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九龍城寨はなぜ巨大な建築群になったのか?無秩序な増築と高密度化の構造

1989年の九龍城寨を上空から見た航空写真。密集した建築群が一つの街区を形成している。
Ian Lambot / Wikimedia Commons 出典 CC BY-SA 4.0

THE QUESTION

九龍城寨はなぜ巨大な建築群になったのか? | 無秩序な増築と高密度化の構造

STORY SO FAR

前回「なぜ九龍城寨は「統治の隙間」に残ったのか?|1847年の城塞から戦後香港まで」で確認した論点を受け、この回では九龍城寨はなぜ巨大な建築群になったのか? | 無秩序な増築と高密度化の構造を扱う。

九龍城寨の写真を初めて見ると、「これは本当に街なのか」と感じる。

外壁はほとんど途切れず、建物同士の境界も分かりにくい。窓、看板、バルコニー、配管、階段、増築部分が折り重なり、ひとつの巨大な塊のように見える。

だが、九龍城寨は一棟の巨大建築として設計されたわけではない。

そこにあったのは、多数の建物が別々の時期に建てられ、建て増され、隣り合い、接続され、結果として一体化して見えるようになった都市だった。

1993年に発表された現地調査研究は、解体直前の九龍城寨を、1ヘクタールあたり約1万8000人という高密度、最大14階規模の高層建築、エレベーターを欠いた垂直構造、そして建物空間と内部廊下の複雑な連結によって特徴づけている。

この姿は偶然に生まれたものではない。

土地の範囲が限られていたこと。

通常の建築承認が弱かったこと。

人口と住宅需要が増え続けたこと。

啓徳空港によって高さにも制約があったこと。

そして、既存の建物を壊して一から建て直すのではなく、使える空間を少しずつ積み上げていったこと。

これらが同時に作用した結果、九龍城寨は「横に広がらず、上へ詰め込み、隣とつなぐ」都市へ変わった。

この記事では、その建築構造だけに焦点を当てる。

最初から高層都市だったわけではない

現在よく知られる九龍城寨の姿は、1847年の城塞都市とはまったく違う。

清朝期の城寨は石壁で囲まれた軍事・行政拠点だった。

第二次世界大戦中に城壁が撤去され、戦後には旧城内に住宅や小規模な建物が増えた。

しかし、巨大な高密度建築群が本格的に形成されるのはさらに後である。

公文書研究では、1960年代初頭までの九龍城寨には低層の村落型建物が多く残っていたことが確認されている。

1963年ごろから、4階を超える多層建築が急速に増え始めた。

1972年の行政報告を分析した研究では、住民の約71%が4階以上の多層建築に住むようになっていたとされる。

つまり、現在のイメージを決定づける九龍城寨の高層化は、長い歴史の中では比較的短期間に起きた。

19世紀から同じ巨大建築群が残っていたわけではない。

1960年代から1970年代にかけて、低層の建物が次々と建て替えられ、あるいは上へ増築されていった結果、十数年で街の断面そのものが変わった。

政府檔案處が公開している1963年、1967年、1973年の航空写真を並べると、この変化を視覚的に追うことができる。

1960年代前半には高さのばらつきが大きく、低層部分が目立つ。

その後、多層建築が増え、1970年代には街区全体が密度の高い立体塊へ近づいていく。

九龍城寨の巨大化は、一夜で起きたものではない。

しかし、都市形成の時間として見ると非常に速かった。

横へ広がれない都市は、上へ伸びるしかなかった

九龍城寨の建築を理解するうえで、最も重要なのが土地の狭さである。

城壁はすでに失われていたが、旧城寨の範囲は行政上の境界として残った。

周囲には道路、公共住宅、既存市街があり、城寨が外側へ自由に拡大することはできなかった。

つまり、住宅需要が増えても、新しい土地を横へ足していくことが難しい。

普通の都市なら、郊外へ市街地が広がったり、新しい道路と宅地が作られたりする。

九龍城寨では、それができなかった。

使える土地がほぼ固定されている中で、人と建物だけが増える。

この条件では、床面積を増やす方法は限られる。

建物を高くする。

上階を張り出す。

既存棟に増築する。

隣接棟と共有できる空間を増やす。

九龍城寨の垂直化は、単に「規制がなかったから高くなった」のではない。

限られた平面を最大限に使うための合理的な結果でもあった。

しかし、上にも無限には伸ばせなかった

九龍城寨は横へ広がれない。

ならば超高層化すればよい、と思うかもしれない。

だが、上方向にも制約があった。

すぐ近くに啓徳空港があり、航空機の進入経路が城寨上空に重なっていたからである。

九龍城寨の建物は、通常の建築承認を受けずに建てられることが多かった。

それでも、航空安全に関わる高さについて香港政府が完全に無関心だったわけではない。

2022年の公文書研究は、1973~1975年の政府資料に、Airport Height Clearanceを超えた建物への対応記録が残っていることを示している。

1975年には、高さ制限を超えた建物の上部を削るよう求めた例も確認されている。

ある建物では、許容高度を11フィート6インチ上回っていたため、開発者側が自主的に高さを下げたと報告されている。

重要なのは、これが普通の建築行政とは違う形だったことである。

建築計画全体を事前審査していたわけではない。

基礎、採光、通風、避難動線、道路後退などを通常どおり統制していたわけでもない。

それでも、飛行機に影響する高さだけは行政が監視する。

その結果、城寨は上へ伸びることはできても、ある程度の高さで頭を押さえられる。

横は境界。

上は航空安全。

九龍城寨は、平面でも垂直方向でも限界を持つ箱の中で膨張した。

この条件が、細く高い塔を作るのではなく、十数階程度の建物が隙間なく連続する独特の形を生んだ。

建物は「一棟ずつ」増えた

九龍城寨の航空写真を見ると、巨大な一枚岩の建物に見える。

しかし、実際の形成単位はもっと小さい。

個別の土地所有者、開発者、建築業者が、既存の建物を多層化した。

2022年の研究では、1975年だけでも41棟の多層建物で合計347階分の増築・建て替えが試みられていたことが、警察の調査記録から確認されている。[3]

平均すると、対象建物1棟あたり約8階分に相当する。

もちろん、これは城寨全体の建物数ではない。

その年に調査対象となった多層化事例だけの数字である。

それでも、当時どれほど急速に上方向への開発が進んでいたかは分かる。

同研究は、建て替えの際、元の土地所有者に新しい建物の一部住戸を渡すような取引が行われていた例も紹介している。

つまり城寨の高層化は、単なる無計画な増築だけではなかった。

土地、建物、開発利益をめぐる取引が存在した。

建物を多層化すれば、同じ土地からより多くの住戸や事業スペースを作ることができる。

低層建物を高層化する経済的な理由があった。

九龍城寨は「誰も所有していない場所」ではない。

土地や建物には所有や利用をめぐる関係があり、それが再開発の単位になった。

ただし、その開発が通常の香港市街地のように行政の事前承認と一体になっていなかった。

ここが大きな違いだった。

一つの巨大建築ではなく、建物の「集合体」だった

九龍城寨について「巨大な一棟の建物」と表現することがある。

見た目を説明する比喩としては分かりやすい。

しかし、建築史としては注意が必要である。

九龍城寨には、複数の建物が存在していた。

それぞれ建てられた時期も異なる。

階数も違う。

構造も違う。

所有関係も異なる。

それらが近接し、接触し、後から通路をつなぎ、上階を張り出し、境界が見えにくくなっていった。

1993年の空間構造研究が強調しているのも、単一建築ではなく、建物空間と内部廊下の「複雑な相互連結」である。

つまり、重要なのは建物の数よりも、建物同士の関係だった。

通常の都市では、建物と建物の間に道路、路地、敷地境界、空地などがある。

九龍城寨では、その間隔が極端に縮まり、場所によっては上階が互いに接近し、通路や階段が建物間をまたいだ。

結果として、「建物の外へ出てから隣の建物へ入る」という都市の基本動作が崩れていく。

内部を移動しているうちに別の建物へ入ることが可能になる。

この状態になると、住民にとって重要なのは行政上の建物境界ではなく、実際に使える経路だった。

階段が「一棟のための設備」ではなくなった

通常の集合住宅では、階段はその建物の住民が上下移動するための設備である。

九龍城寨では、この原則も曖昧になった。

建物が接近し、後から増築されることで、隣の建物の階段を利用する方が合理的な場合が生まれた。

建築家Ian Lambotらがまとめた『City of Darkness Revisited』の建築解説では、既存階段を共同利用し、隣接建物の壁を開いて通路を接続するような事例が紹介されている。

ある建物から上がり、途中で別の建物へ移り、さらに別の階段へ進む。

一つの垂直動線が複数棟を支える。

こうして、建物単位ではなく街区全体で一つの移動ネットワークのようなものが形成された。

これは、都市として見ると非常に異例である。

道路が地上だけにあるのではなく、建物内部の各階にも「街路に似た役割を持つ通路」が発生するからだ。

九龍城寨が迷路のようだった理由は、路地が細かっただけではない。

移動経路そのものが三次元化していた。

地上の路地だけが「道路」ではなかった

九龍城寨の内部写真では、狭く暗い路地が強い印象を残す。

しかし、都市の動線を考えると、地上だけを見ていては足りない。

1993年研究は、内部廊下が複雑に連結していたことを九龍城寨の主要な空間的特徴としている。

また、現地を長期撮影したIan LambotやGreg Girardの記録では、高層階にも建物間を横切る通路があり、地上まで降りずに別棟へ移動できたことが確認されている。

これは単なる近道ではない。

地上の路地が極端に混雑し、建物密度が上がるほど、高層階の横移動には価値が出る。

階段で上がる。

廊下を進む。

隣の棟へ移る。

さらに別の階段を使う。

九龍城寨では、通常なら「建物内部」に分類される空間が、都市全体の通行空間として機能するようになった。

そのため、外から見た建物の輪郭と、内部で実際に使われる都市の輪郭が一致しない。

この点が九龍城寨を単なる高密度住宅地と区別する。

屋上は「建物の終端」ではなかった

九龍城寨の垂直都市は、最上階で終わらない。

屋上もまた、生活と移動の空間だった。

現在の九龍寨城公園の展示ガイドは、かつての屋上について、洗濯、休息、会話、子どもの遊びなどが行われる場所だったと説明している。

複数の屋上が連続することで、地上とはまったく異なる開放的な空間が生まれた。

下の路地は暗く、空が見えにくい。

一方、屋上へ出れば視界が開ける。

ただし、すぐ上を啓徳空港へ向かう航空機が低空で通過する。

九龍城寨を象徴する「屋上と飛行機」の光景は、単なる珍しい写真ではない。

高密度化によって地上の公共的空間が少なくなり、建物の頂部が代わりに半公共的な場所として使われた結果でもある。

屋上にはテレビアンテナ、洗濯物、設備、物置なども存在した。

決して整備された公園ではない。

それでも、地上と違う種類の余白が残る場所だった。

九龍城寨の空間構造は、地下や地上だけではなく、屋上まで含めて考える必要がある。

なぜ下層ほど暗くなったのか

高密度化の代償は大きかった。

建物と建物の間隔が狭くなると、自然光が届きにくくなる。

上階が路地側へ張り出せば、さらに空が見えなくなる。

隣接棟との距離がほとんどなくなれば、窓があっても十分な採光や通風が期待できない。

九龍城寨が「City of Darkness」と呼ばれる理由の一つがここにある。

外から見ると高層建築の集合体だが、内部へ入ると路地や低層階は昼でも暗い。

これは建物の高さだけでなく、建物間の空間が失われたことによる。

通常の都市計画では、道路幅、採光、通風、建物間隔、斜線制限などによって、最低限の空間を建物の外側に確保する。

九龍城寨では、そうした外部空間を守る規制が弱かった。

そのため、使える床面積を増やすほど、共用される「空」が減っていった。

床面積の最大化と、光・風・空間の確保が直接競合する。

九龍城寨は、この関係が極端な形で現れた都市だった。

「無計画」なのに、完全なランダムではなかった

九龍城寨はよく「無計画都市」と呼ばれる。

行政によるマスタープランがなかったという意味では、その表現は正しい。

しかし、建物の配置や接続が完全にランダムだったわけではない。

住戸を増やしたい。

店舗を作りたい。

既存階段を使いたい。

隣の建物へ抜けたい。

土地所有者に住戸を戻したい。

高さ制限を超えないようにしたい。

こうした個別の目的が積み重なっていた。

一つ一つの判断には、それぞれ理由がある。

ただし、その判断を街区全体で調整する都市計画がない。

その結果、局所的には合理的でも、全体では極端に複雑な構造になる。

九龍城寨の建築は、「秩序がない」のではなく、「中央で統一された秩序がない」と考えた方が近い。

建物ごと、所有者ごと、開発ごとに成立した小さな合理性が接続され、巨大な全体を作った。

この意味で、九龍城寨は上から設計されたメガストラクチャーではなく、下から生成されたメガストラクチャーに近い。

ただし、これは後から都市形態を理解するための表現であり、建設当時に誰かが「巨大複合建築を作ろう」と計画したという意味ではない。

1970年代、高層化はさらに加速した

1960年代に始まった多層化は、1970年代にも続いた。

2022年の公文書研究では、1975年だけで41棟について合計347階分の増築・建て替えが記録されている。[3]

同時期の政府記録には、高さ制限を超えた建物への対応も残る。

ここから分かるのは、高密度化が自然発生的な小規模増築だけで進んだのではないことだ。

複数の開発者が存在し、まとまった階数を持つ新しい建物が建てられていた。

城寨内部には住宅市場があり、建物を高層化する経済的な動機があった。

低層建物を残したまま上へ増築する場合もあれば、既存建物を建て替える場合もある。

こうして建物の高さが徐々にそろい、街区全体が「壁」のような外観へ近づいていく。

航空写真で見ると、1960年代のまだらな高さから、1980年代の密集した上面へ変化していく。

つまり、九龍城寨の外観は、個別の建築ブームが長期間積み重なった結果だった。

14階という数字は「全棟が14階」ではない

九龍城寨について「14階建ての都市」と説明されることがある。

ここにも注意が必要である。

1993年研究が示すのは、「14階規模の高層構造が存在した」という特徴であって、すべての建物が同じ14階だったという意味ではない。

実際、航空写真を見ると高さにはばらつきがある。

低い棟もある。

高い棟もある。

増築途中のように見える部分もある。

航空高度制限も、建物ごとにまったく同じ絶対階数を指定する単純なものではない。

土地の位置や当時の規制条件によって扱いは変わり得る。

したがって、「啓徳空港のため全建物が14階に制限されていた」と断定するのは正確ではない。

より重要なのは、高度規制が都市全体の上限感を作ったことである。

無制限の超高層化ではなく、十数階程度の建物が横方向に密集する。

この「低めの天井を持つ高密度化」が、九龍城寨を巨大な塊のように見せた。

エレベーターのない垂直都市

1993年研究は、最大14階規模の高層構造とともに、「エレベーターなし」という特徴を挙げている。

これは九龍城寨の垂直性を理解するうえで重要である。

現在の高層集合住宅では、階数が増えるほどエレベーターが移動の中心になる。

九龍城寨では、人の移動を支えたのは主に階段だった。

その階段が建物間接続と組み合わされる。

結果として、上下移動と横移動が一本の連続した迷路になる。

高層化は床面積を増やした。

しかし、人間はその分だけ階段を上り下りしなければならない。

この不便さを少しでも減らすため、途中階から隣の建物へ抜ける経路や、複数建物で階段を共有する工夫が価値を持つ。

つまり、内部廊下の連結は単なる奇妙な建築現象ではない。

エレベーターのない高密度都市で、人間の移動距離を調整する実用的な意味もあった。

建物の境界が、人間の動線に負けていった

九龍城寨を建築として見ると、最も興味深いのはここである。

通常、建物の境界が先にあり、人はその中を移動する。

九龍城寨では、人が必要とする動線が既存の建物境界を横断するようになった。

隣の階段を使う。

壁を開ける。

廊下をつなぐ。

上階で別棟へ抜ける。

屋上を横切る。

こうした行為が積み重なると、図面上の「一棟」という単位と、住民が実際に感じる空間単位がずれていく。

外から見ると巨大な塊。

内部では無数の建物。

移動すると、その境界はさらに曖昧になる。

九龍城寨が現代の建築家や都市研究者を引きつける理由の一つが、このズレにある。

建築を一棟ずつ設計する通常の考え方では説明しにくい。

都市計画だけで見ても説明しにくい。

建築と都市の中間にあるような構造になっている。

航空写真で見ると「巨大化の途中」が分かる

九龍城寨の最終形だけを見ると、あの密度が最初から存在していたように錯覚する。

しかし、政府檔案處が公開している1963年、1967年、1973年の航空写真は、街区の変化を段階的に確認できる貴重な資料になっている。[4]

1963年の写真では、後年のような均質な高層塊ではなく、低層建物と多層建物が混在している。

1967年になると、複数の場所で建物の高さが増し、街区内部の空隙が縮まり始める。

1973年の写真では、多層建物の占める比率がさらに高くなり、上空から見た街区の輪郭がより連続的になる。

この変化で重要なのは、「新しい都市が一度に建設された」のではないことである。

古い建物の横に新しい建物が建つ。

低層建物が高層化される。

さらにその隣でも建て替えが起きる。

こうして異なる時期の建築が継ぎ足され、結果として街区全体が一つの密集した面へ近づいていった。

つまり、九龍城寨の巨大建築群は完成形よりも形成過程を見る方が理解しやすい。

1960年代から1970年代の航空写真は、都市が「建てられた」のではなく、「埋まっていった」ことを示している。

なぜ建物同士の「隙間」が消えていったのか

高密度化を考えるとき、単純に階数だけを見ると本質を見失う。

九龍城寨の特徴は、建物が高くなっただけではなく、建物間の隙間そのものが小さくなったことにある。

通常の都市では、隣棟間隔や道路幅、採光、通風、防火などを理由に、建物の外側へ一定の空間を残す。

その空間は、直接売ったり貸したりできる床面積ではない。

しかし都市全体では、光、風、避難、消防活動、道路機能を支える重要な余白になる。

九龍城寨では、その余白を守る制度が弱かった。

一方で、内部の床面積には強い需要がある。

すると、建物所有者や開発者にとっては、使われていない外部空間を内部空間へ変える動機が生まれる。

上階を路地側へ張り出す。

バルコニーを囲う。

隣棟との間を通路でつなぐ。

既存の空間へ階段を追加する。

屋上へさらに部屋を足す。

一つ一つは小さな増床でも、街区全体で繰り返されると、光や風が通る空間は急速に減る。

この過程では、建物の「内」と「外」の境界も変わる。

昨日まで外部だった場所が、増築によって室内になる。

別々だった建物の間が、廊下によって内部化される。

路地の上空が張り出しで覆われる。

こうして街区全体が少しずつ「建物の内側」に近づいていった。

九龍城寨が外から見ると一枚の壁、内部へ入ると連続した迷路のように見えるのは、この空間の内部化が長期間続いたからでもある。

建物の高層化と「横の接続」は同時に進んだ

都市の高密度化というと、普通は高層ビルを想像する。

一つの敷地に一つの高い建物を建て、エレベーターで上下移動する形である。

九龍城寨は違った。

建物は上へ伸びたが、同時に横方向でも接続された。

そのため、単なる高層住宅の集合ではなく、垂直方向と水平方向の両方へ動線を持つ立体街区になった。

この違いは大きい。

もし建物同士が完全に独立していれば、人は一度地上へ降り、路地を歩き、隣の建物へ入り直す必要がある。

だが高層階同士が接続されれば、地上を経由せず移動できる。

これは移動効率を上げる一方で、建物単位の防災や所有境界を複雑にする。

通常なら一棟ごとに完結するはずの階段、廊下、出入口が、街区全体のネットワークへ変わるからだ。

この構造こそ、九龍城寨を「巨大建築のように見える都市」にした中心的な特徴だった。

それは「成功した都市計画」ではない

九龍城寨の構造には、確かに驚くべき適応力がある。

限られた土地を最大限使った。

建物同士を接続した。

屋上を生活空間として使った。

住民は複雑な経路を使いこなした。

そのため、九龍城寨を「住民の創意工夫が生んだ理想的な自律都市」と評価したくなることもある。

しかし、その見方にも注意が必要である。

高密度化は、採光、通風、防災、避難、衛生など多くの問題を伴った。

建物同士が密着すると、火災時の延焼や消防活動も難しくなる。

細い通路や複雑な階段は、日常の近道にはなっても、緊急時の安全性を保証するものではない。

建物の増築が合理的でも、街区全体として安全とは限らない。

九龍城寨の建築は、「規制がない方が都市はうまくいく」という単純な証拠ではない。

むしろ、規制が弱い環境では、床面積を増やす圧力がどこまで空間を占有できるのかを示した極端な事例と考えた方がよい。

1993年研究が九龍城寨を都市計画制度を再考するための「実験的」状況として扱ったのも、このためである。

巨大建築群は、制度と市場と生活の結果だった

九龍城寨の最終形を写真だけで見ると、「誰かが狂った巨大建築を作った」ように見える。

実際は逆である。

誰も全体を設計していなかった。

それでも全体は一つの形になった。

土地の境界が固定される。

人口が増える。

住宅需要が増える。

建築承認が弱い。

多層化に経済的利益がある。

航空高度によって上限が生まれる。

階段と廊下が共有される。

隣接棟が接続される。

屋上まで生活空間になる。

この連鎖が長期間続いた結果、個別建築の集合が一つの巨大な都市構造へ変化した。

九龍城寨の「メガストラクチャー性」は、設計図から生まれたのではない。

制度条件と土地市場と住民の実用的判断が、あとから巨大構造を作った。

だからこそ、同じ形を別の場所で単純に再現することはできない。

建築だけをコピーしても、九龍城寨にはならない。

その形を生んだ社会条件まで含めて初めて、なぜあの都市が成立したのかが見えてくる。

建築の次に見なければならないもの

ここまで見ると、九龍城寨の内部がなぜ迷路になったのかは分かる。

では、その迷路の中で人々はどう暮らしていたのか。

建物が極端に密集し、自然光が届きにくく、エレベーターもほとんど期待できない環境でも、そこには家庭があり、仕事場があり、店があり、学校があり、診療所があった。

巨大建築群は、空の箱ではない。

数万人規模の生活を内包する都市だった。

次のCASE060-04では、建築構造そのものから離れ、その内部にあった日常生活を見る。

なぜ人々は九龍城寨に住み続けたのか。

住宅、工場、飲食店、診療所、学校、家族生活が、あの極端な高密度空間の中でどのように成立していたのか。

九龍城寨を「奇妙な建築」から「人が暮らした街」へ戻して考える。


九龍城寨の高密度化と立体接続の模式図
九龍城寨の高密度化と立体接続を示す模式図。実測復元図ではなく、研究・公文書で確認できる構造的特徴を整理した概念図。

建物高・棟配置・通路位置は模式表現。九龍城寨全体を一棟として示すものではない。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Shunichi J. Watanabe and Masahiro Ibayashi, “Spatial Structure of the Kowloon Walled City Slum, Hong Kong,” Journal of the City Planning Institute of Japan, Vol. 28, 1993
  2. [2] Lawrence W. C. Lai, “Kowloon Walled City: A Case of Land Administration of a Disputed Territory,” Land 13(12), 2024
  3. [3] Mark Hansley Chua and Yung Yau, “Early Experience of Land Readjustment in Hong Kong: Case Study of the Kowloon Walled City,” Buildings 12(6), 2022
  4. [4] Hong Kong Government Records Service, “Kowloon Walled City in the 1960s to 1970s.”
  5. [5] Hong Kong Government Records Service, “History in Pictures – The City Development in the Post War Period.”
  6. [6] Ian Lambot, “The Architecture of Kowloon Walled City,” excerpt from City of Darkness Revisited, published by ArchDaily
  7. [7] Hong Kong Leisure and Cultural Services Department, Kowloon Walled City exhibition guide, “Rooftop of Light and Shadow in the Walled City.”
  8. [8] City in Time, “Kowloon City – Carpenter Road ca.1987.”
  1. 01 九龍城寨とは何だったのか?|巨大高密度都市の成立から解体まで
  2. 02 なぜ九龍城寨は「統治の隙間」に残ったのか?|1847年の城塞から戦後香港まで
  3. 03 九龍城寨はなぜ巨大な建築群になったのか?|無秩序な増築と高密度化の構造
  4. 04 九龍城寨で人々はどう暮らしていたのか?|住居・工場・店・診療所の日常
  5. 05 九龍城寨は本当に「無法地帯」だったのか?|犯罪・警察・行政介入の実像
  6. 06 九龍城寨の水・電気・排水・衛生はどう成り立っていたのか?|非公式都市インフラの実態
  7. 07 なぜ九龍城寨は解体されたのか?|1987年の決定から補償・再収容・撤去まで
  8. 08 九龍城寨の跡地には何が残ったのか?|南門・衙門・公園と現在

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