現実世界のCASE FILE 現実世界のCASE FILE

なぜ九龍城寨は「統治の隙間」に残ったのか?1847年の城塞から戦後香港まで

1898年に撮影された九龍城寨の城壁と周辺。
Unknown / archival / Wikimedia Commons 出典 Public Domain

THE QUESTION

なぜ九龍城寨は「統治の隙間」に残ったのか? | 1847年の城塞から戦後香港まで

STORY SO FAR

前回「九龍城寨とは何だったのか?|巨大高密度都市の成立から解体まで」で確認した論点を受け、この回ではなぜ九龍城寨は「統治の隙間」に残ったのか? | 1847年の城塞から戦後香港までを扱う。

九龍城寨は、しばしば「どの国の法律も及ばなかった場所」と説明される。

だが、この表現は分かりやすい一方で、歴史をかなり単純化している。

九龍城寨では、国家が完全に消えたわけではない。

清朝が築いた軍事拠点があり、1898年には条約によって中国官吏の権限を残す例外が設けられ、1899年には英国側がその状態を実力で終わらせた。その後も中国側は城寨に対する権利を主張し続け、英国統治下の香港政府は実際には警察、消防、衛生、土地境界、建物高さなどへ介入した。

つまり問題は「誰も統治していなかった」ことではない。

誰が、どこまで、どの権限を行使できるのかについて、法的な主張と現実の行政が一致しなかったことにある。

九龍城寨は、地図上ではわずか数ヘクタールの土地だった。

しかし、その小さな土地に19世紀末から20世紀後半まで続く中英関係の矛盾が凝縮された。

なぜ、香港の真ん中にだけ、このような場所が残ったのか。

その出発点は1847年にさかのぼる。

九龍城寨は、もともと清朝の「境界防衛」の施設だった

1842年、南京条約によって香港島が英国へ割譲された。

その後も九龍半島北部は清朝の領域に残ったが、香港島と中国側の沿岸が直接向き合う形になった。

清政府にとって、香港周辺の防衛と行政は以前とは違う意味を持つようになる。

1847年、清政府は九龍半島側に石壁で囲まれた城塞を築いた。

現在の九龍城寨の直接の起点である。

香港古物古蹟辦事處によれば、この城塞には数百人の兵士が置かれ、花崗岩の城壁、6つの見張り塔、4つの城門が設けられていた。南門が正門だった。

城内には行政施設である衙門も置かれた。

つまり、1847年時点の九龍城寨は、国家権力が存在しない場所どころか、清朝が香港周辺に対する軍事・行政能力を維持するための拠点だった。

その意味では、後世の九龍城寨と正反対に見える。

後世の城寨は「統治の弱い場所」として有名になった。

だが出発点は、国家が境界を守るために造った明確な統治施設だった。

問題は、その後、周囲の政治地図そのものが変わったことだった。

1898年、九龍城寨だけに「例外」が残された

1898年6月9日、英国と清朝は「展拓香港界址専条」、英語ではConvention for the Extension of Hong Kong Territoryを締結した。

これによって、新界と多数の島々が99年間、英国へ租借されることになった。

香港の領域は大幅に北へ広がる。

ところが、九龍城寨には通常の新界とは異なる条件が付いた。

香港政府年報が整理する条約内容では、九龍城内にいる中国官吏は、香港防衛上の軍事的必要と矛盾しない限り、引き続き権限を行使できるとされていた。

これが九龍城寨の歴史を複雑にする最初の大きな分岐点である。

新界全体を英国側が統治する一方、その内部に中国官吏が残る場所が設定された。

地理的に見れば、英国統治地域に囲まれながら、中国側の行政権限を一定範囲で残す場所になる。

後世には「中国の飛び地だった」と簡略化されることもある。

ただし、実際の条約文の構造はもっと複雑だった。

中国官吏の権限は無条件ではなく、「香港防衛上の軍事的必要」と両立する範囲に限られていた。

また、この状態が長期間安定して運用されたわけでもない。

条約によって作られた例外は、わずか1年ほどで大きく揺らぐ。

1899年、英国側は城寨へ入り、中国官吏を退去させた

1899年、英国は新界の実際の接収を進めた。

その過程で各地に抵抗が発生し、九龍城寨の扱いも緊張した。

同年5月、英国側は城寨へ入り、清朝の官吏と守備兵を退去させた。

香港古物古蹟辦事處の現在の説明でも、清朝官吏が1899年に城寨を離れたことが確認できる。

さらに英国側は1899年12月27日のOrder in Councilで、1898年の特例条項を取り消し、九龍城を香港植民地の一部として扱う立場を明確にした。[6]

英国側の制度だけを見れば、ここで問題は決着したように見える。

中国官吏は現地からいなくなり、英国は城寨を植民地の一部だと宣言した。

しかし、国際政治上の問題は終わらなかった。

中国側がその解釈を受け入れて、城寨に対する権利主張を完全に放棄したわけではなかったからである。

ここから、「現地を実際に管理している側」と「権利を主張する側」が一致しない状態が始まった。

九龍城寨を特殊にしたのは、この食い違いだった。

「中国が統治していた」とも言い切れない

九龍城寨については、「英国統治下の香港の中に残った中国領」という説明もよく使われる。

しかし、これもそのまま受け取ると問題がある。

1899年以降、清朝の官吏が城寨へ戻り、通常の地方行政を継続したわけではない。

2024年に公文書を用いて九龍城寨の土地行政を再検討した研究は、1899年以降の城寨について、中国政府の直接・間接統治下にあったと見るのは正確ではないと指摘している。

現地で道路、警察、消防、土地測量、都市整備などを動かしていたのは香港政府側だった。

一方で、中国側の権利主張は消えなかった。

この違いが重要である。

「中国が実際に行政を行っていた」のではなく、香港政府が行政行為を行いながら、中国側の主張を無視できない状態が続いた。

だから香港政府は、通常の香港市街地なら単なる国内行政として処理できる問題でも、城寨に関しては外交的反応を考慮しなければならなかった。

土地の撤去。

建物の調査。

住民の移転。

営業規制。

無登録診療。

こうした一つ一つの行政行為が、城寨では「中国側の権利を侵害した」と解釈される可能性を持っていた。

この政治的コストが、後の政策を強く制約する。

清朝官吏が去ったあと、旧衙門は別の役割を持った

1899年の転換を象徴する建物が、現在も九龍寨城公園に残る旧衙門である。

1847年に築かれたこの建物は、もともと九龍司巡検の行政施設だった。

しかし清朝官吏が去ったあと、行政庁舎としての役割を失った。

香港古物古蹟辦事處によれば、その後の旧衙門は宗教団体によって使われ、老人施設、寡婦や孤児のための施設、学校、診療所など、複数の用途に転用された。

この変化は、城寨全体の変化を縮小した模型のようでもある。

建物そのものは残る。

しかし、それを支えていた行政制度が消える。

空白になった機能へ、宗教団体、慈善組織、住民社会など別の主体が入る。

九龍城寨では、制度が一気にゼロになったのではない。

国家行政が担っていた機能の一部が弱まり、その空間に別の社会的主体が入り込んだ。

後年の城寨で見られる非公式な商売、独自の土地取引、住民組織などを理解するうえでも、この構造は重要になる。

1930年代にも、城寨を「普通の都市」に戻そうとする動きがあった

九龍城寨が1899年から1987年まで、一度も行政対象にならなかったわけではない。

英国植民地政府は、城寨の扱いを何度も変えようとした。

研究では、1933年にも城寨内の建物を整理・撤去する計画が問題になったことが指摘されている。

つまり、戦後になって突然「問題地域」になったのではない。

城寨を通常の香港都市行政の中へ取り込もうとする動きと、中国側の権利主張への配慮は、戦前から繰り返されていた。

しかし、その後に第二次世界大戦が起きる。

1941年、日本軍が香港を占領した。

この占領期、城寨の景観を決定的に変える出来事が起きる。

城壁が撤去されたのである。

香港古物古蹟辦事處によれば、花崗岩の城壁は啓徳空港拡張用の建材として使われ、最終的に完全に取り壊された。

ここで「Walled City」は物理的にはwallを失った。

それでも、政治的な境界問題は残った。

この点が九龍城寨の歴史をさらに奇妙なものにする。

石の壁が消えたあとも、行政上はその旧境界が意味を持ち続けたからだ。

戦後、人口流入によって問題が一気に現実化した

1945年、日本の敗戦によって香港では英国統治が再開された。

一方、中国大陸では国共内戦が続き、多くの人々が香港へ流入する。

城壁を失った九龍城寨にも人が入り、バラックや住宅が増えていった。

この段階で、19世紀末から残っていた管轄問題は、単なる外交文書上の論点ではなくなった。

実際に多数の人間が住む土地を、誰がどのルールで管理するのかという問題になったのである。

1940年代後半、香港政府は城寨内の不法占拠建物を撤去しようとした。

だが、この動きは中国国民政府側の反発を招いた。

公文書研究では、戦後の大規模撤去の試みが南京の国民政府によって阻まれたと整理されている。

1948年の撤去問題は抗議や衝突へ発展し、中英間の外交問題になった。

結果として香港政府は、城寨に対して通常の不法占拠地区と同じやり方で一括撤去を進めることが極めて難しいと認識する。

ここで戦後の九龍城寨を決定づける条件が形成された。

香港政府は現地に存在する。だが、城寨を通常の香港市街と完全に同じ論理で再編しようとすると、中国側との政治問題になる。

この制約が、その後何十年にもわたって残る。

1948年以後、「何もしない政策」になったわけではない

1948年の衝突以後、九龍城寨について「英国政府は完全に手を引いた」と説明されることがある。

確かに、大規模な撤去や通常の都市再編は難しくなった。

しかし、香港政府が城寨に関するすべての行政を停止したわけではない。

この点は、近年公開された公文書によってかなり明確になっている。

政府は城寨の境界を測量していた。

警察は活動していた。

消防も火災対応を行った。

郵便サービスも存在した。

水供給や廃棄物処理、公衆衛生にも行政が関与した。

さらに、周囲の道路や公共住宅を整備することで、城寨が外側へ無制限に拡大することを防いだ。

つまり政策は「放置」ではなく、全面的に支配し直すことを避けながら、必要な部分だけ管理する方向へ変わっていった。

この方式は、通常の都市行政とはかなり異なる。

建築計画を全面的に管理するのではなく、境界を守る。

営業全般を厳格に許可制へ戻すのではなく、危険が大きい場合に介入する。

街全体を撤去するのではなく、消防、衛生、郵便、水など最低限のサービスを維持する。

九龍城寨が巨大化できた理由の一つは、この選択的行政にある。

1950年代にも「管轄権問題」は政府内部で生きていた

城寨の法的位置が過去の問題になっていなかったことは、香港政府の公文書目録からも分かる。

政府檔案處には、1955年の「Question of jurisdiction within Walled City of Kowloon, Hong Kong」、1958~1959年の「Kowloon Walled City in Hong Kong」といった記録が残されている。[5]

タイトル自体が示している。

20世紀半ばになっても、政府内部では「九龍城寨の管轄権」が独立した行政・外交問題として扱われていた。

もし1899年の英国側の宣言だけで完全に問題が終わっていたなら、半世紀後まで「jurisdiction」が政策課題として残る必要はない。

現実には、英国側が自国の権限を主張しながら、中国側も権利を主張する構図が継続した。

そのため香港政府は、城寨で行う政策が中国側にどう受け取られるかを常に意識する必要があった。

この状況は、1949年に中国大陸の政権が中華人民共和国へ変わったあとも解消しなかった。

相手となる中国政府は変わった。

しかし城寨をめぐる対立構造そのものは残った。

1960年、香港政府は統制を強めようとした

1960年代に入ると、九龍城寨は新たな段階へ入る。

周辺の九龍市街では再開発や公共住宅建設が進み、城寨周辺の土地も都市計画の対象になっていった。

香港政府内部では、城寨に対する行政関与を段階的に強める計画が検討される。

1970年の政府文書には、1960年のAd Hoc Committeeが、九龍城寨に対する政府統制を徐々に増やす詳細計画を勧告したことが記録されている。

計画は二段階だった。

Phase Iでは、比較的限定された行政活動を早期に増やす。

Phase IIでは、より広範な政府統制を将来的に検討する。

つまり政府は、「九龍城寨は管轄が曖昧だから何もできない」と最初から諦めていたわけではない。

むしろ、政治的反応を避けながら少しずつ行政を通常化しようとしていた。

ところが、この計画も途中で壁に突き当たる。

1962~1963年、再び中国側の抗議が政策を止めた

1962年、周辺の再収容・再開発計画に関連して、城寨付近で不法占拠建物の調査が進められた。

これに住民側が反発し、中国側も問題へ介入した。

政府文書によれば、反対運動は1963年1月の中国政府による抗議へ発展した。

その結果、香港政府は1960年委員会のPhase I相当の限定的な行政活動は続けたが、さらなる不法占拠調査を停止した。

これは九龍城寨の形成に非常に大きな影響を与えた。

なぜなら、ちょうどこの時期から鉄筋コンクリートの多層建築が急増するからである。

2024年の公文書研究が引用する1972年政府報告では、4階以上の多層建築が本格的に建ち始めたのは1963年だったとされる。[6]

つまり、行政統制の強化が政治的抗議で止まった時期と、高層化の開始時期が重なる。

これは「英国が城寨を中国へ返した」という意味ではない。

英国側は自らの権限主張を捨てていない。

しかし現実の政策では、中国側との衝突を避けるため、通常なら事前に行う建築・不法占拠への統制の一部を後退させた。

この隙間を使って、民間の建築活動が急速に進んだ。

九龍城寨の巨大建築群は、単に住民が法律を無視したから生まれたのではない。

国際政治によって行政の選択肢が狭まり、その結果生じた制度上の空間で成長した。

それでも香港政府は「境界」を手放さなかった

建築統制が弱まったからといって、香港政府が城寨の存在そのものを無制限に認めたわけではない。

むしろ逆だった。

政府は、どこまでを「九龍城寨」として扱うかについて非常に強い関心を持っていた。

公文書研究によれば、公共事業部門は過去の測量記録を使って旧城壁の境界を特定し、その範囲を行政上の基準として維持していた。

さらに政府は、周囲へ道路や再収容住宅を建設した。

その結果、城寨の外周は物理的にも都市計画上も固定されていく。

横方向への拡張は抑えられた。

一方、内部の建物建設への統制は弱い。

この組み合わせが重要だった。

城寨は「自由な土地」ではなかった。

使える土地の面積はむしろ厳密に限定されていた。

限られた土地の中で人口と事業活動が増えたため、建物は上方向へ伸びる。

九龍城寨の高密度化は、管轄問題と都市計画が別々の話ではなく、直接つながっていたことを示している。

空にも境界があった

城寨の統治が完全に失われていなかったことを最も分かりやすく示すのが、建物高さである。

九龍城寨のすぐ近くには啓徳空港があった。

航空機が低高度で進入するため、建物が無制限に高くなることは航空安全上許容できなかった。

香港政府は、建築計画の事前承認については十分に執行しない一方、航空安全に関わる高さについては監視を続けた。

これは一見矛盾している。

建物自体は無許可で増える。

しかし高さには上限がある。

この状況こそ、九龍城寨の「選択的統治」を象徴している。

政府が統治できなかったのではなく、政治的・実務的な優先度によって、行使する権限と行使しない権限を分けたのである。

そのため城寨は、横方向の境界と上方向の境界に挟まれた。

内部だけが高い自由度を持つ。

のちの巨大高密度建築群は、この三次元的な制約の中で形成される。

建築構造そのものはCASE060-03で詳しく見る。

警察も消防も入っていた

「城寨には香港警察が入れなかった」という説明も、史料とは一致しない。

1975年の政府部局活動を整理した公文書では、警察活動は一部の許認可法令が執行されないことを除けば、基本的に他地域と同様と記録されている。

消防も火災時には通常の消火活動を行い、危険物に関する法令も執行していた。

労働部門は女性・若年者の雇用規制や工場安全を調査していた。

都市サービス部門は、ゴミとし尿の回収、公衆便所の維持、害虫対策、井戸の塩素消毒、感染症調査などを行っていた。

District Officeも住民組織や福祉団体との連絡を取り、行政部門間の調整を行っていた。

この記録から見える九龍城寨は、「政府が一歩も入れない外国領」とはかなり違う。

むしろ行政機関は日常的に関与していた。

ただし、その介入範囲に大きな例外があった。

「法律がない」のではなく、「執行されない法律」があった

九龍城寨の制度を理解するうえで、最も重要なのはここかもしれない。

城寨には法律が存在しなかったわけではない。

香港政府の側から見れば、城寨を植民地の一部とする法的立場があった。

警察も消防も活動していた。

しかし、実際の執行では特定分野を意図的に弱めていた。

たとえば建築では、無許可建築や増築に通常どおり対応しない。

食品営業に通常のライセンス制度を完全には適用しない。

学校も通常の登録制度に乗らない。

医師や歯科医についても、無登録であることだけを理由に直ちに排除する政策を取らず、生命に明白な危険がある場合などを除いて一定程度容認する。

2026年のHong Kong Medical Journalによる公文書分析でも、無登録の医師・歯科医が城寨に集中した背景として、管轄問題と行政の慎重姿勢が挙げられている。

つまり九龍城寨にできたのは、法律の空白ではない。

法律と執行の間の空白だった。

この違いは大きい。

行政機関そのものが存在しなければ、消防や水供給も行われない。

逆に通常の法執行が全面的に行われれば、無許可の高層建築や無登録営業は長く残りにくい。

九龍城寨では、この二つが同時に存在した。

だから外から見ると、政府がいるのに政府がいないように見える。

九龍城寨を支えたのは「主権の空白」より「実務上の妥協」だった

九龍城寨を説明するとき、「主権の空白」という言葉は魅力的だ。

だが、史料を追うほど、その言葉だけでは足りなくなる。

英国側は1899年以降、城寨を香港の一部とする立場を取った。

中国側は城寨に対する権利主張を維持した。

現地では香港政府が多数の行政サービスを提供した。

住民側には住民組織や非公式の土地取引慣行が生まれた。

つまり一つの場所に、異なる種類の権限が重なっていた。

誰か一方が完全に統治したわけでもない。

誰も統治しなかったわけでもない。

より正確に言えば、九龍城寨は主権・管轄権をめぐる対立を全面解決しないまま、日常行政だけを必要に応じて処理する妥協によって存続した。

香港政府にとって、城寨を通常市街と同じ水準まで強制的に整理する利益は、中国側との外交摩擦というコストと常に比較される。

中国側にとっても、現地へ正式な行政機構を再設置して香港政府と直接衝突することは別の問題を生む。

その結果、問題そのものを完全には解決しない状態が長期間維持された。

そして、その「解決されないこと」自体が都市の形を変えていった。

1984年まで、問題の根は消えなかった

九龍城寨をめぐる中英の管轄問題は、数十年間にわたって断続的に続いた。

2024年の研究は、その状態が1984年の中英共同声明によって香港の将来そのものに道筋がつくまで続いたと整理している。

ここで重要なのは、1984年になって初めて九龍城寨だけの法律問題が単独で解決した、という意味ではない。

香港全体の主権移行について中英両国が合意したことで、城寨をめぐる従来の外交的障害を処理できる条件が整ったのである。

その数年後の1987年、香港政府は九龍城寨の撤去と跡地公園化を正式に発表する。

長年できなかった全面的な整理が、この時点で初めて現実的になった。

九龍城寨の撤去は、老朽建築や衛生問題だけから突然決まったわけではない。

約90年間続いた管轄問題を背景に持つ都市だからこそ、その終わりにも中英関係の変化が必要だった。

撤去と補償についてはCASE060-07で詳しく扱う。

九龍城寨は「国家の外」にあったのではない

ここまでを見ると、九龍城寨について使われる「無法地帯」という言葉が、なぜ不十分なのかが分かる。

1847年には清朝の国家施設だった。

1898年には条約上、中国官吏の権限を残す例外が設定された。

1899年には英国側が城寨へ入り、中国官吏を退去させた。

英国は城寨を香港の一部とする立場を取った。

中国側はその権利主張を受け入れず、戦後も撤去や調査に抗議した。

香港政府は大規模な強制措置では後退する一方、警察、消防、衛生、土地境界、高さ、公共サービスでは介入した。

これは「国家が存在しない都市」ではない。

二つの国家的主張と、香港政府の実務行政と、住民社会の非公式な仕組みが重なった都市である。

だから九龍城寨の歴史を理解するとき、見るべきなのは「法があったか、なかったか」ではない。

どの法が、どの時期に、どこまで執行されたのか。

どの行政行為が外交問題になり、どの行政行為なら継続できたのか。

その差を見る必要がある。

「統治の隙間」は、巨大建築群を生む前提になった

1960年代以降、九龍城寨は急速に高層化する。

この変化は、単なる人口増加だけでは説明できない。

もし香港政府が通常の建築許可制度を完全に適用できていれば、あの形にはならなかった可能性が高い。

逆に行政が本当に完全撤退していれば、境界、高さ、消防、衛生といった統制も存在しなかったはずである。

実際にはその中間だった。

建築計画の事前承認は弱い。

だが土地の範囲は限定される。

建物高さにも航空安全上の制約がある。

警察・消防・衛生サービスは入る。

一部の営業や資格規制は弱い。

住民と事業者は、その条件の中で建物と経済活動を増やしていく。

これが、九龍城寨の都市システムだった。

そして、この制度条件が建築として可視化されたものが、現在もっとも有名な九龍城寨の姿である。

次の記事では、その「結果」を見る。

なぜ九龍城寨は、普通の街区ではなく、建物同士が接続し、内部通路が立体化し、巨大な一つの塊のように見える高密度建築群へ成長したのか。

CASE060-03では、統治の隙間が実際の建築空間へ変換されていく過程を追う。


FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Hong Kong Antiquities and Monuments Office, “Remnants of the South Gate of Kowloon Walled City, Kowloon Walled City Park.”
  2. [2] Hong Kong Antiquities and Monuments Office, “Former Yamen Building of Kowloon Walled City, Kowloon Walled City Park.”
  3. [3] Hong Kong Government, Hong Kong Yearbook 2018, Chapter 22 “History.”
  4. [4] Hong Kong Government Records Service, “Recording Hong Kong – 1890s.”
  5. [5] Hong Kong Government Records Service, archival holdings including “Question of jurisdiction within Walled City of Kowloon, Hong Kong” (1955) and “Kowloon Walled City in Hong Kong” (1959)
  6. [6] Lawrence W. C. Lai, “Kowloon Walled City: A Case of Land Administration of a Disputed Territory,” Land 13(12), 2024
  7. [7] Hong Kong in Texts, FCO40/157, “Kowloon Walled City and adjoining areas,” 1970, including summary of the 1960 Ad Hoc Committee and the 1963 C.P.G. protest
  8. [8] Antiquities Advisory Board / Development Bureau, “Historical cum Social Study on Kowloon City District in connection with Kai Tak area.”
  9. [9] Hong Kong Medical Journal, “Medical history of Hong Kong Part II: Healers in the maze: unravelling the myths of Kowloon Walled City practitioners,” 2026
  10. [10] Hong Kong Government Records Service, “Kowloon Walled City in the 1960s to 1970s,” digitised archival photo album
  1. 01 九龍城寨とは何だったのか?|巨大高密度都市の成立から解体まで
  2. 02 なぜ九龍城寨は「統治の隙間」に残ったのか?|1847年の城塞から戦後香港まで
  3. 03 九龍城寨はなぜ巨大な建築群になったのか?|無秩序な増築と高密度化の構造
  4. 04 九龍城寨で人々はどう暮らしていたのか?|住居・工場・店・診療所の日常
  5. 05 九龍城寨は本当に「無法地帯」だったのか?|犯罪・警察・行政介入の実像
  6. 06 九龍城寨の水・電気・排水・衛生はどう成り立っていたのか?|非公式都市インフラの実態
  7. 07 なぜ九龍城寨は解体されたのか?|1987年の決定から補償・再収容・撤去まで
  8. 08 九龍城寨の跡地には何が残ったのか?|南門・衙門・公園と現在

RSS FEED

RSSで更新を受け取る

RSSリーダーへ次のURLを登録すると、新着記事を確認できます。

フィードを直接開く