現実世界のCASE FILE 現実世界のCASE FILE

九龍城寨の跡地には何が残ったのか?南門・衙門・公園と現在

九龍寨城公園に保存された九龍城寨の南門遺構と石額。
Cathouse116 / Wikimedia Commons 出典 CC BY-SA 3.0

THE QUESTION

九龍城寨の跡地には何が残ったのか? | 南門・衙門・公園と現在

STORY SO FAR

前回「なぜ九龍城寨は解体されたのか?|1987年の決定から補償・再収容・撤去まで」で確認した論点を受け、この回では九龍城寨の跡地には何が残ったのか? | 南門・衙門・公園と現在を扱う。

1994年までに、九龍城寨の巨大な建築群はほぼ完全に消えた。

何十年も香港の都市景観を圧倒していた高密度建築群は撤去され、あの暗い路地、複雑な内部通路、屋上、工場、商店、診療所も姿を消した。

それでも、九龍城寨の歴史がすべて消えたわけではない。

解体の過程で、20世紀の建築群の下から、1847年に築かれた清朝期の城寨の遺構が現れた。

南門と東門の基礎。

石畳。

排水溝。

「南門」と「九龍寨城」の文字を刻んだ石額。

そして、清朝の行政施設だった旧衙門。

九龍城寨の最後には、巨大な20世紀都市を壊す作業と、そのさらに下にある19世紀の歴史を発見する作業が同時に進んだ。

現在、その跡地は九龍寨城公園になっている。

しかし、ここで最初に区別しなければならないことがある。

現在の公園は、解体前の九龍城寨の街路や建物配置をそのまま保存・復元した場所ではない。

現在の園路、庭園、池、亭、植栽は、公園として新たに設計されたものだ。

一方で、その中には本物の遺構と保存建築が残る。

この記事では、九龍城寨の消滅後に何が残され、何が失われ、現在の公園がどのように「記憶の場所」へ変わったのかを追う。

解体すると、古い城寨が現れた

九龍城寨の歴史には、二つの大きく異なる姿がある。

一つは1847年に清政府が築いた城壁都市。

もう一つは1960年代以降に急速に成長した高密度建築群である。

20世紀後半の九龍城寨では、後者が前者をほとんど覆い隠していた。

城壁そのものは、日本占領期に啓徳空港拡張用の建材として撤去されている。

そのため、解体前の街を見ても、清朝期の城塞都市の形をそのまま目で確認することはできなかった。

ところが1987年の撤去決定後、建物を取り壊して地面へ近づくにつれ、古い城寨の痕跡が見つかる。

香港古物古蹟辦事處によれば、解体中の考古学調査で、元の南門と東門の基礎が特に良好な状態で確認された。

さらに、石板の通路と排水溝も発見された。

高密度建築の下には、それ以前の城塞都市の物理的痕跡が残っていた。

最も重要な発見は、二枚の石額だった

考古学調査で特に重要だったのが、南門跡から発見された二枚の花崗岩製石額である。

一枚には「南門」。

もう一枚には「九龍寨城」。

この二枚は、もともと清朝期の南門に掲げられていたものだった。

南門は1847年に築かれた城壁都市の正門だった。

20世紀後半の九龍城寨では、城壁も門もすでに姿を失っている。

しかし、その名称を刻んだ石は地中に残っていた。

LCSDの公園案内は、1994年にこの二枚の石額と南門基礎が発掘されたと説明している。

つまり、巨大建築群が最終的に解体される時期と、清朝期の城寨が考古学的に再発見される時期がほぼ重なっている。

この発見によって、跡地利用の意味も変わった。

単に「古いスラムを撤去して新しい公園を作る」のではなく、歴史的遺構を現地で保存する計画が必要になった。

南門遺構は「原位置保存」された

香港古物古蹟辦事處によれば、政府は南門遺構をin situ、つまり原位置で保存し、市民に公開することを決めた。

ここが重要である。

南門は別の場所へ移して復元したモニュメントではない。

発掘された場所そのものが、保存対象になった。

現在、公園内で見られる南門遺構は、かつての城寨正門が存在した地点を示している。

石額も保存されている。

そのため、現在の公園で歴史的な位置を最も明確に感じられる場所の一つが南門跡である。

ただし、現在目にする景観のすべてが1847年当時のまま残っているわけではない。

発掘された基礎と石額が保存され、その周囲は公園として整備されている。

「本物の遺構」と「後世の公園景観」を分けて見る必要がある。

東門も見つかったが、現在の中心的保存対象は南門である

考古学調査では南門だけでなく、東門の基礎も確認された。

香港古物古蹟辦事處は、南門と東門の基礎が良好な状態で発見されたことを記録している。

しかし、現在「九龍寨城南門遺蹟」として法定古蹟になっているのは南門側である。

ここでも、発見された遺構すべてが同じ形で展示・保存されたわけではないことが分かる。

遺跡調査では複数の痕跡が見つかる。

その中から、保存状態、歴史的重要性、展示方法、公園設計などを踏まえて保存対象が選ばれる。

南門では、正門としての歴史的意味に加え、「南門」「九龍寨城」という二枚の石額が見つかったことが、場所の特定と歴史説明を非常に強くした。

旧衙門は、解体を免れた建物だった

南門が「地中から再発見された遺構」なら、旧衙門は「地上に残った建物」である。

旧衙門は1847年、九龍城寨が清朝の軍事・行政拠点として整備されたときに築かれた。

香港古物古蹟辦事處によれば、三進二院式の構成を持ち、中進が行政執務の場、後進が官吏の住居として使われていた。

灰色煉瓦。

瓦屋根。

柱と妻壁で支えられた比較的簡素な構造。

20世紀後半の九龍城寨の巨大コンクリート建築群とはまったく違う。

この旧衙門が、最終的な撤去時に保存対象となった。

政府は建物を修復し、九龍城寨と周辺地域の歴史を示すものとして残した。

旧衙門は、1899年以後も使われ続けた

旧衙門の価値は、清朝の行政庁舎だったことだけではない。

1899年に清朝官吏が城寨を去ったあとも、建物そのものは残った。

その後、宗教団体によって使用され、老人施設、寡婦・孤児のための施設、学校、診療所など、複数の用途に転用された。

つまり旧衙門は、一つの時代だけの建物ではない。

清朝の行政。

官吏退去後の宗教・福祉活動。

教育。

医療。

そして20世紀後半の巨大高密度都市。

そのすべてを同じ場所で見てきた。

このため、旧衙門は「1847年の建物」というだけでなく、九龍城寨の制度変化そのものを示す建築でもある。

南門と旧衙門は1996年に法定古蹟になった

現在、南門遺構と旧衙門はどちらも香港の法定古蹟である。

香港古物古蹟辦事處の最新リストでも、南門遺構と旧衙門はそれぞれ独立したDeclared Monumentとして掲載されている。

両者が法定古蹟となったのは1996年。

公園開園の翌年である。

この順序も興味深い。

まず城寨を撤去する。

解体中に遺構を確認する。

保存・修復する。

公園として整備する。

その後、法的な文化財保護対象として指定する。

九龍城寨の跡地は、都市問題の処理対象から、文化遺産の保存対象へ短期間で性格を変えた。

現在の九龍寨城公園は1995年に開園した

LCSDの公式案内によれば、九龍寨城公園は1995年12月22日に正式開園した。[3]

面積は約31,000平方メートル。

現在も香港康楽及文化事務署が管理している。

公式施設一覧では、所在地はTung Tsing Road, Kowloon City, Kowloonとされている。

公園は、かつて九龍城寨が存在した土地の上にある。

だからGoogle Mapsで現在の九龍寨城公園を表示すれば、旧城寨の「跡地」という地理的位置は確認できる。

しかし、その地図から解体前の路地や建物の配置を読み取ることはできない。

現在の地図は現在の公園を示している。

ここを混同してはいけない。

現在の公園は「解体前の街」を再現したものではない

九龍寨城公園を訪れると、池、亭、庭園、植栽、曲線的な園路が広がっている。

これは、解体直前の九龍城寨とはほとんど正反対の景観である。

暗い内部通路。

密集したコンクリート建築。

外壁を覆う看板。

屋上設備。

工場。

住宅。

そうしたものは残っていない。

LCSDによれば、公園は清朝初期の江南庭園様式を意識して設計された。

公園設計に先立ち、建築署の担当者が調査を行い、中国本土でも現地視察を行っている。

つまり現在の景観は、解体前の20世紀都市を復元することより、清朝期の歴史的背景を意識した庭園として再構成されたものだ。

この違いは重要である。

現在の九龍寨城公園を歩いても、「ここが昔の○○路地だった」と園路をそのまま対応させることはできない。

八つの景観区も、歴史的街路そのものではない

LCSDの公式案内では、公園は八つの主要な景観要素から構成されている。

旧衙門。

旧南門。

八徑異趣。

四季同馨。

生肖倩影。

棋壇比弈。

獅子窺園。

魁星半亭・歸璧石。

これらは現在の公園設計を構成する要素である。

名前や意匠には歴史とのつながりが組み込まれているが、解体前の巨大建築群の配置をそのまま保存したものではない。

たとえば「八徑異趣」は、公園の各景観を結ぶ植物を配した散策路である。

解体前の内部廊下網や細い路地を原位置で保存した道路ではない。

公園の美しい動線と、かつての迷路状都市を同じものとして扱うことはできない。

公園の中心に旧衙門が置かれている

LCSDは、公園中央に修復された旧衙門が立つと説明している。

この配置は象徴的である。

20世紀後半の九龍城寨を象徴したのは、高密度コンクリート建築だった。

しかし、それをすべて撤去した跡地の中心には、1847年の行政施設が残された。

現在の公園が何を「九龍城寨の歴史」として見せるか、その選択がここに表れている。

犯罪都市。

高密度スラム。

サイバーパンク的建築。

それだけではなく、九龍城寨には清朝の軍事・行政拠点としての起源があった。

公園は、その古い歴史を物理的な中心へ戻した。

南門遺構は、現在地を過去へつなぐ「固定点」になった

旧衙門が建物として歴史を伝える一方、南門遺構は場所そのものを伝える。

現在の公園は新しく設計された。

解体前の建物配置も残らない。

そうなると、訪問者が「ここが実際の旧城寨のどこだったのか」を感じる手掛かりは限られる。

その中で、原位置保存された南門遺構は特別である。

この場所に正門があった。

ここに城壁がつながっていた。

この地点を人が出入りした。

そうした位置関係を、現在の地面の上で確認できる。

過去の都市全体を復元できなくても、一点の位置を固定できれば、歴史と現在を接続できる。

南門遺構はその役割を持っている。

「何も残っていない」と言うのも正しくない

20世紀後半の高密度建築群だけを九龍城寨だと考えると、現在は「何も残っていない」と感じる。

実際、あの巨大な建築群は残っていない。

内部通路も住宅も工場も消えた。

しかし、城寨の歴史を1847年から考えると、南門遺構と旧衙門は極めて重要な残存物である。

さらに、発掘資料、写真、地図、行政文書、住民記録も残っている。

物理的な建築群が消えても、都市の痕跡は複数の媒体に分かれて残る。

遺構。

建築。

公文書。

写真。

模型。

証言。

これらを組み合わせて初めて、解体前の九龍城寨を再構成できる。

逆に「公園を見れば昔の城寨が分かる」とも言えない

現在の公園は歴史を伝える場所だが、解体前の生活空間そのものではない。

ここは重要な限界である。

庭園を歩くと広い空が見える。

植栽がある。

視界が抜ける。

通路が整備されている。

これは、解体前の九龍城寨の日常とは大きく違う。

かつての城寨内部では、建物が密集し、下層では自然光が乏しく、内部廊下と階段が複雑につながっていた。

現在の公園は、その空間体験を保存していない。

したがって、跡地を訪れることは歴史理解の一部にはなるが、それだけで高密度都市の実感を得ることはできない。

写真、図面、模型、映像、証言と組み合わせる必要がある。

保存されたのは「すべて」ではなく「選ばれた歴史」である

都市を解体して公園に変えるとき、何を残すかは選択になる。

九龍城寨の場合、南門遺構と旧衙門が保存された。

一方、20世紀後半の高密度建築群は原位置では残されなかった。

これは、どちらが「本当の九龍城寨」かという問題ではない。

両方とも九龍城寨の歴史である。

ただし、保存方法が違う。

清朝期の歴史は、実物遺構と建築で残る。

20世紀後半の高密度都市は、写真、映像、模型、記録、住民証言などで残る。

その結果、現在の公園では1847年の城寨起源が物理的に強く見える。

一方、世界的に知られる巨大建築群は、主にメディア記録の中で生き続ける。

現在は展示によって20世紀の記憶も補われている

現在の九龍寨城公園には、「A City of Thousand Faces」をはじめ、九龍城寨の歴史を紹介する展示施設も設けられている。

香港政府観光局は、公園内の展示について、城寨の模型や内部生活を理解するための資料が用意されていると案内している。

これは、公園景観だけでは失われてしまう20世紀後半の記憶を補う役割を持つ。

実物の巨大建築群は残せない。

ならば模型、写真、解説で伝える。

遺構保存と展示を組み合わせることで、清朝期と20世紀後半の双方を扱う。

現在の公園は、単なる緑地ではなく、複数時代の九龍城寨を重ねて見る場所になっている。

Google Mapsで確認できるのは「現在の跡地」である

現在、九龍寨城公園はGoogle Mapsでも確認できる。

場所はKowloon CityのTung Tsing Road。

地図上で見ると、公園の敷地と周辺道路、現在の都市環境が分かる。

これは非常に便利である。

ただし、歴史記事としては明確な注意書きが必要になる。

現在の公園は旧九龍城寨の跡地を示す。現在の園路・施設配置は、解体前の街路・建物配置そのものではない。

この記事で埋め込むGoogle Mapも、旧城寨の内部地図ではない。

あくまで「現在この場所がどこにあるか」を示す地理情報である。

現在の公園は旧九龍城寨の跡地を示す。現在の園路・施設配置は、解体前の街路・建物配置そのものではない。


Googleマップで大きく見る

歴史的な内部配置を確認するには、当時の航空写真、測量図、建物調査図など別の資料が必要になる。

20世紀の巨大建築群は、なぜ原位置保存されなかったのか

現在の公園には、1980年代の高密度建築群そのものは残っていない。

これは九龍城寨の記憶を考えるうえで大きな特徴である。

南門や旧衙門のような19世紀の遺構は、歴史的建造物・遺跡として保存できた。

一方、20世紀後半の巨大建築群は、住宅、工場、店舗、増築部、内部通路が複雑に連続し、しかも老朽化や安全性の問題を抱えていた。

全体をそのまま保存するには、構造安全、消防、衛生、維持管理、権利関係など多くの問題を解決しなければならない。

また、九龍城寨の建築的特徴は「一棟の記念建築」ではなく、多数の建物が接続して形成された都市全体にあった。

一部だけを切り取って残しても、解体前の空間構造を十分に伝えられるとは限らない。

結果として、20世紀都市は写真、映像、模型、図面、研究記録によって保存される比重が大きくなった。

この違いは、「保存できた歴史」と「記録によってしか残せなかった歴史」の差でもある。

写真と模型が、失われた都市空間を補っている

現在の公園で南門や旧衙門を見るだけでは、解体前の高密度都市を想像するのは難しい。

そこで重要になるのが、写真と模型である。

解体前には、写真家、研究者、行政機関が城寨内部を詳細に記録した。

外壁。

路地。

階段。

工場。

住宅。

診療所。

屋上。

これらの記録が残ったことで、建物が消えたあとも内部構造を追うことができる。

現在の展示で模型が使われる意味も同じである。

公園という開放的な空間の中で、かつて同じ土地にどれほど高密度な建物群が立っていたのかを立体的に比較できる。

つまり現地保存された南門・旧衙門と、記録保存された20世紀都市は役割が違う。

前者は「本物の場所と物」を残す。

後者は「失われた空間関係」を伝える。

両方を組み合わせなければ、九龍城寨の全体像には近づけない。

現地を訪れるとき、確認できることとできないこと

現在の九龍寨城公園を訪れる価値は大きい。

まず、旧城寨が存在した土地そのものに立てる。

南門の原位置を確認できる。

旧衙門の建物を実際に見ることができる。

周辺の九龍城地区や、かつて啓徳空港があった方向との地理関係も理解しやすい。

一方で、現地だけでは確認できないことも多い。

1980年代の内部路地幅。

建物ごとの高さ。

高層階の接続経路。

各工場や診療所の位置。

屋上動線。

住民が日常的に使った細かな経路。

これらは現在の園路から復元できない。

だから現地訪問では、「現在の公園を昔の街に見立てる」のではなく、南門や旧衙門のような確実な固定点を確認し、その上に写真・図面・模型を重ねて考える方が正確である。

Google Mapは「位置」を示すために使う

歴史記事に現在のGoogle Mapを埋め込む場合、その役割も限定しておく必要がある。

Google Mapが正確に示せるのは、現在の九龍寨城公園がどこにあるかである。

Tung Tsing Road。

Kowloon City。

現在の道路網。

周辺施設。

これらは現在地確認に有効である。

しかし、Google Mapの園路や建物記号を見て、解体前の九龍城寨内部の道路・建物を推測することはできない。

そのため本CASEでは、Mapを歴史復元図として扱わない。

Mapは現地位置を示す。

歴史的な内部構造は、当時の史料で確認する。

この役割分担を固定することで、現在地と過去の都市形態を混同しない。

南門と旧衙門を見ると、九龍城寨の時間軸が逆転する

九龍城寨という言葉から、多くの人が思い浮かべるのは1980年代の巨大建築群である。

しかし現在の跡地で最も重要な実物は、それより100年以上古い。

1847年の南門。

1847年の旧衙門。

巨大建築群は後から生まれ、先に消えた。

清朝期の構造物は、その下や内部に埋もれながら、最終的には残った。

これは九龍城寨の歴史を象徴する逆転である。

最も有名な姿が消え、最も古い層が残る。

そのため現在の公園を歩くと、世界的に有名な「高密度都市」より、その前史である「城塞都市」の方が物理的には強く感じられる。

九龍城寨は「消えた都市」だが、完全には消えていない

九龍城寨は1994年までに物理的な都市として消滅した。

しかし、その歴史は複数の形で残った。

南門遺構。

旧衙門。

発掘された石額。

公園。

行政文書。

航空写真。

建築写真。

住民の証言。

研究論文。

模型。

文化作品。

九龍城寨の記憶は、一つの保存建築の中だけに収まっていない。

むしろ建物が消えたからこそ、写真や記録の重要性が大きくなった。

現在私たちが九龍城寨の内部を詳しく知ることができるのは、解体前に写真家、研究者、行政機関が大量の記録を残したからである。

「サイバーパンクの原型」だけで終わらせないために

九龍城寨は、解体後も世界中のフィクションへ強い影響を与えた。

暗い路地。

積層する看板。

むき出しの配管。

密集する建物。

そのイメージは映画、ゲーム、漫画、アートなどで繰り返し引用される。

しかし、現在の跡地に残る南門と旧衙門を見ると、そのイメージだけでは九龍城寨を説明できないことが分かる。

九龍城寨は20世紀に突然出現した未来的廃墟ではない。

1847年の清朝軍事拠点から始まり、1898~1899年の管轄問題を経て、戦後に高密度化し、1987年に撤去が決まり、1994年に消滅した。[1]

そして1995年に公園へ変わり、1996年には残存遺構が法定古蹟となった。[1]

サイバーパンク的な外観は、その長い歴史の最後の数十年に現れた一段階にすぎない。

CASE060で見えてきたもの

8本の記事を通して追うと、九龍城寨は一つの原因では説明できない都市だったことが分かる。

1847年の軍事拠点。

1898年の条約上の例外。

1899年以降の管轄権対立。

戦後の人口流入。

1960年代からの高層化。

土地境界と啓徳空港による高さ制約。

弱い建築規制。

住宅と工場と商店の混在。

三合会や犯罪と、警察・行政活動の併存。

standpipe、井戸、電力、電話、廃棄物回収などの混合インフラ。

1987年から始まる補償と再収容。

1994年の解体。

そして1995年以降の公園と文化財保存。

九龍城寨は、どれか一つだけを取り出して説明すると必ず歪む。

「無法地帯」だけでもない。

「住民自治の理想都市」だけでもない。

「巨大建築」だけでもない。

「犯罪都市」だけでもない。

政治、行政、建築、市場、生活、インフラが異なる強さで作用した結果として成立したSYSTEMだった。

現在の公園は、そのSYSTEMが消えた場所にある

九龍寨城公園を現在訪れると、かつての圧迫感はほとんどない。

空が見える。

木がある。

池がある。

人が散歩する。

その静けさは、解体前の写真との落差が大きい。

しかし、公園の中には二つの固定点がある。

南門遺構。

旧衙門。

この二つを見れば、現在の庭園の下に、別の都市が何層も重なっていたことを思い出せる。

1847年の城塞。

戦後の住宅地。

1970~80年代の高密度都市。

1990年代の解体現場。

そして現在の公園。

同じ土地が、まったく異なる都市状態を経験した。

九龍城寨の最後に残ったのは「場所」だった

建物は消えた。

住民は移転した。

工場も店も診療所もなくなった。

内部通路も屋上動線も消えた。

それでも土地は残った。

南門はその場所に残された。

旧衙門も残った。

現在の公園は、過去の都市をそのまま保存したものではない。

だが、その都市が確かに存在した場所を未来へ残した。

九龍城寨の最終的な遺産は、巨大な建物そのものではなく、

「ここで、あの都市が実際に存在した」という位置の記憶なのかもしれない。

現在の九龍寨城公園は、その記憶を確認できる場所である。

ただし、庭園の静けさだけを見て過去を想像するのでは足りない。

南門遺構と旧衙門を見て、写真と記録を重ね、解体前の街と現在の公園が同じ土地の別の時代であることを理解する。

そこまで見て初めて、九龍城寨は「消えた都市」から「記録された都市」へ変わる。


FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Hong Kong Antiquities and Monuments Office, “Remnants of the South Gate of Kowloon Walled City, Kowloon Walled City Park.”
  2. [2] Hong Kong Antiquities and Monuments Office, “Former Yamen Building of Kowloon Walled City, Kowloon Walled City Park.”
  3. [3] Leisure and Cultural Services Department, “Kowloon Walled City Park – Design of the Park / Old South Gate.”
  4. [4] Leisure and Cultural Services Department, “Kowloon Walled City Park.”
  5. [5] Leisure and Cultural Services Department, Facilities & Venues Search, “Kowloon Walled City Park.”
  6. [6] Hong Kong Antiquities and Monuments Office, “List of Declared Monuments and Proposed Monuments.”
  7. [7] Hong Kong Tourism Board, “Kowloon Walled City Park.”
  8. [8] Hong Kong Government Records Service, archival materials on Kowloon Walled City and clearance
  1. 01 九龍城寨とは何だったのか?|巨大高密度都市の成立から解体まで
  2. 02 なぜ九龍城寨は「統治の隙間」に残ったのか?|1847年の城塞から戦後香港まで
  3. 03 九龍城寨はなぜ巨大な建築群になったのか?|無秩序な増築と高密度化の構造
  4. 04 九龍城寨で人々はどう暮らしていたのか?|住居・工場・店・診療所の日常
  5. 05 九龍城寨は本当に「無法地帯」だったのか?|犯罪・警察・行政介入の実像
  6. 06 九龍城寨の水・電気・排水・衛生はどう成り立っていたのか?|非公式都市インフラの実態
  7. 07 なぜ九龍城寨は解体されたのか?|1987年の決定から補償・再収容・撤去まで
  8. 08 九龍城寨の跡地には何が残ったのか?|南門・衙門・公園と現在

RSS FEED

RSSで更新を受け取る

RSSリーダーへ次のURLを登録すると、新着記事を確認できます。

フィードを直接開く