九龍城寨の写真を見ると、最初に目に入るのは建物の異常な密度である。
だが、そこに暮らしていた人々にとって、城寨は「異常な建築物」ではなく生活の場所だった。
朝になれば仕事へ向かう人がいる。
子どもは学校へ行く。
店が開く。
工場の機械が動く。
診療所には患者が来る。
路地では食事の匂いが混ざり、上階では家族が暮らし、屋上では洗濯物が揺れる。
九龍城寨には犯罪も貧困も存在した。
衛生状態が悪い場所もあり、住環境には深刻な問題があった。
しかし、それだけで数万人規模の生活が何十年も続くことは説明できない。
九龍城寨を本当に理解するには、そこで何が「普通の日常」として繰り返されていたのかを見る必要がある。
この記事では、住居、仕事、商売、診療、教育、家族、屋上という生活の単位から、九龍城寨の内部を追う。
「住む場所」と「働く場所」が分かれていなかった
現代の都市では、住宅地、商業地、工業地がある程度分かれている。
九龍城寨では、その境界が非常に弱かった。
同じ建物の中に住居があり、別の階に工場があり、地上階に店がある。
ある部屋が昼間は作業場として使われ、夜は家族の生活空間に戻ることもあった。
Greg GirardとIan Lambotが1980年代末から1990年代初頭にかけて撮影した記録には、その混在が繰り返し現れる。
麺工場。
焼味の加工場。
魚蛋や菓子を作る食品工場。
織物工場。
ゴム製品工場。
定規や金属部品などを作る小規模工場。
それらのすぐ近くに住居がある。
大型工場地帯のように、住宅から離れた産業区域へ通勤するのではない。
生活と生産が同じ狭い街区の中で重なっていた。
この構造は、城寨内部で大量の小規模事業が成立した理由の一つでもある。
土地や建物の利用規制が弱く、住居を作業場へ変えやすい。
大きな敷地を必要としない業種なら、狭い室内でも営業を始められる。
その代わり、騒音、熱、臭い、衛生、安全といった問題が生活空間へ直接入り込む。
九龍城寨の日常は、便利さと負担を切り離せない形で成立していた。
小さな工場が城寨の経済を支えた
九龍城寨は「住宅が密集したスラム」だけではない。
内部には多くの製造業が存在した。
特に食品加工、小規模な軽工業、縫製、織物、ゴム製品、日用品などは、城寨の経済活動を支える重要な分野だった。
GirardとLambotの記録には、200平方フィートに満たないような麺工場で家族が働く姿が残っている。
そこでは窓がなく、換気は狭い入口に頼る。
夏場の労働環境は厳しい。
それでも家族は工場を維持し、子どもが学校から帰ったあと作業を手伝う。
つまり工場は単なる職場ではない。
家族経営の単位でもあった。
こうした小規模工場は、城寨の外側の市場ともつながっていた。
城寨で作られた食品や日用品は、内部の住民だけに売られていたわけではない。
外部の商店や飲食店へ流通する商品もあった。
九龍城寨の経済は、壁の内側だけで自己完結していたわけではない。
むしろ、規制の弱さと低い固定費を利用して、香港全体の経済に接続していた。
この点は重要である。
九龍城寨を「外界から孤立した都市」と考えると、なぜ内部で多様な工場が成立したのか説明できない。
人、原料、商品、客は城寨の内外を行き来していた。
食品工場は「安さ」と「衛生問題」の両方を抱えていた
城寨の食品製造は、現在でもよく語られる。
麺、魚蛋、焼味、菓子など、香港の日常食に関わる製品が作られていた。
しかし、ここでも一面的な評価は避ける必要がある。
規制が弱いことは、安いコストで生産できる利点になる。
一方で、通常なら必要になる衛生検査や設備基準が十分に機能しない。
狭い部屋。
不十分な換気。
床や壁に付着する粉。
水分の多い作業環境。
ネズミなどの害獣。
こうした問題が存在したことも写真記録や行政対応から確認できる。
だから城寨の食品工場を「住民の工夫で成立した活気ある産業」とだけ描くのも、「危険で不潔な工場」とだけ描くのも正確ではない。
安い生産コストと柔軟な事業開始。
家族労働。
外部市場との接続。
そして衛生上のリスク。
それらが同時に存在した。
城寨の経済は、規制の穴を利用したからこそ成り立つ部分と、その穴によって生まれる危険を同時に抱えていた。
店は路地の奥まで入り込んでいた
工場だけでなく、日常的な商店も多数存在した。
食料品店。
茶餐廳や小さな食堂。
理髪店。
雑貨店。
薬を扱う店。
寺院や宗教施設。
写真記録を見ると、外周の道路沿いだけでなく、内部の細い通路にも商売の空間が入り込んでいる。
これは、九龍城寨で「通路」と「商店街」の境界が曖昧だったことを意味する。
幅の狭い路地でも、人が日常的に通る場所なら商売が成立する。
建物の一室がそのまま店になる。
入口へ看板を出す。
隣の部屋では別の商売が行われる。
都市計画によって商業エリアを作ったのではなく、人の流れのある場所に商売が発生していった。
このため内部には、外から見ただけでは分からない小さな経済圏が形成された。
九龍城寨は外観だけ見ると閉鎖的だが、内部は多数の小規模取引が連続する街でもあった。
診療所と歯科医院が集中した
九龍城寨の日常を語るうえで、医療と歯科は重要である。
城寨には多数の診療所が存在した。
ただし、その数は時期によって異なるため、数字を混ぜないことが必要になる。
1975年の行政資料を分析した研究では、当時確認されていたのは医科24、歯科64のクリニックだった。
この「24」と「64」は、1975年時点の行政上のカウントである。
一方、1987年の撤去前調査を基にした2026年のHong Kong Medical Journalの研究では、72人の無登録医師と112人の無登録歯科医が記録されている。
こちらは「診療所数」ではなく「従事者数」である。
この二つを足したり、同じ時点の数字として扱ったりしてはいけない。
重要なのは、城寨内に医療・歯科サービスが相当な規模で集中していたことだ。
なぜ無登録の医師や歯科医が集まったのか
城寨の診療所については、「偽医者が集まっていた」と語られることがある。
だが、2026年のHong Kong Medical Journalが1987年の公式調査を検討した結果、そのイメージも単純すぎることが分かる。
記録された無登録医師72人のうち、58人は中国の医学校で資格を得たと申告していた。
無登録歯科医112人については、資格の出所が不明な者も多かったが、25人は徒弟訓練を受けていたと記録されている。
つまり、「無登録」と「まったく訓練を受けていない」は同じ意味ではない。
香港で資格登録できない経歴を持つ医療従事者が、城寨で営業する例が多かった。
中国大陸で得た資格が香港側の登録制度では認められない。
しかし城寨では、その登録規制が通常どおりには執行されない。
そのため、彼らにとって城寨は仕事を続けられる場所になった。
患者側にも利点があった。
診療費や歯科治療費が外部より安い場合が多く、城寨住民だけでなく外部から患者が来ることもあった。
ここでも、規制の弱さは「サービスへのアクセス」と「安全保証の弱さ」の両方を生んでいた。
医療は城寨の外からも利用された
九龍城寨の診療所が重要なのは、内部住民だけのサービスではなかったからである。
医療費の安さを理由に、香港の他地域から訪れる患者がいたことが、写真家の記録や後年の回想で確認できる。
これは城寨の経済が外部社会と接続していたことを示す、もう一つの例である。
人は城寨に「閉じ込められていた」だけではない。
住民は外へ働きに行く。
子どもは外の学校へ通う場合がある。
外部の客は城寨の店や診療所へ来る。
製品は外へ出荷される。
九龍城寨は政治的には特殊な区域だったが、生活経済まで完全に孤立していたわけではない。
むしろ周囲の香港社会と密接につながっていたからこそ、内部の商売が成立した。
子どもにとっては「家のある街」だった
九龍城寨の暗い路地や犯罪のイメージだけを見ると、子どもが暮らしていたことを忘れやすい。
しかし実際には多くの家庭があり、子どもたちが生活していた。
M+が紹介するGreg Girardの写真には、屋上で遊ぶ子どもたちが写っている。
テレビアンテナと洗濯物に囲まれた屋上は、地上の暗い路地とはまったく違う空間だった。
空が見える。
風がある。
飛行機が近くを通る。
狭い住戸や通路しかない環境で、屋上は子どもたちにとって貴重な遊び場になった。
これは、九龍城寨の生活を考えるうえで象徴的な場面である。
都市として計画された公園や広場はほとんどない。
だから住民は、建物の中で余っている場所を別の目的に使う。
屋上が洗濯場になり、遊び場になり、休憩場所になる。
生活の必要が、空間の用途を決めていた。
屋上には大人の日常もあった
屋上は子どもの遊び場だけではない。
洗濯物を干す。
近所の人と話す。
鳩を飼う。
休憩する。
テレビアンテナや設備を置く。
家庭生活の一部が屋上へ持ち出されていた。
九龍寨城公園の現在の展示でも、屋上生活は城寨の日常を伝える重要な要素として扱われている。
下層部では光が乏しく、通風も悪い。
そのため屋上は、住民にとって外気と日光に触れられる数少ない場所だった。
ただし、屋上を理想的な共同空間として美化するべきではない。
大量のアンテナや設備、廃棄物が置かれている場所もあった。
安全な柵や整備された床面が保証されていたわけでもない。
生活空間が足りないからこそ屋上まで使われた、という側面を忘れるべきではない。
学校と教育の場も存在した
九龍城寨には教育の場もあった。
旧衙門が時期によって学校として使われたことは香港古物古蹟辦事處の記録にも残っている。
GirardとLambotの記録には、幼稚園や「Old School」と呼ばれる教育施設も登場する。
また、すべての子どもが城寨内部の学校だけで教育を受けていたわけではない。
家庭によっては外部の学校へ通う。
城寨内部で暮らしながら、教育や仕事では香港の他地域と行き来する。
ここでも城寨を完全な閉鎖社会として見ることはできない。
人の生活圏は、建築上の境界より広かった。
住所として城寨に住んでいても、学校、仕事、買い物、親族関係までその内部だけで完結するわけではない。
「城寨の住民」という一つのカテゴリーで、全員の生活を同じように語ることはできない。
宗教施設と地域活動もあった
城寨には寺院や宗教施設も存在した。
Tin Hau TempleやFuk Tak Templeは、住民の信仰と地域生活の場だった。
キリスト教系の活動もあり、薬物依存者支援などで知られるJackie Pullingerの活動も城寨と深く関わった。
また、音楽クラブや住民団体のような活動も写真記録や書籍に残っている。
これは、九龍城寨に「コミュニティが存在した」という事実を示す。
ただし、「住民同士が強く助け合う理想的共同体だった」と一般化するのも危険である。
数万人規模の人口が暮らしていれば、関係性は一様ではない。
近所付き合いが強い場所もある。
家族単位で生活する人もいる。
犯罪組織や依存症の問題に巻き込まれる人もいる。
工場労働で長時間働く人もいる。
城寨には、善悪どちらか一方の物語ではなく、普通の都市と同じように多様な人間関係が存在した。
家族経営が生活と仕事を結びつけた
九龍城寨の日常で特徴的なのは、家族と仕事の距離が非常に近いことである。
小規模な工場や店では、家族全体が仕事に関わることがあった。
夫婦で製造する。
子どもが学校から戻って手伝う。
住居の一部を作業場にする。
親族が同じ事業に加わる。
こうした働き方は、城寨だけに存在したものではない。
当時の香港や華南の小規模製造業でも広く見られる。
ただし九龍城寨では、住宅と工場の空間的分離が弱いため、その傾向が特に見えやすい。
生活の時間と労働の時間が重なる。
機械音が家庭生活へ入り込む。
商品や原料が居住空間の近くに置かれる。
便利である一方、休息と仕事を切り離しにくい。
城寨の「活気」は、こうした家族労働の負担によって支えられた部分もある。
安い家賃や営業コストには理由があった
九龍城寨で暮らしたり商売したりする理由として、低いコストは重要だった。
通常の香港市街より安く住める。
狭いスペースでも商売を始められる。
登録や許認可に伴う費用を負担しない事業もある。
低価格で商品やサービスを提供できる。
これらは住民や事業者にとって現実的な利点だった。
しかし、安さは無料ではない。
住宅環境。
採光。
通風。
衛生。
建物安全。
防火。
騒音。
こうした面で負担が住民側へ移される。
つまり「安い」という経済的メリットは、通常なら行政規制や建物所有者が負担する安全・衛生コストの一部が十分に支払われていないこととも結びついていた。
九龍城寨の生活を考えるとき、低コストと劣悪環境を別々に見ることはできない。
両者は同じ構造の表と裏だった。
暗い路地の中でも生活リズムはあった
城寨内部では、自然光で時刻を感じにくい場所もあった。
路地や低層階では昼でも照明が必要になる。
頭上には配管や電線が走り、建物の張り出しが空を塞ぐ。
それでも人の生活は時間に沿って動く。
朝には店が開く。
工場が動く。
学校へ行く子どもが通る。
食事時には飲食店が忙しくなる。
夜には住居へ戻る人が増える。
写真家Ian Lambotは、内部でテレビ、ラジオ、空調、工場の機械音が混ざる一方、学校帰りの子どもや仕事をする人々の姿があったと振り返っている。
外部の人間にとって迷路でも、住民にとっては日常の経路だった。
どの階段を使えば早いか。
どこから隣棟へ抜けられるか。
どの店で何が買えるか。
どの診療所が安いか。
生活を続ける中で、複雑な空間は「知っている街」へ変わる。
九龍城寨は完全な自給自足都市ではない
九龍城寨について「内部だけですべてが完結する自己完結都市」と説明されることもある。
確かに、住宅、商店、飲食、工場、診療所、宗教施設など多くの機能が非常に狭い範囲に集中していた。
しかし、完全な自給自足ではない。
食料や原料は外から入る。
製品は外へ売られる。
外部から客や患者が来る。
住民が外へ働きに行く。
子どもが外部の学校へ通う。
電力や水、郵便などにも外部との接続が必要である。
城寨の内部機能が豊富だったことと、外部社会から独立していたことは同じではない。
むしろ、九龍城寨は香港の周囲社会との接続を保ちながら、その内部だけ異なるルールで土地と建物と商売を使っていた。
この「接続されているのに制度だけ違う」という状態が、城寨の生活を可能にした。
住戸は「家族だけの空間」とは限らなかった
九龍城寨の住居は、現代の集合住宅のように用途が明確に分かれているとは限らなかった。
狭い室内に家族が暮らし、同じ場所に商品、工具、材料が置かれる。
親族や従業員が出入りする。
小さな事業を営む家庭では、玄関を開ければそこが仕事場でもある。
GirardとLambotの記録では、家族の生活空間と商売がほとんど連続している例が何度も登場する。
これは、単に「狭かった」というだけではない。
家庭と事業が同じ空間にあると、家賃や移動時間を抑えられる。
子どもの世話をしながら仕事を続けることもできる。
一方で、仕事の音や臭い、来客、原料、製品が家族生活へ入り込む。
休息する部屋と働く部屋を明確に分けられない。
生活の柔軟さと、生活環境の負担が同じ構造から生まれていた。
九龍城寨の日常を「貧しい住環境」だけで見ると、こうした空間の使い方は見えにくい。
逆に「空間を巧みに使った」とだけ評価すると、住居としての快適性や安全性の不足を見落とす。
住民は与えられた条件の中で、部屋を住居にも仕事場にも変えて使っていた。
家計にとって「城寨の中で働ける」ことには意味があった
住宅と職場が近いことは、家計にとって大きな意味を持つ。
通勤時間を減らせる。
交通費を抑えられる。
家族の誰かが店番や作業を代われる。
小さな注文でも受けられる。
大企業では採算が合わない量の仕事を引き受けることもできる。
GirardとLambotが記録した織物工場の経営者は、大きな会社が扱わない少量注文を引き受けることで仕事を得ていた。
こうした小回りの利く生産は、城寨の小規模工場にとって重要だった。
ただし、競争力の源泉には低賃金や長時間労働も含まれる。
仕事が多い時期には、家族も従業員も長時間作業する。
機械や材料は住居のすぐそばにある。
「いつでも働ける」環境は、「仕事から離れにくい」環境でもある。
城寨の経済的な強さを語るとき、その裏側にあった労働負担も同時に見る必要がある。
住民の生活圏は城寨の外側まで広がっていた
九龍城寨に住むことと、生活のすべてを城寨内部で完結させることは同じではない。
住民の中には、外部へ働きに出る人もいた。
城寨の外に公共住宅を持ちながら、仕事や家族の都合で城寨側に長く滞在する人もいた。
子どもが外の学校へ通う家庭もある。
親族が香港の別地域に住む場合もある。
反対に、外部から城寨へ仕事に来る人、商品を買いに来る人、診療所を利用する人もいる。
つまり、人の移動は城寨の境界を日常的に越えていた。
城寨の内部経済が成立したのは、内部の人口だけが顧客だったからではない。
香港全体とつながった市場の一部として機能していたからである。
この視点に立つと、城寨は「閉鎖都市」というより、制度だけが周囲と異なる高密度な都市ノードとして見えてくる。
人と商品は通る。
行政制度と建築規制の作用だけが、周囲とは違っていた。
子どもは「異常な街」で育っているとは限らなかった
外部の写真を見る人にとって、九龍城寨は異常な場所に見える。
だが、そこで生まれ育った子どもにとっては、それが日常の基準になる。
暗い階段。
狭い通路。
屋上への経路。
近所の店。
親の工場。
学校へ向かう道。
それらは「観光すべき奇景」ではなく、覚えるべき生活経路だった。
M+が紹介する屋上写真で重要なのは、子どもたちが単に危険な場所に置かれているのではなく、その空間を遊び場として使いこなしている点である。
もちろん、だから安全だったという意味ではない。
柵や設備が十分ではない屋上には危険がある。
高密度住宅には衛生や避難の問題もある。
それでも、子どもの視点では、街の評価基準は大人の都市計画とは違う。
どこで友達と遊べるか。
どの屋上へ行けるか。
どこに家族がいるか。
その積み重ねが「自分の街」という感覚を作る。
九龍城寨の生活を理解するには、この内側からの感覚も必要になる。
「無法地帯」という物語が隠してしまうもの
犯罪、麻薬、賭博、売春、秘密結社。
これらは九龍城寨の歴史から消すべきではない。
だが、それだけを前面に出すと、城寨に暮らした普通の住民が背景へ消える。
麺を作る家族。
歯を治療する歯科医。
商品を並べる店主。
学校へ向かう子ども。
屋上で洗濯する人。
工場の機械を動かす労働者。
患者を診る医師。
日常の多くは、犯罪とは直接関係のない営みだった。
M+がGreg Girardの屋上写真を紹介するとき、「City of Darkness」の集団記憶とは異なる子どもの生活に注目しているのも、このギャップを示している。
九龍城寨には危険があった。
しかし、住民の生活すべてが危険によって定義されていたわけではない。
この両方を同時に見る必要がある。
逆に「人情の街」とだけ描くのも危険である
近年、九龍城寨はノスタルジックに語られることも増えた。
住民同士が助け合い、活気のある商売があり、独自のコミュニティが成立した「失われた街」としてのイメージである。
その側面も存在する。
しかし、そこから衛生、安全、過密、労働環境、医療規制の問題を消してしまえば、別の神話を作るだけになる。
狭い住宅。
不十分な採光と通風。
危険な増築。
長時間労働。
衛生管理の弱い工場。
登録制度の外で行われる医療。
こうした条件を住民が選んだ理由には、所得、移住歴、資格制度、住宅不足など現実的な制約があった。
「自由だったから住んだ」という単純な説明でもない。
「逃げられなかったから住んだ」という単純な説明でもない。
九龍城寨で暮らす理由は、人ごと、時期ごとに異なる。
生活を支えたのは、公式と非公式の混合だった
城寨の日常を成立させた仕組みは、完全に住民だけが作ったものではない。
政府サービスも入っていた。
一方で、住民や事業者による非公式な仕組みもあった。
この混合状態は、生活のあらゆる部分に現れる。
医療では、公的登録制度の外にいる医療従事者が診療する。
工場では、通常の衛生・安全規制が十分に働かないまま商品を外部市場へ供給する。
住宅では、正式な建築審査を通らない増築が生活空間を増やす。
屋上では、計画された公共空間がない代わりに、住民が空いている場所を共有的に利用する。
九龍城寨の日常は「国家か住民か」という二者択一ではない。
公式制度の一部と、非公式な生活実務が重なっていた。
この点は、次の二つの記事へつながる。
CASE060-05では、犯罪、警察、法執行の実像を見る。
CASE060-06では、水、電気、排水、衛生、廃棄物処理など、生活を物理的に支えたインフラを見る。
あの巨大建築群の中に、普通の一日があった
九龍城寨を外から見ると、巨大で異様な建築物である。
内部へ入ると、暗い路地と複雑な階段が続く。
しかし、その空間を毎日使っていた人々にとって、そこは住所であり、職場であり、学校への帰り道であり、近所の店がある街だった。
これが九龍城寨を理解するうえで最も重要な事実の一つである。
異常な都市構造の中でも、人は日常を作る。
狭い部屋を住居にする。
その隣で商売する。
屋上を遊び場にする。
安い診療所を利用する。
外の学校へ通う。
工場から商品を香港各地へ出す。
制度的には特殊でも、そこで繰り返される行為の多くは、食べる、働く、学ぶ、治療する、休むという普通の生活だった。
九龍城寨が単なる「犯罪都市」では説明できない理由は、ここにある。
そして次に問うべきなのは、その普通の生活と「無法地帯」という評判がどう両立していたのかということになる。
CASE060-05では、犯罪、警察、行政介入を分けて検証し、九龍城寨は本当に「無法地帯」だったのかを改めて確認する。
出典・参考資料
-
Lawrence W. C. Lai, “Kowloon Walled City: A Case of Land Administration of a Disputed Territory,” Land 13(12), 2024.
https://www.mdpi.com/2073-445X/13/12/2112 -
Hong Kong Medical Journal, “Medical history of Hong Kong Part II: Healers in the maze: unravelling the myths of Kowloon Walled City practitioners,” 2026.
https://www.hkmj.org/abstracts/v32n3/268.htm -
M+ Museum, “Exploring Kowloon Walled City: A Photographic Journey,” 2023.
https://www.mplus.org.hk/en/magazine/exploring-kowloon-walled-city-photographic-journey/ -
Asian Geographic, “Inside the City of Darkness,” interview with Greg Girard.
https://asiangeo.com/culture_and_people/inside-city-darkness/ -
Kowloon City Themed Walking Trail, “Life inside the Walled City.”
https://kowlooncitywalk.hk/en/story/life-inside-the-walled-city/ -
Greg Girard and Ian Lambot, City of Darkness: Life in Kowloon Walled City, 1993; expanded as City of Darkness Revisited, 2014.
-
Hong Kong Antiquities and Monuments Office, “Former Yamen Building of Kowloon Walled City, Kowloon Walled City Park.”
https://www.amo.gov.hk/en/historic-buildings/monuments/kowloon/monuments_63/index.html -
Hong Kong Leisure and Cultural Services Department, Kowloon Walled City exhibition guide.
https://www.lcsd.gov.hk/en/parks/kwcp/common/attachment/exhibition_guide_english.pdf
九龍城寨|巨大密集都市はどう生まれ、なぜ消えたのか 第4回 全8回 全8回を見る
- 01 九龍城寨とは何だったのか?|巨大高密度都市の成立から解体まで
- 02 なぜ九龍城寨は「統治の隙間」に残ったのか?|1847年の城塞から戦後香港まで
- 03 九龍城寨はなぜ巨大な建築群になったのか?|無秩序な増築と高密度化の構造
- 04 九龍城寨で人々はどう暮らしていたのか?|住居・工場・店・診療所の日常
- 05 九龍城寨は本当に「無法地帯」だったのか?|犯罪・警察・行政介入の実像
- 06 九龍城寨の水・電気・排水・衛生はどう成り立っていたのか?|非公式都市インフラの実態
- 07 なぜ九龍城寨は解体されたのか?|1987年の決定から補償・再収容・撤去まで
- 08 九龍城寨の跡地には何が残ったのか?|南門・衙門・公園と現在