1994年2月21日朝。
バージニア州アーリントン。
アルドリッチ・エイムズは、
いつものように自宅を出た。
CIA職員としての勤務は31年。
そのうち約9年間、
ソ連、そしてロシア側へ米国の機密情報を渡してきた。
前年11月には、
コロンビアのボゴタでロシア側担当者と直接会っている。
FBIは、
その一連の動きをほぼリアルタイムで追っていた。
秘密通信の方法。
郵便受けのチョーク印。
ボゴタでの会談。
帰国後の大口現金入金。
証拠は積み上がっていた。
それでもFBIは、
1993年11月には逮捕しなかった。
監視を続ければ、
さらにロシア側との通信方法や活動実態を確認できる可能性があったからである。
だが1994年初頭、
その判断を変える出来事が起きる。
エイムズが、CIAの公務でモスクワへ出張する予定になった。
これまでにも国外出張を止めていた。
また延期すれば、
自分が疑われていることを悟られるかもしれない。
そのままモスクワへ行かせれば、
ロシア側へFBI捜査の存在を知らせる可能性がある。
もう待てない。
FBIは逮捕を決めた。
1994年2月21日。
約9年間続いたアルドリッチ・エイムズのスパイ活動は、
アーリントンの自宅前で終わる。
前回|FBIは秘密通信の「仕組み」まで把握していた
第8回では、
1993年秋にFBIの監視がどこまで進んでいたのかを追った。
9月にはエイムズ宅のゴミから、
ボゴタでの秘密会合を示すとみられるメモが見つかった。
10月9日には住宅を秘密捜索。
コンピューターから、
ロシア側との通信方法や、
ワシントンD.C.の郵便受けを使ったsignal siteの情報が発見された。
10月13日朝には、
その郵便受け――SMILEに横向きのチョーク印が現れた。
11月1〜2日には、
エイムズがボゴタでロシア側担当者と会ったことも確認された。
帰国後には、
約4万3,200ドルの大口入金も行われた。
← 第8回|郵便受けのチョーク印は何を意味したのか|SMILE信号地点、住宅捜索、ボゴタ会談
1993年11月以降|エイムズはほぼ常時監視されていた
ボゴタ会談の後、
FBIはエイムズを
ほぼ常時の物理監視
下に置いた。
狙いは、
再び機密情報をロシア側へ渡す機会を捉えることだった。
エイムズの行動は、
自宅。
通勤。
車。
郵便。
電話。
秘密通信地点。
複数の方向から追われていた。
一方、
エイムズ自身はCIA職員として勤務を続けている。
自分がFBIの最重要監視対象になっていることには気づいていなかった。
それでも、すぐ逮捕しなかった
ここまで証拠が集まったなら、
「なぜボゴタから帰国した直後に逮捕しなかったのか」
という疑問が出る。
防諜捜査では、
逮捕が必ずしも唯一の目的ではない。
監視を続けることで、
- 相手国側の担当者
- 秘密通信の方法
- signal site
- dead drop
- 今後の会合予定
- 追加で渡そうとしている情報
を把握できる可能性がある。
早く逮捕すれば、
その情報源は失われる。
FBIは、
エイムズが再び情報を渡す瞬間を警戒しながら、
監視を継続した。
一方で、「待つこと」自体にもリスクがあった
エイムズは、
すでにロシア側へ多数の機密情報を渡している。
しかもCIA職員として働き続け、
新しい情報へアクセスできる。
FBIが監視していても、
すべての行動を完全に止められるわけではない。
監視を続けるほど、
さらに機密情報が流出する可能性も残る。
つまり捜査側には、
「もっと証拠を得るため待つ利益」と「待っている間にさらに秘密が漏れる危険」
の両方があった。
1994年初頭|モスクワ出張の予定が入る
その均衡を崩したのが、
CIAの公務だった。
1994年初頭、
FBIとCIAは、
エイムズが2月後半にモスクワで開かれる会議へ出席する予定であることを把握した。
これは捜査側にとって大きな問題だった。
ロシア国内へ入れば、
FBIの監視能力は米国内とは大きく異なる。
エイムズがロシア情報機関の担当者へ接触する可能性もある。
さらに、
捜査されていることを何らかの形で察知すれば、
米国へ戻らない可能性も考えなければならない。
しかし「出張を止める」ことも危険だった
ではCIAが、
単純にモスクワ出張を中止すればよいのか。
それにも問題があった。
エイムズの国外出張は、
すでに別の理由をつけて延期・変更されたことがあった。
これ以上不自然な形で止めれば、
「自分が監視されているのではないか」
と気づく可能性がある。
スパイ事件では、
対象者が捜査を察知した瞬間、
証拠を破棄する。
ロシア側へ警告する。
逃亡する。
通信方法を変更する。
といった行動を取る可能性がある。
FBIは、
モスクワへ行かせることも、再び止めることも危険
と判断した。
逮捕するしかなくなった
1994年米上院情報特別委員会報告は、
この判断を明確に記録している。
FBIは、
モスクワ出張を再び延期させればエイムズを警戒させる可能性があり、
これ以上逮捕を待つことはできない
と判断した。
逮捕計画が承認された。
1994年2月21日朝|自宅を出たエイムズ
2月21日朝。
FBI捜査官は、
バージニア州アーリントンのエイムズ宅周辺で待っていた。
上院報告によれば、
エイムズは自宅外の車内で逮捕された。
FBI公式写真にも、
自宅近くで捜査官に拘束されるエイムズの姿が残っている。
52歳。
CIA勤務31年。
KGBへの最初の接触から、
8年10か月ほどが経過していた。
数分後、ロサリオも自宅内で逮捕された
エイムズの拘束から数分後。
FBI捜査官は自宅内に入り、
妻マリア・デル・ロサリオ・カサス・エイムズも逮捕した。
ロサリオはCIA職員ではない。
しかし捜査側は、
彼女が夫の秘密活動と不自然な現金について認識し、
一部の活動を助けていたと判断していた。
夫妻は、
ロシアおよび旧ソ連のために行ったスパイ活動に関する容疑で拘束された。
逮捕は翌日、公表された
2月22日。
米政府は、
CIA職員アルドリッチ・エイムズと妻ロサリオの逮捕を公表した。
米国側にとって衝撃だったのは、
単にCIA職員が外国へ情報を売っていたからではない。
エイムズは、
CIAの対ソ連活動と防諜に深く関わる立場にいた。
その人物が、
1985年から長期間にわたって情報を漏らしていた。
しかも、
その間にCIA・FBIの重要情報源が相次いで失われていた。
逮捕と同時に、
「何を漏らしたのか」
と同じくらい、
「なぜ9年間も発見できなかったのか」
が大きな問題になった。
逮捕時点でも、被害の全体像は分かっていなかった
現在は、
エイムズ事件について膨大な調査資料が公開されている。
しかし1994年2月21日時点では、
米政府自身も被害の全体像を把握していなかった。
何人の情報源を特定して渡したのか。
どの技術作戦が漏れたのか。
どの分析資料を渡したのか。
ロシア側はいくら支払ったのか。
どこまでCIA内部の情報を知ったのか。
まだ確認しなければならないことが多かった。
そのため逮捕後には、
刑事事件としての司法手続と並行して、
エイムズ本人から何を聞き出すか
が重要になる。
裁判になれば、機密情報を扱う必要がある
スパイ事件の裁判には、
通常の刑事事件とは違う難しさがある。
政府が
「この情報をエイムズが漏らした」
と法廷で証明しようとすれば、
その情報自体が国家機密である場合がある。
証人も、
CIA職員や秘密情報源に関係する可能性がある。
どこまで証拠を公開するのか。
裁判を通じて、
さらに秘密を明らかにしてしまわないか。
政府側には、
そうした問題もあった。
一方、エイムズには終身刑を免れる余地がほとんどなかった
捜査側は、
銀行記録だけを持っていたわけではない。
住宅捜索で得た文書。
コンピューター内の秘密通信資料。
FISAによる監視。
ロシア側との接触。
ボゴタ会談。
帰国後の入金。
大量の証拠がすでにあった。
有罪となった場合、
極めて重い刑が予想された。
そこで事件は、
公開法廷での長期裁判ではなく、
司法取引へ向かう。
1994年4月28日|夫妻が有罪を認める
逮捕から約2か月後。
1994年4月28日。
アルドリッチ・エイムズとロサリオは、
連邦裁判所で有罪を認めた。
エイムズは、
スパイ活動に関する共謀と税金に関する犯罪
について有罪答弁した。
ロサリオも、
夫のスパイ活動に関連する罪と税金に関する共謀について有罪を認めた。
なぜ税金の罪もあったのか
KGB・ロシア側から得た金も、
米国の税法上まったく存在しない金になるわけではない。
エイムズ夫妻は、
スパイ活動によって得た巨額の収入を申告していなかった。
そのため事件には、
スパイ罪だけでなく、
その金を隠したことに関する税犯罪
も含まれた。
エイムズは同日、仮釈放なしの終身刑へ
連邦地裁は、
エイムズの有罪答弁を受理した。
そして司法取引に従い、
仮釈放の可能性がない終身刑
を言い渡した。
つまり、
通常の刑期を終えれば社会へ戻れる刑ではない。
生涯を連邦刑務所で過ごすことを意味していた。
「有罪を認めれば軽くなる」司法取引ではなかった
司法取引という言葉から、
「有罪を認める代わりに刑が大幅に軽くなった」
と考えると、
エイムズの場合は少し違う。
終身刑。
しかも仮釈放なし。
エイムズ本人には、
極めて重い刑が維持された。
政府側が得た大きな利益は、
長期の機密裁判を避け、本人からスパイ活動の全容について協力を得ること
だった。
司法取引の重要な条件|「すべて話す」
エイムズは司法取引の一環として、
米政府の調査へ協力することになった。
逮捕後、
FBIなどはエイムズに対して詳細なデブリーフィングを行った。
誰をKGBへ渡したのか。
何を渡したのか。
いつ会ったのか。
どの通信方法を使ったのか。
いくら受け取ったのか。
CIA内部のどの秘密を渡したのか。
捜査側は、
長年外側から推測していたスパイ活動を、
本人の説明と記録から再構成していった。
このデブリーフィングが、後の公式調査の重要資料になった
本シリーズで何度も使ってきた1994年米上院情報特別委員会報告にも、
エイムズ本人への逮捕後の聴取内容が多数使用されている。
例えば、
1985年4月に最初の接触を考えた理由。
最初は「一度限り」のつもりだったという本人の説明。
6月13日に大量の情報源を渡した理由。
ポリグラフへの対応。
KGBとの会談。
こうした内容の一部は、
逮捕後の本人供述によって初めて詳しく判明した。
もちろん、
本人の供述だからすべて自動的に事実になるわけではない。
そのため公式調査は、
銀行記録、
CIA記録、
FBI監視資料、
ロシア側との通信資料などと照合している。
エイムズの資産も没収された
司法取引には、
財産の没収も含まれた。
スパイ活動で得た金を使って購入した資産などが、
米政府へ没収された。
FBIによれば、
そのうち
54万7,000ドル
が司法省のVictims Assistance Fundへ移された。
ロサリオは同じ終身刑ではなかった
妻ロサリオについては、
夫とは刑の重さが異なった。
彼女自身がCIA内部の機密情報へアクセスし、
情報源の名前をKGBへ渡した人物ではない。
一方で、
夫が秘密活動を行っていることを知り、
巨額の現金を扱うなど、
活動を助けたと政府側は判断していた。
4月28日に有罪答弁した後、
量刑は延期された。
そして1994年10月20日。
ロサリオには、
63か月の禁錮刑
が言い渡された。
なぜロサリオの量刑は後だったのか
司法取引では、
アルドリッチ・エイムズが政府へ十分協力することが重要だった。
ロサリオの量刑を後にすることで、
政府側はエイムズがデブリーフィングなどの協力義務を果たすか確認できる。
つまり夫妻の司法取引は、
それぞれ独立したものではなく、
エイムズから最大限の情報を得ること
とも結びついていた。
9年間のスパイ活動は、約2か月で司法上の決着へ進んだ
1985年4月。
エイムズは自分からソ連大使館へ入った。
そこから逮捕まで約9年。
CIAとFBIは、
情報源喪失。
原因分析。
198人。
29人。
財務調査。
FISA。
秘密捜索。
チョーク印。
ボゴタ会談。
という長い過程を経た。
しかし逮捕後は、
約2か月で有罪答弁と終身刑へ進んだ。
捜査段階ですでに、
それだけ多くの証拠が積み上がっていたということでもある。
「逮捕して終わり」ではなかった
刑事事件としては、
1994年4月28日にエイムズの刑が確定した。
しかし米国情報機関にとって、
事件はここからもう一段階続く。
なぜ1985年に見つけられなかったのか。
なぜ情報源喪失を把握しても、
1986〜90年に容疑者へ届かなかったのか。
なぜ1989年に不自然な資産が見つかっても、
本格捜査まで数年かかったのか。
なぜポリグラフを通過できたのか。
CIAとFBIの情報共有は十分だったのか。
誰が責任を負うのか。
議会。
CIA Inspector General。
司法省。
CIA。
FBI。
複数の機関が、
今度は
「エイムズを捕まえる捜査」ではなく、「なぜ捕まえるまで9年かかったのか」
を調べ始める。
FACT CHECK|1994年の逮捕と司法手続
FACT|1994年初頭、エイムズにはCIA公務でモスクワへ出張する予定があった
FBIとCIAは、出張を再び延期すればエイムズへ捜査を悟られる可能性があると判断した。
FACT|FBIはモスクワ出張を前に、これ以上逮捕を延期できないと判断した
1994年米上院情報特別委員会報告に記録されている。
FACT|1994年2月21日朝、エイムズはアーリントンの自宅外で逮捕された
上院報告では、自宅外の車内でFBI捜査官が拘束したとされている。
FACT|ロサリオは数分後、自宅内で逮捕された
夫妻ともロシアおよび旧ソ連のためのスパイ活動に関する容疑で拘束された。
FACT|エイムズ逮捕時点のCIA勤務歴は31年だった
FBI公式事件史が確認している。
FACT|1994年4月28日、アルドリッチとロサリオはともに有罪答弁した
スパイ活動と税金に関連する犯罪について罪を認めた。
FACT|アルドリッチ・エイムズは仮釈放なしの終身刑を受けた
有罪答弁と同日の1994年4月28日に判決が言い渡された。
FACT|司法取引の一環としてエイムズは米政府のデブリーフィングへ協力した
FBIはその後、情報源の身元、渡した情報、ロシア側との関係などについて詳細な聴取を行った。
FACT|資産没収が行われた
FBIによれば、没収資産のうち54万7,000ドルが司法省Victims Assistance Fundへ移された。
FACT|ロサリオは1994年10月20日に63か月の禁錮刑を受けた
アルドリッチとは刑事責任の範囲が異なり、終身刑ではなかった。
1994年|監視から終身刑まで
| 日付 | 出来事 |
|---|---|
| 1994年初頭 | エイムズにCIA公務でモスクワ出張の予定が入る。 |
| 1994年2月 | FBIが、これ以上出張を延期すれば捜査を悟られる可能性があると判断。 |
| 2月21日朝 | FBIがアーリントンの自宅外でアルドリッチ・エイムズを逮捕。 |
| 数分後 | 妻ロサリオを自宅内で逮捕。 |
| 2月22日 | 逮捕が公表され、CIA内部への長期侵入事件として大きな問題となる。 |
| 4月28日 | 夫妻が有罪答弁。 |
| 4月28日 | アルドリッチ・エイムズに仮釈放なしの終身刑。 |
| 逮捕後 | FBIなどがエイムズを詳細にデブリーフィング。 |
| 10月20日 | ロサリオ・エイムズに63か月の禁錮刑。 |
9年追ったHUNTは、ここで終わる
CASE34を、
アルドリッチ・エイムズ本人の視点だけで読むと、
1985年に始まり、
1994年に逮捕されたスパイ事件になる。
しかしHUNTとして見ると、
別の線が見える。
1985年。
情報源が消える。
1986年。
原因分析が始まる。
しかし人物へ届かない。
1991年。
198人から29人へ。
1992年。
金とソ連側との接触がつながる。
1993年。
FBIが本格監視。
秘密通信。
住宅捜索。
チョーク印。
ボゴタ。
そして1994年。
モスクワ出張予定によって、
監視を続ける余地がなくなった。
2月21日、
FBIは逮捕した。
約8年半に及んだ「誰が漏らしているのか」という捜査は、ここで終わった。
しかしSYSTEMとしての事件は、まだ終わっていない
エイムズ本人は捕まった。
刑も決まった。
だが、
CIAとFBIに残った問題はそれより大きかった。
なぜ情報源が大量に消えた1985〜86年に、
捜査を人物へ向けられなかったのか。
なぜ54万ドルの現金購入住宅が、
数年間決定打にならなかったのか。
なぜ198人から29人へ絞った後も、
エイムズの本格捜査まで時間がかかったのか。
組織のどこに、
情報の断絶があったのか。
誰が何を知り、
何を共有しなかったのか。
1994年の逮捕後、
米議会とCIAはこの問題を調べ始める。
そして、
「一人のスパイを捕まえた」で終わらない制度改革
へ進んでいく。
最終回|アルドリッチ・エイムズ事件は何を変えたのか
逮捕直後、
米上院情報特別委員会はCIA Inspector Generalへ調査を要求した。
調べる対象は、
エイムズの犯行だけではない。
なぜCIA職員が9年間も発見されずに活動できたのか。
CIAとFBIの連携。
資産確認。
セキュリティ・クリアランス。
ポリグラフ。
防諜組織。
責任追及。
制度そのものが検証された。
事件後には、
米国の防諜機能を強化する法制度と組織改革も進む。
そしてアルドリッチ・エイムズ本人は、
仮釈放なしの終身刑のまま30年以上服役する。
2026年1月5日。
連邦刑務所で、その生涯を終えた。
最終回は、
「CIA最大級のモグラ事件」が米国の防諜体制へ何を残したのか
を追う。
CASE FILE 34|アルドリッチ・エイムズ事件 全10回
- 第1回|アルドリッチ・エイムズ事件とは?|CIA内部の「モグラ」はどう特定され、逮捕されたのか
- 第2回|アルドリッチ・エイムズはなぜKGBへ接触したのか|1985年4月、CIA職員がソ連大使館を訪れた日
- 第3回|エイムズは何をKGBへ渡したのか|CIA・FBI情報源の喪失と1985〜86年の異常
- 第4回|なぜ最初のモグラ捜査はエイムズへ届かなかったのか|1986〜1990年、CIAとFBIの迷走
- 第5回|CIAとFBIはどう容疑者を絞ったのか|1991年、198人から29人へ進んだ合同防諜捜査
- 第6回|なぜ「説明できない資産」は見逃されたのか|現金購入の住宅、ジャガー、ポリグラフ検査
- 第7回|FBIはなぜエイムズへ本格捜査を向けたのか|1993年、資金分析からFISA監視へ
- 第8回|郵便受けのチョーク印は何を意味したのか|SMILE信号地点、住宅捜索、ボゴタ会談
- 第9回|アルドリッチ・エイムズはどう逮捕されたのか|1994年2月21日から有罪答弁・終身刑まで【現在の記事】
- 第10回|アルドリッチ・エイムズ事件は米国防諜体制をどう変えたのか|制度改革と2026年の死去
出典・参考資料
-
U.S. Senate Select Committee on Intelligence|
An Assessment of the Aldrich H. Ames Espionage Case and Its Implications for U.S. Intelligence,
S. Prt. 103-90, 1994
-
Federal Bureau of Investigation|Aldrich Ames
-
U.S. Department of Justice|
United States Attorneys’ Bulletin,
Major Espionage Case in the Eastern District of Virginia,
1994. -
U.S. Senate Select Committee on Intelligence|
Counterintelligence Hearing,
May 3, 1994.
資料について:
本記事では、1994年2月21日の逮捕判断と夫妻の拘束について1994年米上院情報特別委員会報告を主資料とした。同報告は、エイムズがCIA公務で2月後半にモスクワへ出張予定となり、FBIがこれ以上出張を延期させれば捜査を悟られる可能性があるため逮捕を決断した経緯を記録している。逮捕場所については「自宅前で逮捕」と簡略化されることがあるが、上院報告ではエイムズは自宅外の車内で拘束され、ロサリオは数分後に自宅内で逮捕されたとしている。4月28日の有罪答弁、エイムズの仮釈放なし終身刑、ロサリオの10月20日の63か月刑、没収資産のうち54万7,000ドルがVictims Assistance Fundへ移されたことについてはFBIおよび司法省資料を使用した。エイムズ逮捕後の供述は、後の公式調査でも重要資料となったが、本人の内面的動機等については客観記録と区別する必要がある。