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なぜ九龍城寨は解体されたのか?1987年の決定から補償・再収容・撤去まで

1991年、解体前の九龍城寨の建築群。
Roger Price / Wikimedia Commons 出典 CC BY 2.0

THE QUESTION

なぜ九龍城寨は解体されたのか? | 1987年の決定から補償・再収容・撤去まで

STORY SO FAR

前回「九龍城寨の水・電気・排水・衛生はどう成り立っていたのか?|非公式都市インフラの実態」で確認した論点を受け、この回ではなぜ九龍城寨は解体されたのか? | 1987年の決定から補償・再収容・撤去までを扱う。

九龍城寨は、長いあいだ「いつか撤去される」と言われながら残り続けた。

建物の安全性。

過密。

衛生。

消防アクセス。

無許可建築。

行政上の扱い。

問題は何十年も前から知られていた。

それでも、城寨全体を一度に整理することはできなかった。

最大の理由は、単なる都市再開発ではなかったからである。

そこには多数の住民がいる。

事業者がいる。

建物を所有すると主張する人がいる。

正式な登記だけでは説明できない権利関係がある。

さらに、九龍城寨そのものが中英間の歴史的な管轄問題を抱えていた。

だから撤去には、「危険だから壊す」以上の条件が必要だった。

1984年の中英共同声明によって香港全体の将来に政治的な枠組みが与えられたあと、九龍城寨をめぐる長年の障害は大きく変わった。

そして1987年、香港政府はついに城寨を撤去し、跡地を公園化する方針を発表する。

しかし、発表から解体完了までにはさらに数年を要した。

九龍城寨の最後は、爆破解体のような一度の出来事ではない。

住民調査、権利確認、補償、再収容、異議申立て、段階的な明け渡し、建物取得、解体を積み重ねた行政プロセスだった。

1987年、政府は「撤去」を正式に決めた

香港古物古蹟辦事處の公式説明では、1987年、香港政府は九龍城寨を撤去し、その跡地を都市公園へ転換すると発表した。

この決定は、それまでの「限定的に管理する」政策からの大きな転換だった。

1970年代までの行政は、城寨そのものを存続させたまま、衛生、消防、警察、給水、境界などの一部問題へ対処する方向だった。

1987年の決定は違う。

都市としての九龍城寨そのものを終わらせる。

住民と事業者を移転させる。

建物を取得し、最終的に撤去する。

これは限定改善ではなく、城寨全体を消滅させる政策だった。

当然、その影響は大きい。

政府は発表後すぐに、誰が住んでいるのか、誰がどの物件について権利を主張しているのかを把握する必要に迫られた。

最初に必要だったのは「何人いるのか」を確定することだった

1987年2月18日の香港立法局では、九龍城寨撤去が公共住宅計画へ与える影響が議論されている。

この時点で政府は、詳細なscreeningがまだ終わっていないと説明していた。

つまり撤去方針は決まったが、再収容対象の最終人数はまだ確定していなかった。

予備調査では、約1万世帯が城寨から移転し、1990年までに再収容が必要になると見込まれていた。

ここで重要なのは、「1万世帯」という数字の意味である。

これは人口ではない。

補償件数でもない。

1987年初頭の予備調査に基づく再収容需要の見込みである。

後に出てくる14,639件の補償offerと同じ数字ではない。

この区別をしないと、撤去規模を誤って理解する。

政府にとって、城寨撤去は単なる建物除却ではなく、大量の住宅需要を突然公共住宅制度へ移す計画でもあった。

1万世帯の再収容は、香港全体の住宅計画に影響した

1987年の立法局答弁では、九龍城寨の撤去によって都市部の公営住宅需要が増えることが明確に認識されていた。

当時、香港政府は一般の住宅待機者、既存再開発、他の不法占拠地区の撤去など、複数の住宅需要を同時に抱えていた。

そこへ九龍城寨の住民が加わる。

政府は1987~1990年の3年間に公共住宅programmeで14万戸を供給する計画を示し、通常目標を上回る住宅供給によって追加需要へ対応しようとしていた。

つまり城寨撤去は、九龍城寨だけのプロジェクトではない。

香港全体の住宅供給計画へ波及する政策だった。

この点からも、撤去を「危険なスラムを取り壊しただけ」と説明することはできない。

撤去には大量の代替住宅を準備する能力が必要だった。

九龍城寨の撤去は「普通の不法占拠地区撤去」ではなかった

1987年12月2日の立法局では、九龍城寨と他のsquatter clearanceで、再収容・補償基準が違うことが質問されている。

政府側は、九龍城寨の撤去を「非常に特殊なケース」と説明した。

そして、歴史から残された問題を解決するためにはpragmatic approach、つまり実務的な特別対応が必要だとした。

この発言は重要である。

九龍城寨は、通常の土地に勝手に建てた不法占拠住宅を同じルールで撤去する案件ではなかった。

長年の管轄問題。

独自の土地・建物取引。

複雑な居住実態。

行政が一部の建築や営業を黙認してきた歴史。

こうした事情がある。

そのため、通常のsquatter clearanceの基準をそのまま適用すると、長年にわたって政府自身が作ってきた特殊状態との整合が取れない。

政府は、九龍城寨専用の補償・再収容スキームを構築する必要があった。

「住んでいる人」と「所有を主張する人」を分けて確認した

撤去の実務では、居住者の確認と、物件権利の確認は別の問題だった。

1987年4月、Registrar General’s Departmentは九龍城寨のclaimantを対象とする専用sub-officeを開設した。

政府公報によれば、この事務所の目的は、城寨内物件について所有権を主張する人の証拠書類を確認することだった。

Housing Departmentのpre-clearance surveyに登録された人は、順番に呼び出され、所有権を裏付ける書類を提出する。

城寨に住んでいない所有権主張者も、証拠書類を持参して申請できた。

この確認作業は6~9か月を見込んで段階的に進められる予定だった。

ここから分かるのは、撤去が単なる「全員を退去させる」作業ではなかったことである。

誰が住民なのか。

誰が建物・部屋の所有を主張するのか。

その主張にどの程度の証拠があるのか。

補償対象は誰なのか。

こうした判断を一件ずつ行う必要があった。

九龍城寨には普通の土地登記だけでは処理できない権利関係があった

通常の再開発なら、登記された土地所有者を確認し、その権利を基に補償を計算できる。

九龍城寨では、それだけでは足りない。

長年にわたり、正式な都市計画・建築許可制度の外で建物が増えた。

低層建物が高層化される。

部屋が売買される。

利用権が移る。

親族へ承継される。

土地と建物の権利関係が、通常の香港市街地の登記記録だけでは完全に説明できないケースが生まれていた。

政府檔案處には、Kowloon Walled City clearance claimantに関する膨大なケースファイル群が保存されている。

HKRS1255だけでも、1980年代からその後まで続く多数の個別claimant recordsが残る。

これは、撤去が一括処理ではなく、非常に多くの個別権利確認を必要としたことを示している。

補償額は一律ではなかった

撤去を受け入れてもらうには、住民・所有者・事業者それぞれに対する補償が必要になる。

しかし、九龍城寨の物件は条件が同じではない。

建物の用途。

広さ。

利用状況。

居住者か事業者か。

権利をどのように証明できるか。

こうした違いによって補償額は変わる。

そのため、政府が提示した補償offerに全員が同意するわけではなかった。

1991年の立法局資料には、補償額をめぐる異議を扱うAssessment Review Boardの制度が説明されている。

このReview Boardは、1987年にKowloon Walled City clearanceのSpecial Committeeによって設けられた行政機関だった。

住民側またはGovernment Land Agent側の求めに応じて開かれ、政府の補償offerが公正かどうかを検討する。

公正でないと判断した場合には、適正と考える金額を決定し、その理由を示す。

つまり、補償は「政府が決めた額をそのまま受け取る」だけの制度ではなかった。

異議申立ての仕組みが設けられていた。

ただし、Review Boardは裁判所ではなかった

Assessment Review Boardは重要な制度だが、その性質も正確に理解する必要がある。

これは行政上設けられたreview mechanismであり、通常の司法裁判所と同じものではない。

専門家団体から委員候補が推薦され、補償評価を見直す。

住民にとっては、政府offerへの正式な不満を表明する経路になる。

一方、すべての紛争が簡単に解決するわけではない。

権利そのものの証明。

物件評価。

営業損失。

居住資格。

こうした複数の問題が絡む。

だから撤去決定から数年後になっても、補償案件は残った。

「補償offer 14,639件」は「14,639世帯」ではない

1993年11月17日の立法局では、未解決の補償案件が質問されている。

政府答弁では、補償offerの総数は14,639件。

そのうち未解決は123件とされている。

この数字は、撤去実務の進捗を示す重要な記録である。

しかし、ここでも注意が必要である。

1987年の「約1万世帯」と、1993年の「14,639 offers」は同じ単位ではない。[3]

前者は予備調査に基づく再収容世帯数の概算。

後者は補償offerの件数。

一世帯に一offerとは限らない。

所有権、事業、物件など複数の請求関係が存在する可能性がある。

したがって、14,639件を「最終的に1万4639世帯が住んでいた」と読み替えることはできない。

未解決123件は、全体が止まっていたという意味ではない

1993年時点で123件が未解決だった。

逆に見れば、14,639件の大部分は処理が進んでいたことになる。

政府答弁では、未解決理由として、補償算定に必要な情報や権利関係の確認など、個別事情が残っていた。

ここからも、九龍城寨撤去が「全員と一度に合意してから解体する」方式ではなかったことが分かる。

処理できた案件から進める。

異議が残るものはReview Boardなどで継続処理する。

都市全体の明け渡しと、個別補償案件の最終清算は完全には同じタイミングで終わらない。

大規模再開発ではよく起こることだが、九龍城寨では権利関係の特殊性によって特に複雑だった。

1992年、Phase Iの明け渡しが完了した

撤去は段階的に進められた。

1992年1月8日のGovernment Information Services bulletinは、Kowloon Walled City clearanceのPhase Iについて、政府が対象構造物をすべて取得したと発表している。

その朝まで残っていた32世帯も、任意または説得を受けて退去した。

ここで重要なのは、1992年になってもまだ実際の退去作業が続いていたことである。

1987年の撤去決定から約5年が経過している。

つまり「1987年に撤去決定→すぐ空になった」というイメージは正しくない。

調査。

補償。

再収容。

交渉。

異議。

そして最終退去。

これらに時間がかかった。

Phase Iのbulletinでは、補償offerをまだ受け入れていない人に対し、Assessment Review Boardへのappealまたはより高いclaimを裏付ける資料提出の期限も案内されている。

明け渡しと補償交渉が並行して進んでいたことが分かる。

「強制撤去」だけで進めたわけではない

九龍城寨の最終撤去は、強制力を使う場面も含む行政プロジェクトだった。

しかし、全住民を一度に物理的に排除したわけではない。

政府は数年かけて補償offerを提示し、住宅を用意し、個別のclaimを審査した。

Phase I完了時の資料でも、最後まで残った32世帯について「voluntarily or after persuasion」と記録されている。

これは、明け渡しに強い行政圧力があった一方、できる限り交渉と移転を積み重ねる方式が採られていたことを示す。

ただし、だからすべての住民が納得していたという意味ではない。

補償を不十分と考える人。

権利認定に不満を持つ人。

営業を失う事業者。

新しい住宅への移転を望まない人。

それぞれに事情がある。

最終的な撤去は、合意だけでなく政府の強制的なclearance authorityを背景として進んだ。

再収容は「元の生活をそのまま移す」ことではなかった

公営住宅へ移ることは、物理的には住環境改善になる場合が多い。

正式な水道。

電気。

衛生設備。

道路。

消防アクセス。

建物安全。

九龍城寨で不足していた多くの条件が整う。

しかし、移転は単純な改善ではない。

城寨内部では、住宅と商売が同じ場所にある家庭が多かった。

工場。

店。

診療所。

家族経営。

近所の顧客。

建物内の人間関係。

これらは公営住宅へ部屋を移すだけでは再現できない。

住宅を得ても、仕事場を失う可能性がある。

商売の顧客関係が変わる。

隣人関係も変わる。

つまり再収容は、住戸の代替だけでなく、城寨で成立していた生活システムの解体でもあった。

この点を見なければ、補償問題がなぜ複雑だったのか理解しにくい。

事業者にとっては「住む場所」だけの問題ではなかった

九龍城寨には多数の工場、店舗、飲食店、診療所があった。

居住者への再収容だけでは、事業者の損失は補えない。

設備。

在庫。

営業権。

顧客。

立地。

従業員。

こうした事業上の価値がある。

さらに、城寨の低コスト環境そのものが商売の成立条件だった場合、外部へ移転すると家賃や規制コストが上がる。

つまり「同じ広さの場所を用意すれば解決」ではない。

九龍城寨の撤去は、特殊な低コスト経済圏を終わらせることでもあった。

これが補償交渉を難しくする一因になった。

1993年まで補償問題が残ったことは、失敗を意味しない

撤去発表から6年後の1993年になっても未解決案件があった。

これだけを見ると、「政府の補償政策はうまくいかなかった」と言いたくなる。

しかし、大規模な権利調整として見ると別の見方もできる。

14,639件のofferのうち未解決123件というのは、全体のごく一部まで処理が進んでいたことを示す。

一方、その少数案件については、最後まで個別事情が解決しにくかった。

つまり全体計画としては前進しながら、個別紛争が残る。

九龍城寨撤去は、この二つを同時に抱えていた。

補償は「土地価格」だけで決まる問題ではなかった

九龍城寨の補償が複雑だった理由は、単に土地価格を決めれば終わる案件ではなかったからである。

住民の中には、自らを所有者と考える人がいる。

借家人もいる。

同じ場所で工場や商店を営む人もいる。

居住と営業が同じ空間に重なっている例もある。

そのため、政府は一つの物件について「誰に、何を、どの根拠で補償するのか」を分解しなければならなかった。

通常の正式登記が完全に揃っていない場合、古い売買書類、領収書、占有実態、家族内の承継関係などが重要になる。

1987年に専用のclaimant officeが作られたのは、このためである。

書類を一件ずつ確認し、誰がどの権利を主張しているかを行政記録へ落とし込む。

九龍城寨を物理的に解体する前に、まず「見えない権利関係」を行政上のデータへ変換する必要があった。

この作業がなければ、補償も再収容も進められない。

権利確認は、過去の黙認を精算する作業でもあった

政府は長年、九龍城寨の建築や営業の一部を通常市街と同じ強さでは規制してこなかった。

その結果、1987年になって突然「正式な書類だけを持つ人だけ補償する」とすれば、大きな矛盾が生じる。

行政が完全には取り締まらなかった環境の中で、人々は住宅を買い、借り、増築し、事業を始めてきたからである。

撤去時には、その歴史的な事実を無視できない。

だから九龍城寨のclearanceは、過去の非公式な状態を一度行政的に読み直す作業でもあった。

何十年も曖昧だった利用関係を、最終的には補償金、再収容資格、claimの可否という具体的な判断へ変換する。

この点で、1987年以降の行政は、それ以前の「曖昧なまま維持する政策」と正反対だった。

存続期には曖昧さが都市を支えた。

撤去期には、その曖昧さを一件ずつ解消しなければ都市を終わらせられなかった。

公営住宅への再収容は、香港全体の優先順位を動かした

約1万世帯という1987年の予備推計が重要だったのは、単に人数が多かったからではない。

香港では、すでに一般の公営住宅待機者がいる。

他の不法占拠地区の撤去も予定されている。

老朽住宅の再開発も進めなければならない。

そこへ九龍城寨の再収容需要を追加すると、誰を先に住宅へ入れるのかという政策上の優先順位が変わる。

1987年立法局でこの問題が質問されたのも、そのためである。

政府は九龍城寨を「歴史的に特殊な問題」として特別扱いする必要がある一方、その特別扱いが他の住宅待機者から見て不公平に見える可能性もある。

同年12月の立法局では、別のsquatter clearanceとの待遇差が実際に問題にされた。

つまり九龍城寨の撤去は、城寨住民と政府だけの交渉ではない。

香港全体の住宅政策における公平性の問題でもあった。

再収容の「資格」と補償の「権利」は同じではない

ここも混同しやすい。

ある人が城寨に住んでいるからといって、必ずしも建物所有権の補償を受けるわけではない。

反対に、城寨外に住む人が物件所有を主張する場合もある。

居住者としての再収容資格と、財産・営業上の補償claimは別の審査になる。

1987年4月のclaimant officeが、非居住所有権主張者にも証拠提出を認めていたのは、この違いを示している。

政府は、「誰が住んでいるか」と「誰が権利を持つと主張するか」を同じ名簿だけでは処理できなかった。

この二重構造が、補償offerの件数と世帯数が一致しない理由の一つでもある。

だからこそ、1987年の約1万世帯と、1993年の14,639 offerを単純に比較してはいけない。[3]

交渉が長引いたことは、住民側の抵抗だけでは説明できない

clearanceが数年かかった理由を、「住民が立ち退きを拒否したから」とだけ説明するのも不正確である。

政府側にも確認すべきことが多かった。

誰が正当なclaimantか。

どの資料を証拠として認めるか。

営業補償をどう評価するか。

住民にどの住宅を提示するか。

再収容基準をどこまで緩和するか。

Review Boardで再評価が必要か。

これらの行政判断を積み重ねるだけでも時間がかかる。

さらに、九龍城寨の物件は通常の不動産市場のように標準化しにくい。

同じ床面積でも、用途や位置、営業実態によって価値の意味が違う。

補償交渉が長期化したことは、抵抗と強制の対立だけではなく、行政が特殊な都市を通常の補償制度へ翻訳する難しさを示している。

撤去は「住民の移動」と「建物の消滅」を別々に進めた

九龍城寨の終わりを考えるとき、住民が出ていく時期と建物が消える時期を分ける必要がある。

居住者・事業者の明け渡しが進む。

政府が構造物を取得する。

残置物を処理する。

安全確認をする。

その後に解体へ進む。

1992年のPhase I完了は、対象区域の構造物を政府が取得したことを意味するが、九龍城寨全体がその日消えたわけではない。

建物が空になっても、都市景観としての巨大な構造物はまだ存在する。

この時間差があるため、1991年や1992年の写真には、すでに退去が進んでいても建物群自体は残っている状態が写る。

九龍城寨の「最後の日」を一つに決めることが難しいのはこのためである。

撤去決定の日。

最後の住民が去った日。

主要なclearanceが完了した日。

最後の建物が解体された日。

それぞれ別の意味を持つ。

解体は、密集建築だからこそ順序が重要だった

九龍城寨の建物群は、普通の街区のように一棟ずつ十分な隙間を持って建っていたわけではない。

隣棟同士が接し、増築部が重なり、内部通路がつながっている。

そのため、ある建物だけを先に壊すと、隣接部分へ影響する可能性がある。

構造の安全を確認しながら、どの部分から撤去するかを決める必要がある。

さらに、解体作業員や重機が入るためのアクセスも、もともとの狭い街路では十分ではない。

住民が暮らしていた都市を、解体工事現場へ変えるための準備が必要になる。

これは、建築物が複雑であるほど時間を要する。

九龍城寨の建築的な特殊性は、成立過程だけでなく、消滅過程にも影響した。

1994年4月という「終点」は、行政プロセスの最後だった

Government Records Serviceが示す1994年4月の完全解体は、一連のclearance 過程の物理的な終点である。

だが、補償case fileはその後も残る。

GRSのHKRS1255には、1990年代後半やさらに後年まで続くファイルが含まれている。

これは、建物がなくなれば行政案件も同時に消えるわけではないことを示す。

土地は空になる。

しかし、補償、権利、記録は残る。

九龍城寨の撤去は、物理的には1994年に終わっても、行政上の後処理はそれより長く続いた。

この時間差も、都市撤去の現実を表している。

建物の明け渡し後、ようやく「解体」が始まる

住民が退去したからといって、すぐに全建物を壊せるわけではない。

建物内部には残置物がある。

各棟の構造状態も異なる。

密集して接続された建物を、安全に順番を決めて撤去する必要がある。

九龍城寨の建物群は、一棟ずつ独立した街区ではない。

隣棟と接触し、通路や増築部分でつながっている。

解体そのものにも技術的な難しさがあった。

さらに、解体中には歴史的遺構の調査も必要になる。

だから最後の建物が空になってからも、都市が物理的に消えるまでには時間がかかった。

解体は1994年4月までに完了した

香港政府檔案處の2017年年報は、九龍城寨が1994年4月までに完全に解体されたと説明している。[3]

これで、1960年代以降に急速に形成された巨大な高密度建築群は姿を消した。

1987年の撤去決定から、約7年である。

この7年間を単に「取り壊し期間」と呼ぶと短すぎる。

前半の中心は、調査と補償と再収容だった。

後半で、明け渡しと解体が進む。

九龍城寨の終焉は、行政・住宅・土地・補償・建築撤去が順番に重なる長期プロジェクトだった。

なぜ1987年にはできて、それ以前にはできなかったのか

ここまでの流れを振り返ると、1987年の撤去決定を可能にした条件が見えてくる。

第一に、中英関係の変化。

1984年の中英共同声明により、香港全体の将来について大きな政治枠組みが定まった。

長年、城寨撤去を外交問題化させていた不確実性が以前より小さくなった。

第二に、香港政府の行政能力。

数千~1万世帯規模の再収容を進めるには、大量の公営住宅供給が必要になる。

1987年立法局で公共住宅programmeへの影響が議論されたことは、その規模を示している。

第三に、特殊な補償制度。

通常のsquatter clearanceと同じ基準ではなく、九龍城寨専用のpragmatic approachが必要とされた。

第四に、長期的な調査と個別処理。

claimant office、Assessment Review Board、個別case fileなど、多数の行政資源が投入された。

つまり、1987年に突然政治的意思が生まれただけではない。

撤去を実行できる制度・住宅・補償・政治条件が揃った。

「危険だから壊した」だけでは説明できない

九龍城寨には多くの都市問題があった。

過密。

排水。

消防。

建築安全。

衛生。

違法増築。

これらは撤去理由の重要な背景である。

しかし、それだけなら1960年代や1970年代に全面撤去してもよかったはずである。

実際にはできなかった。

問題が知られていても、管轄問題と再収容・補償の困難が残っていたからである。

したがって1987年の撤去は、「危険性が限界に達したから」だけではない。

政治条件と行政実行能力がようやく一致した結果だった。

城寨の終わりは「一晩で消えた事件」ではない

九龍城寨は、その見た目が強烈なため、最後も劇的な出来事として記憶されやすい。

だが、実態はむしろ地味で長い。

住民名簿を作る。

書類を確認する。

権利を審査する。

補償額を提示する。

異議を受け付ける。

住宅を確保する。

移転を進める。

残った住民と交渉する。

建物を取得する。

解体する。

この行政の積み重ねによって、巨大都市は少しずつ空になった。

九龍城寨の「解体」は、建物を壊す瞬間だけではない。

その前に行われた何年もの権利整理と人の移動まで含めて、一つのclearance 過程だった。

そして、解体中に別の九龍城寨が現れた

建物群を撤去する途中、1847年の城寨に由来する遺構が確認された。

南門と東門の基礎。

石額。

旧衙門。

高密度都市を消す過程で、その下に埋もれていた清朝期の城寨が再び姿を現した。

ここから先は、撤去政策ではなく保存政策の話になる。

何を残したのか。

なぜ南門と旧衙門が保存されたのか。

現在の九龍寨城公園は、昔の街路を再現しているのか。

Google Mapsで見える現在の公園と、解体前の巨大建築群をどう区別すべきなのか。

それがCASE060-08のテーマになる。

九龍城寨の最後は、「消滅」で終わらない。

建物を消したあと、何を歴史として残すかという第二の選択が始まった。


FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Hong Kong Legislative Council, Official Report of Proceedings, 18 February 1987, written answer “Clearance of Kowloon Walled City.”
  2. [2] Hong Kong Legislative Council, Official Report of Proceedings, 2 December 1987, discussion of Kowloon Walled City clearance and rehousing criteria
  3. [3] Hong Kong Government Information Services, “Survey Office for Walled City Claimants,” 5 April 1987
  4. [4] Hong Kong Legislative Council, Official Report of Proceedings, 4 December 1991, Assessment Review Board for Kowloon Walled City compensation
  5. [5] Hong Kong Government Information Services, “Walled City Phase I Clearance Completed,” 8 January 1992
  6. [6] Hong Kong Legislative Council, Official Report of Proceedings, 17 November 1993, “Compensation due to Walled City residents.”
  7. [7] Hong Kong Government Records Service, HKRS1255 “Case Files Relating to Claimants of Kowloon Walled City Clearance.”
  8. [8] Hong Kong Government Records Service, Annual Report 2017, “Kowloon Walled City.”
  9. [9] Hong Kong Antiquities and Monuments Office, “Former Yamen Building of Kowloon Walled City, Kowloon Walled City Park.”
  10. [10] Hong Kong Antiquities and Monuments Office, “Remnants of the South Gate of Kowloon Walled City, Kowloon Walled City Park.”
  1. 01 九龍城寨とは何だったのか?|巨大高密度都市の成立から解体まで
  2. 02 なぜ九龍城寨は「統治の隙間」に残ったのか?|1847年の城塞から戦後香港まで
  3. 03 九龍城寨はなぜ巨大な建築群になったのか?|無秩序な増築と高密度化の構造
  4. 04 九龍城寨で人々はどう暮らしていたのか?|住居・工場・店・診療所の日常
  5. 05 九龍城寨は本当に「無法地帯」だったのか?|犯罪・警察・行政介入の実像
  6. 06 九龍城寨の水・電気・排水・衛生はどう成り立っていたのか?|非公式都市インフラの実態
  7. 07 なぜ九龍城寨は解体されたのか?|1987年の決定から補償・再収容・撤去まで
  8. 08 九龍城寨の跡地には何が残ったのか?|南門・衙門・公園と現在

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