になっていた。
← 第3回|エイムズは何をKGBへ渡したのか|CIA・FBI情報源の喪失と1985〜86年の異常
1986年10月|CIAは4人のSpecial Task Forceを作った
CIAが1985年の大量損失を解明するため、本格的な組織を置いたのは1986年10月だった。
設置されたのが、
Special Task Force(STF)
と呼ばれる4人の分析チームである。
メンバーにはソ連作戦や防諜の経験者が選ばれた。
少人数にしたことには理由があった。
もしCIA内部に本当にモグラがいるなら、
大規模な捜査を始めたこと自体が相手へ伝わる可能性がある。
そこで、事情を知る人間を少なくして秘密裏に原因を探ろうとした。
一見すると合理的である。
問題は、チームの性格だった。
STFは「捜査班」というより「分析班」だった
Special Task Forceに与えられた主な仕事は、
失われたケースを比較し、共通点を探すことだった。
例えば、
- どのCIA部署が失われたケースを知っていたか
- どの職員がその情報へアクセスできたか
- エドワード・リー・ハワードで説明できるケースはいくつか
- CIA側の作戦上のミスで説明できるものはあるか
- 通信や施設が技術的に侵入されていないか
といった点を調べた。
これは必要な作業だった。
しかし後のCIA Inspector General調査では、
重大な弱点も指摘されている。
STFは、
機密情報へアクセスできた人物の正式な容疑者リストを作成しなかった。
そして、
特定人物を対象とした本格的な捜査にも進まなかった。
「失われたケースには何が共通しているのか」
は分析した。
だが、
「その情報を知っていた人物のうち、誰がおかしいのか」
という人物中心の捜査には十分移行しなかった。
「失われなかったケース」と比較する作業も不足していた
もう一つ、後に問題視された点がある。
STFは失われたケースを詳しく分析したが、
失われなかったケースとの包括的な比較を行っていなかった。
これは原因分析では重要である。
例えば、
A、B、C、Dという4件の機密情報があり、
A、B、Cだけがソ連側へ漏れてDは安全だったとする。
その場合、
「A、B、Cを知っていた人」
だけを見るより、
「A、B、Cは知っていたがDは知らなかった人」
を探した方が候補を絞れる可能性がある。
後の調査では、このような比較をもっと体系的に行えば、
原因へ近づけた可能性が指摘された。
同じ1986年、FBIもANLACEを立ち上げた
CIAだけが被害を受けていたわけではない。
1986年10月、
FBIは自らが運用していた重要なソ連側情報源2人が摘発されたことを知った。
FBIは直ちに6人の捜査官からなる分析チームを作った。
コードネームは、
ANLACE Task Force。
目的は、2人の情報源がなぜKGBに発見されたのかを突き止めることだった。
しかしANLACEも、すぐに大きな壁へぶつかった。
「誰が知っていたか」を調べると、250人いた
ANLACEはまず、
失われたFBI情報源について誰が知っていたかを調べた。
すると、FBIワシントン支局だけでも、
最大約250人の職員がケースを知っていた可能性があった。
候補者が多すぎた。
ここでANLACEは、
250人について一人ずつ、
- ソ連関係者との未報告接触がないか
- 急に生活水準が上がっていないか
- アルコールや薬物など脆弱性がないか
- 不自然な行動がないか
を調べる方向には進まなかった。
FBI内部の人物を詳細に調べるより、
CIAを含む外部から情報が漏れた可能性を中心に分析していった。
後の米司法省Inspector General調査は、
この判断を重要な問題点として挙げている。
1987年9月|ANLACEは答えを出せないまま終了した
約1年間の分析の後、
ANLACEは1987年9月に最終報告書をまとめた。
しかし、
FBI情報源がなぜ失われたのかについて、確定的な原因は示せなかった。
報告書ではFBI内部への現在進行中の侵入を示す証拠は見つからなかったとされた。
だが後の司法省Inspector Generalは、
ANLACEがそもそも情報へアクセスできたFBI職員について、
ほとんど内部捜査を行っていなかった点を問題視している。
「内部犯の証拠が見つからなかった」
ことと、
「内部犯を十分調べた結果、否定できた」
ことは違う。
CIAとFBIは協力していなかったのか
ここも単純に、
「CIAとFBIが仲が悪く、情報を共有しなかった」
と書くと正確ではない。
両組織は1986年12月から1988年まで、
8回の合同オフサイト会議を開いている。
CIAは自らのソ連情報源喪失について説明し、
FBI側も過去の防諜捜査や侵入疑惑について情報を提供した。
CIA Inspector Generalは、
エイムズ事件での両機関の調整自体を比較的高く評価している。
しかし、問題は別のところにあった。
情報交換はしていたが、一つの合同捜査班として人物を追っていたわけではなかった。
CIAはCIAのケースを調べる。
FBIはFBIのケースを調べる。
会議で情報を持ち寄る。
それでも、
「CIAとFBI双方の損失を一つの事件として扱い、全アクセス者から容疑者を洗い出す」
という調査には進まなかった。
これが変わるのは1991年である。
最初の有力候補|エドワード・リー・ハワード
初期捜査で当然疑われたのが、
元CIA職員エドワード・リー・ハワードだった。
ハワードはCIA退職後にKGBへ情報を提供し、
1985年にはFBIの監視を逃れて国外へ脱出している。
彼が知っていたCIA作戦の一部が実際にソ連へ漏れていたため、
1985年の情報源喪失を説明できる候補だった。
しかし調査が進むにつれて問題が出てきた。
ハワードがCIAを離れたのは1983年。
その後に始まったケースまで失われていたのである。
1988年頃までには、
ハワードが知っていた情報だけでは全損失を説明できないことが明確になっていった。
「ハワードだった」
では終わらない。
別の漏洩経路が存在する。
問題は、では何なのかということだった。
次の仮説|モスクワの米国大使館へKGBが侵入したのか
1986年末、
捜査を大きく動かす別の事件が起きた。
米海兵隊員クレイトン・ロントリーの事件である。
ロントリーはモスクワの米国大使館勤務中、
KGBと関係を持っていた。
さらに別の海兵隊員から、
「ロントリーがKGB職員を大使館内部へ入れた」
という趣旨の証言が出た。
もし事実なら、
KGBが大使館内に保管されたCIA資料へ接触し、
情報源の身元を知った可能性がある。
CIAのSpecial Task Forceにとって、
これは極めて重要な仮説だった。
数か月にわたり、
KGBが大使館内部へ侵入した可能性が詳しく調べられた。
しかしロントリー説は「dry hole」だった
その後、KGB侵入を示す証言は崩れていった。
証言した海兵隊員は内容を撤回。
ロントリー本人も、KGBを大使館へ入れたことを否定した。
1987年8月頃までには、
CIAのSpecial Task Forceの大部分が、
ロントリー事件では1985〜86年の損失を説明できないと判断した。
後の上院報告では、
捜査側が再び
「square one」――振り出しに戻った
と表現されている。
そして本格的なモグラ捜査が再び動き出すのは、1991年だった。
KGBも、捜査側を正しい方向へ進ませようとはしなかった
さらにCIAとFBIを難しくしたのが、
KGB側による欺瞞だった。
後の上院調査によれば、
KGBは1985年10月頃から数年間にわたり、
エイムズから注意をそらすためとみられる複数の工作を行った。
例えば、
- 情報源喪失の主因がエドワード・リー・ハワードだったと思わせる
- すでに摘発した情報源を利用し、まだ安全に活動しているように見せる
- 情報源の摘発原因について、CIA側の作戦ミスだったという偽情報を流す
- CIA職員の不注意や不適切なtradecraftが原因だったと思わせる
といった方法である。
CIA側も、
すべてを無条件に信じたわけではない。
不自然な情報だと疑ったものもあった。
しかし、それでも一件ずつ検証しなければならない。
本物か。
偽物か。
一部だけ本当なのか。
CIAが何を知っているか確認するための情報なのか。
それを調べるだけでも時間と人員を消費した。
「欺瞞だ」と気づいても、エイムズには届かなかった
CIA防諜担当者は1986年末頃には、
複数の不自然な情報がKGBによる組織的な欺瞞かもしれないと認識し始めていた。
しかし、
「KGBがこちらを誤誘導している」
と気づくことと、
「誤誘導によって守られている人物がエイムズだ」
と突き止めることは別だった。
1986〜90年の合同会議記録では、
CIAとFBIがこうした矛盾や欺瞞の可能性を何度も検討している。
それでも、特定のCIA職員へ捜査を収束させるところまでは進まなかった。
1988年になっても「技術的侵入説」が残っていた
1988年2月。
CIAとFBIは再び合同会議を開いた。
この時点ではロントリーによる大使館侵入説はかなり弱くなっていた。
それでも、
何らかの技術的方法によってモスクワの通信・施設が侵害された可能性
はまだ主要仮説として残っていた。
つまり、
「CIA内部に人間のモグラがいる」
だけが唯一の説明になっていたわけではない。
一方、FBI内部の防諜専門家の中では、
1988年頃までに人間による侵入の可能性が高いという認識が強まっていた。
情報源が摘発される速度と正確さから、
KGBが詳細で信頼性の高い情報を得ていると考えたためである。
それでも、その分析は大規模な合同人物捜査へ直結しなかった。
調査資源そのものも少なかった
初期のモグラ捜査が遅れた原因を、
「CIAが無能だった」
という一言で片づけるのも正確ではない。
構造的な問題があった。
Special Task Forceは小規模だった。
特定人物を調べる専任捜査官も限られていた。
そして数少ない調査担当者が、
別の防諜案件にも振り向けられた。
1988年には、
別のCIA職員について「給与以上の支出をしている」という情報が寄せられ、
財務調査が行われた。
その人物は実際に収入以上の支出をしていた。
しかし調査すると、配偶者の相続財産で説明できた。
無関係だった。
それでも、この調査には約1年が使われた。
しかも担当した人物は、
1985〜86年の損失原因調査を担当する数少ない捜査官でもあった。
1988年|CIAはCounterintelligence Centerを新設する
1988年4月、CIAは防諜機能をまとめるため、
新しいCounterintelligence Center(CIC)を設置した。
それまで分散していた防諜活動を、
より中央集権的に管理するための組織だった。
1985〜86年の損失を調べていたSpecial Task Forceも、
CIC内部のInvestigations Branchへ組み込まれた。
組織改革そのものは、
防諜能力を強化する目的で行われた。
一方、移行作業にも人員と時間が必要だった。
1988年7月のCIA・FBI会議記録には、
新しいCounterintelligence Centerの立ち上げ作業によって、
損失原因調査があまり進んでいないことも記録されている。
1988年末|CIAとFBIの合同会議も途切れる
1986年12月から続いたCIA・FBIのオフサイト会議は、
1988年12月を最後に途切れた。
ANLACEはすでに前年の1987年9月に解散している。
双方で1985〜86年の情報源喪失を担当していた職員も、
徐々に別の仕事へ移った。
米司法省Inspector Generalは後に、
1987年9月から1991年半ばまでについて、
FBIにはCIAとFBI双方の損失原因を解明するための
継続的な専用分析・捜査活動が存在しなかった
と評価している。
問題は未解決だった。
しかし、専任して追う仕組みは弱くなっていった。
1989年11月|ついに「エイムズ」という名前につながる情報が出る
それでも1989年になると、
初めてエイムズ本人へ直接つながる重要な情報が出てきた。
エイムズは同年、ローマ勤務からワシントンへ戻っていた。
11月。
彼をよく知るCIA職員がCounterintelligence Centerへ、
「エイムズの生活水準が収入に比べて不自然に高い」
と報告した。
ローマ赴任前には金銭的に苦しんでいた人物が、
帰国後には明らかに裕福になっていた。
しかもその職員は、
エイムズが1985〜86年に失われた情報源について知り得る立場だったことも理解していた。
これは後から見れば、
モグラ捜査とエイムズを直接つなぐ極めて重要な情報だった。
54万ドルの住宅に、住宅ローンがなかった
CIAの担当者が調べると、
さらに異常な事実が出てきた。
エイムズ夫妻は1989年、
バージニア州アーリントンの住宅を54万ドルで購入していた。
しかも公的記録上、
住宅ローンが確認できなかった。
さらに米財務省側の記録を照会すると、
1985年から1989年までに複数の大口現金取引が確認された。
1985年に1万3,000ドル。
1986年に1万5,000ドル。
1989年にはイタリア・リラから2万2,107ドル相当を換金。
合わせて5万ドルを超える。
情報へのアクセス。
突然の富。
大量の現金。
ここまで来れば、
現在の読者には「なぜすぐ調べなかったのか」と見える。
しかし捜査は、ここでも止まった。
1990年|財務調査は始まったが、担当者が別件へ回された
エイムズの不自然な資産を調べていたCIA捜査官は、
1990年1月から約2か月間の研修へ入った。
その間、代わりの担当者は置かれなかった。
3月に戻ると、
今度は別の防諜案件へ回された。
さらに東ドイツの情報機関ファイルを調べるため、
欧州へ派遣されることもあった。
エイムズの財務情報は消えたわけではない。
しかし、
「優先して最後まで掘る案件」にならなかった。
なぜFBIへ渡さなかったのか
後の調査で、ここも大きな問題になった。
CIAは1989〜90年の段階で、
エイムズについて、
- 失われたソ連情報源への広いアクセス
- 突然の生活水準上昇
- 54万ドルの住宅をローンなしで購入
- 複数の大口現金取引
という材料を持ち始めていた。
しかし、これらはすぐFBIの正式捜査へ渡されなかった。
CIA側は、
FBIが正式捜査を開始するにはまだ根拠が不足していると考えていた。
またCIA Inspector Generalの調査では、
CIA作戦部門外の財務専門家やFBIへ支援を求めることへの慎重さも指摘されている。
CIA職員を調べているという事実自体を、
できる限り狭い範囲に留めようとしていたのである。
そして1990年、また別の「モグラ情報」が現れた
1990年8月。
CIAは亡命者から新しい情報を得た。
KGBが1970年代半ば、
CIAソ連・東欧部門の職員をリクルートしていたという内容だった。
その人物について、
ソ連生まれ。
モスクワ勤務経験がある。
派手な生活を好む。
といった特徴が示された。
これまで追っていた別の防諜情報とも一部が一致しているように見えた。
CIAとFBIはこの情報を調査した。
しかし最終的に、その情報は信頼できないと判断される。
また時間を使った。
1990年末|エイムズへの疑いは消えてはいなかった
ここまで見ると、
CIAがエイムズを完全に無視していたようにも見える。
実際にはそうではない。
1990年秋には、
説明できない富を理由に、
エイムズについて身辺再調査とポリグラフ検査を行うべきだという判断が出ていた。
ただしCIA側は、
突然検査を行えばエイムズに疑いを持たれる可能性を恐れた。
前回の定期ポリグラフは1986年。
通常の5年周期なら、次は1991年になる。
そこで、
通常の定期検査に見せるため1991年まで待つ
という判断がなされた。
1990年12月5日には、
担当者がエイムズの大口現金取引、
54万ドルの住宅、
約4万9,000ドルのジャガーなどをまとめた文書をOffice of Securityへ提出した。
エイムズは、ようやく具体的な調査対象になり始めていた。
しかしまだ、
「1985〜86年の大量損失を起こしたモグラ」
としてFBIが捜査する段階には達していなかった。
では、1986〜1990年の捜査は「何を間違えた」のか
後の公式調査を整理すると、
一つの致命的ミスだけがあったわけではない。
複数の問題が重なっている。
1|原因分析が人物捜査へつながらなかった
CIAのSpecial Task Forceは、
失われたケースの共通点を分析した。
しかし正式な容疑者リストを作り、
アクセス者を一人ずつ調べるところまでは進まなかった。
2|CIAとFBIの損失を最初から一つの事件として扱わなかった
両組織は情報交換をしていた。
だが1987〜88年の段階では、
CIAとFBI双方の全損失を統合した合同人物捜査にはなっていなかった。
3|もっともらしい代替仮説が多数あった
エドワード・リー・ハワード。
ロントリー事件。
大使館への技術的侵入。
CIA側の作戦ミス。
別のCIA内部侵入情報。
いずれも無視できない仮説だった。
4|KGBによる欺瞞も混ざっていた
失われた情報源がまだ安全であるように見せたり、
CIA側のミスだったと思わせたりする情報が流された。
捜査側は真偽を確認するために時間を使った。
5|専任資源が少なく、別件へ容易に diverted された
捜査官が別の防諜案件、
組織改編、
海外調査などへ回された。
未解決事件でありながら、
常に最優先で追跡され続けたわけではなかった。
6|エイムズ本人へつながる材料が統合されなかった
後の司法省Inspector Generalは、
1987〜88年の時点でも調べようと思えば確認できた材料として、
エイムズのソ連外交官との未報告接触と、
その直後の大口現金入金との関係を挙げている。
しかし当時は、
その記録を横断して照合する捜査が行われなかった。
後から見れば「答え」は記録の中にあった
この事件で最も印象的なのは、
決定的な秘密情報が1993年になって突然現れたわけではないことである。
1985〜86年には、
エイムズとソ連外交官の接触記録があった。
銀行には、
その後の大口現金入金記録があった。
CIAには、
エイムズが失われた情報源へアクセスできた記録があった。
1989年には、
生活水準が突然上がったという内部通報まで出た。
資料は、それぞれ別々の場所に存在していた。
問題は、
それらが一人の人物を中心に結び付けられていなかったことだった。
FACT CHECK|1986〜1990年のモグラ捜査
FACT|CIAは1986年10月に4人のSpecial Task Forceを設置した
失われたソ連ケースの共通点を分析し、原因を特定するための小規模チームだった。
FACT|STFは正式な容疑者リストを作成しなかった
CIA Inspector Generalは、アクセス者の正式なリスト作成や特定人物への捜査が行われなかったことを問題点としている。
FACT|FBIは同じ1986年10月に6人のANLACE Task Forceを作った
FBI側の重要なソ連情報源2人が失われた原因を分析するためだった。
FACT|ANLACEは1987年9月、原因を確定できないまま最終報告を出した
その後チームは解散した。
FACT|CIAとFBIは1986〜88年に8回の合同オフサイト会議を行った
したがって「CIAとFBIがまったく情報共有しなかった」という説明は正確ではない。
FACT|ロントリー事件、技術的侵入、ハワードなど複数の仮説が調査された
いずれも当時の状況では検証する必要のある仮説だった。
FACT|1988年頃にはFBI内部で人間による侵入を疑う分析が強まっていた
それでもCIA・FBI合同の容疑者中心捜査は1991年まで始まらなかった。
FACT|1989年11月、CIAへエイムズの不自然な生活水準を指摘する情報が寄せられた
その後、54万ドルの住宅を住宅ローンなしで購入していたことや大口現金取引が確認された。
FACT|1990年末にはエイムズへの身辺再調査とポリグラフが要求された
ただし定期検査に見せるため、ポリグラフは1991年まで待つ方針となった。
1986〜1990年|モグラ捜査はどこで止まったのか
| 時期 | 捜査の動き |
|---|---|
| 1986年10月 | CIAが4人のSpecial Task Forceを設置。FBIも6人のANLACE Task Forceを設置。 |
| 1986年12月 | CIA・FBIが最初の合同オフサイト会議を開催。 |
| 1987年前半 | ロントリー事件を受け、モスクワの米国大使館へKGBが侵入した可能性を重点調査。 |
| 1987年8月頃 | ロントリー説では情報源喪失を説明できないとの判断が強まる。 |
| 1987年9月 | FBI ANLACEが原因未確定のまま最終報告を出して解散。 |
| 1988年 | 技術的侵入説、別のCIA職員、KGBからもたらされた情報など複数仮説を継続調査。 |
| 1988年4月 | CIAがCounterintelligence Centerを設置。STFは新組織へ統合。 |
| 1988年12月 | CIA・FBIの合同オフサイト会議が事実上途切れる。 |
| 1989年11月 | CIA職員がエイムズの突然の裕福さを防諜担当へ報告。 |
| 1990年1月 | 54万ドルの住宅、大口現金取引などが確認されるが、財務調査は停滞。 |
| 1990年8月 | 別の「CIA内部のモグラ」情報が入り、調査資源が再びそちらへ向けられる。 |
| 1990年12月 | エイムズへの身辺再調査・ポリグラフを正式要求。 |
「CIAは何もしなかった」のではない
1986〜1990年の経過を見ると、
CIAもFBIも何もしていなかったわけではない。
むしろ、多数の仮説を調べている。
Special Task Force。
ANLACE。
8回の合同会議。
ロントリー事件。
技術侵入調査。
KGBの欺瞞分析。
別のCIA職員への財務調査。
亡命者情報。
問題は、
調査の量ではなく、調査結果を一人の容疑者へ収束させる仕組みにあった。
CIAとFBI双方で失われた情報源を横断する。
アクセスできた人物を一覧化する。
その人物の接触歴を見る。
財務記録を見る。
不自然な生活変化を見る。
それらを同じ捜査班で統合する。
この方法が本格的に採られるのは、
1991年だった。
次回|198人から29人へ
1991年4月。
CIAとFBIは、ようやく捜査方法を変える。
これまでのように、
「何が原因だったのか」
だけを分析するのではない。
CIAとFBIの担当者を一つのチームに置き、
失われたケースへのアクセス者を洗い出し、
「誰がやったのか」
を直接探す。
その結果、1985〜86年の情報へアクセスできたCIA職員として、
198人が抽出された。
そこから29人。
その29人の中に、
アルドリッチ・エイムズがいた。
しかも、複数の捜査担当者が彼を優先候補として挙げていた。
次回は、
8年近く答えを出せなかったモグラ捜査が、
どのように「容疑者を絞る捜査」へ変わったのかを追う。
CASE FILE 34|アルドリッチ・エイムズ事件 全10回
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第1回|アルドリッチ・エイムズ事件とは?|CIA内部の「モグラ」はどう特定され、逮捕されたのか
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第2回|アルドリッチ・エイムズはなぜKGBへ接触したのか|1985年4月、CIA職員がソ連大使館を訪れた日
-
第3回|エイムズは何をKGBへ渡したのか|CIA・FBI情報源の喪失と1985〜86年の異常
- 第4回|なぜ最初のモグラ捜査はエイムズへ届かなかったのか|1986〜1990年、CIAとFBIの迷走【現在の記事】
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第5回|CIAとFBIはどう容疑者を絞ったのか|1991年、198人から29人へ進んだ合同防諜捜査
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第6回|なぜ「説明できない資産」は見逃されたのか|現金購入の住宅、ジャガー、ポリグラフ検査
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第7回|FBIはなぜエイムズへ本格捜査を向けたのか|1993年、資金分析からFISA監視へ
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第8回|郵便受けのチョーク印は何を意味したのか|SMILE信号地点、住宅捜索、ボゴタ会談
-
第9回|アルドリッチ・エイムズはどう逮捕されたのか|1994年2月21日から有罪答弁・終身刑まで
-
第10回|アルドリッチ・エイムズ事件は米国防諜体制をどう変えたのか|制度改革と2026年の死去
出典・参考資料
-
U.S. Senate Select Committee on Intelligence,
An Assessment of the Aldrich H. Ames Espionage Case and Its Implications for U.S. Intelligence,
S. Prt. 103-90, 1994. -
U.S. Department of Justice, Office of the Inspector General,
A Review of the FBI’s Performance in Uncovering the Espionage Activities of Aldrich Hazen Ames,
Unclassified Executive Summary, 1997. -
Central Intelligence Agency, Office of Inspector General,
Unclassified Abstract of the Aldrich H. Ames Investigation.
資料について:
本記事では、1986〜1990年の初期モグラ捜査について、1994年の米上院情報特別委員会報告と、1997年の米司法省Inspector GeneralによるFBI対応検証を主に使用した。両資料は評価の焦点が異なる。CIA Inspector General資料はCIA内部の調査過程を中心に扱い、司法省Inspector GeneralはFBI側の対応とCIA/FBI間の連携不足をより厳しく検証している。このため「CIAとFBIは情報共有していた」という事実と、「1991年まで統合された容疑者中心の合同捜査を行わなかった」という事実を分けて記述した。また、後からエイムズの犯行が判明していることを前提に、当時検証する合理性があったロントリー事件、技術的侵入、ハワード等の仮説を最初から無意味だったとは扱っていない。