THE QUESTION
九龍城寨とは何だったのか? | 巨大高密度都市の成立から解体まで
香港の九龍城に、かつて「九龍城寨」と呼ばれる場所があった。
写真だけを見ると、まず目に入るのは異様な密度だ。ほとんど隙間なく積み重なった建物、窓の外まで張り出す看板や配管、昼でも暗い通路、複雑につながる階段と廊下。都市なのか、巨大建築なのか、境界すら曖昧に見える。
その外見から、九龍城寨は長く「無法地帯」「犯罪都市」「誰も管理しない街」として語られてきた。
だが、史料を追っていくと、その説明だけでは足りない。
九龍城寨は、最初から無秩序なスラムとして生まれたわけではない。1847年に清朝が築いた軍事拠点を出発点とし、19世紀末の香港をめぐる国際的な境界問題、戦争、戦後の人口流入、土地利用規制の弱さ、啓徳空港による高さの制約、行政による選択的な介入、そして住民や事業者による建物の増築が重なった結果、20世紀後半に世界でも類例の少ない高密度市街へ変化していった。
そして1987年、香港政府は城寨の撤去と跡地の公園化を決定する。解体は1990年代前半に進み、1994年にはかつての高密度市街は姿を消した。
つまり九龍城寨とは、「法がなかった場所」というより、複数の制度、政治的制約、行政サービス、非公式な経済、建築行為が一つの小さな土地に重なった結果として生まれた都市だった。
このCASEでは、その成立から消滅までを8本の記事で追う。最初のこの記事では、九龍城寨がどのような場所だったのか、その全体像を整理する。
1847年、九龍城寨は軍事拠点として築かれた
九龍城寨の原点は、清朝末期の沿岸防衛にある。
香港古物古蹟辦事處によれば、清政府は1847年、九龍半島側の防衛を強化するため、この場所に兵士数百人を収容する城塞都市を築いた。城壁は大きな花崗岩で造られ、6つの見張り塔と4つの城門を備えていた。南門が正門だった。
現在「城寨」という言葉から想像される、密集したコンクリート建築群とはまったく異なる姿である。
当時の九龍城寨は、軍事・行政機能を持つ明確な囲郭都市だった。
政府檔案處の資料では、石壁に囲まれた旧城域はおよそ700フィート×400フィート、約6.5エーカーと説明されている。後世の巨大都市イメージからすると意外なほど小さい。のちに数万人規模の人口を抱える場所の出発点は、もともとこの限られた軍事区画だった。
城内には、九龍司巡検の役所である衙門も置かれた。現在も残る旧衙門は三進二院式の建物で、中進が公堂、後進が官邸として使われていた。つまり九龍城寨には、最初から行政機能を担う建物が存在していた。
重要なのは、後世の「統治されない都市」というイメージとは逆に、その出発点が国家の防衛と行政のために計画された空間だったことである。
九龍城寨の歴史は、秩序のない土地に突然都市が生まれた話ではない。
むしろ、明確な軍事・行政拠点として造られた場所から、制度の意味が少しずつ変質していく過程だった。
19世紀末、城寨だけが特殊な存在になった
転機は19世紀末に訪れる。
1898年、イギリスと清朝の間で新界租借に関する条約が結ばれた。九龍半島北部から新界にかけて広い土地がイギリス側の統治下へ組み込まれる一方、九龍城寨は特殊な扱いを受ける場所となった。
その後、1899年には清朝の官吏や兵士が城寨を離れる。
旧衙門は軍事・行政施設としての役割を失い、宗教団体、老人施設、孤児・寡婦のための施設、学校、診療所など、異なる用途に使われていった。
ここから、九龍城寨の性格は大きく変わる。
形式上の国際関係、現地で実際に行われる行政、住民側の認識が完全には一致しない状態が長く続いたからである。
ただし、この点は単純に「中国もイギリスも放棄した」と表現すると正確ではない。
2024年に公文書を分析した研究では、戦後の香港政府は城寨を完全に放置したのではなく、境界管理、建物の高さ、警察活動、消防、郵便、水供給、公衆衛生などについて、政治的制約の中で選択的に介入していたことが示されている。
一方で、通常の香港市街地と同じ建築・土地利用規制が一貫して適用されたわけでもなかった。
この「完全統治でも完全放置でもない」という状態が、のちの九龍城寨を理解する重要な前提になる。
何が香港政府の権限として実行され、何が政治的に避けられ、どこから住民側の非公式な仕組みが入り込んだのか。九龍城寨を理解するには、「支配していたか、していなかったか」という二択では足りない。
この制度上の経緯はCASE060-02で詳しく扱う。
城壁が消えても、「城寨」は残った
九龍城寨という名前には「Walled City」、つまり城壁に囲まれた都市という意味がある。
しかし、20世紀後半の有名な写真に写っている巨大な建築群には、すでに本来の城壁は存在していなかった。
香港古物古蹟辦事處によれば、第二次世界大戦中の日本占領期、城壁は完全に撤去され、その石材は啓徳空港の拡張工事に利用された。
ここで、物理的な「城」はほぼ消えた。
にもかかわらず、元の城壁が囲っていた土地そのものは、政治的・行政的に特殊な場所として残り続けた。
これは九龍城寨の歴史で非常に重要な点である。
後年の九龍城寨は、古い城壁の内側に新しい建物が詰め込まれた都市ではない。
城壁が失われたあと、その旧城内に相当する限られた土地へ建物が密集し、上方向へ増殖していった都市である。
かつて境界を示していた石壁はなくなったが、その土地の「境界」は別の形で残った。
公文書を用いた近年の研究では、香港政府が道路や公共住宅などを通じて城寨の水平的な拡大を抑え、その範囲を明確な一画に限定していたことが示されている。
つまり、規制が弱かったからといって、都市がどこまでも外へ広がったわけではない。
むしろ外側の輪郭が固定されていたからこそ、内部で増える住宅需要や商業需要が立体方向へ押し込まれた。
結果として、横へ自由に拡大できない土地の中で人口と建築需要が増えることになった。
その圧力は、やがて上方向へ向かう。
戦後、城寨は高密度都市へ変わっていった
第二次世界大戦後、九龍城寨には住宅や事業所が増えていった。
現在残る公文書研究によれば、本格的な鉄筋コンクリートの多層建築が急増するのは1960年代以降だった。
1972年の行政資料を分析した研究では、4階以上の多層建築が本格的に建ち始めたのは1963年ごろとされる。わずか10年ほどで、城寨の住民の大部分が多層建築に住む状況へ変化していた。
同資料では、1972年時点で住民の約71%が4階を超える多層建築に住んでいたとされる。
これは、現在よく知られる九龍城寨の姿が何世紀も続いていたわけではないことを意味する。
巨大な高密度建築群としての九龍城寨は、主に戦後、とりわけ1960年代以降に急速に形成された比較的新しい都市景観だった。
都市は、平面的に広がるのではなく、既存の建物の上へ、隣へ、さらにその上へと積み重なっていった。
1993年に発表された都市計画研究は、解体直前の九龍城寨について、1ヘクタールあたり約1万8000人という極端な高密度、最大14階規模の建物、エレベーターを持たない高層構造、そして建物内部と廊下が複雑に連結した空間を特徴として挙げている。
ただし、九龍城寨全体が最初から一棟の巨大建築として設計されたわけではない。
独立して建てられた多数の建物が、増築や隣接建物との接続を繰り返した結果、一体化して見える巨大な建築群になった。
この違いは重要である。
完成形を先に設計した建築物ではなく、個別の建築行為が長期間重なって形成された都市だったからだ。
そのため内部には、通常の道路と建物という関係だけでは説明しにくい空間が生まれた。
地上の細い路地だけでなく、建物内の廊下や階段、隣接棟を結ぶ経路、屋上などが移動経路として使われるようになった。
九龍城寨が「巨大な一つの建物」のように見える理由は、この立体的な接続にある。
その建築構造はCASE060-03で詳しく追う。
何人が暮らしていたのか
九龍城寨については「3万人」「5万人」など、さまざまな人口数字が紹介される。
しかし、時期の違う数字を一つにまとめると実態を見誤る。
公文書を基にした研究では、1971年3月9日の国勢調査で確認された人口は1万4人だった。
内訳は男性5048人、女性4956人。Living Quartersは2185だった。
一方、同じ研究が紹介する後年の行政推計では、1971年以降に建物が増えたことを踏まえ、約2万7000人という推計も使われていた。資料では、563棟の建物と各階の平均人数を基にした推計として説明されている。
つまり、九龍城寨の人口は固定された一つの数字ではない。
建物の増加とともに、短期間で大きく変化した。
後年にはさらに高い人口推計も知られるようになるが、このCASEでは数字を紹介するとき、必ず「何年の、どの資料の数字なのか」を分けて扱う。
人口密度についても同じである。
1993年研究の1ヘクタールあたり1万8000人という数字は、研究対象となった解体直前期の空間構造を表すための値であり、1847年から1994年まで常に同じ密度だったという意味ではない。[4]
九龍城寨では、人口、建物棟数、階数、事業所数が時期によって大きく変わった。
一枚の有名写真を見て、その姿が城寨の全歴史を通して続いていたと考えると、成立過程を見失う。
ここで重要なのは、正確な最大人口を一つに決めることではない。
数ヘクタール規模の限られた土地に、少なくとも数万人規模の人々と膨大な住居・事業所が重なっていたという都市構造そのものだ。
そこには「犯罪」だけではなく日常生活があった
九龍城寨を紹介する映像や記事では、麻薬、賭博、売春、秘密結社、無許可診療などが強調されることが多い。
実際、違法活動や犯罪が存在したこと自体は否定できない。
だが、それだけで城寨全体を説明すると、そこに暮らしていた大多数の人々の日常が消えてしまう。
城寨には住宅があり、商店があり、小規模な工場があり、飲食店があり、学校や宗教施設があり、医療や歯科診療を行う場所もあった。
1975年の行政資料では、医科24、歯科64のクリニックが確認されている。これは「城寨の全期間を通じた総数」ではなく、その時点の行政上の確認数だが、医療サービスが城寨の経済と生活の一部だったことは分かる。
公的サービスも完全に存在しなかったわけではない。
近年の公文書研究では、郵便配達、給水用standpipe、警察活動、消防、電気、電話、ゴミやし尿の回収、公衆便所、井戸の消毒、感染症対応など、複数の行政・公共サービスが何らかの形で城寨に関与していたことが示されている。
ここで重要なのは、「サービスがあった」ことを理由に普通の市街地だったと考えないことだ。
一方で、すべてが通常の香港市街と同じ基準で管理されていたわけでもない。
建築計画の承認、営業許可、医療資格など、通常なら行政が強く統制する領域で例外や黙認が存在した。
つまり九龍城寨では、行政の存在と制度の穴が同時に存在していた。
この中間的な状態こそが、九龍城寨を特殊にした。
「完全な無法地帯」でもなければ、「普通の行政区画」でもない。
通常の規制が弱い部分と、行政が介入する部分が同時に存在していた。
住民の日常はCASE060-04、犯罪と行政介入の関係はCASE060-05、インフラと衛生はCASE060-06で分けて検証する。[1]
「警察も政府も入れなかった」は正確ではない
九龍城寨について最も広く知られたイメージの一つが、「警察すら入れない場所」だったという説明である。
しかし、公文書に基づく研究を見る限り、これを文字どおり受け取ることはできない。
警察は城寨で活動していた。
消防も通常の消火活動を行っていた。
行政部門は衛生、給水、廃棄物処理などに関与していた。
建物の高さについても、啓徳空港の航空安全に関わるため、政府は無関心ではなかった。
一方で、一部の許認可法令は通常どおりには執行されなかった。
建物計画の事前承認も弱かった。
無登録の医師や歯科医も存在し、行政は生命に明白な危険がある場合を除き、一定期間これを黙認していたことが資料に残る。
したがって、九龍城寨の特徴は「法がゼロ」だったことではない。
何を執行し、何を執行しないかが通常市街とは異なっていたことである。
これは単なる言葉の修正ではない。
「政府不在」と考えると、なぜ給水設備が存在し、なぜ郵便が届き、なぜ消防が活動し、なぜ建物高さだけは問題にされたのか説明できなくなる。
九龍城寨は、統治が消えた都市ではなく、統治が断片化した都市だった。
その断片化の仕組みを理解することが、後続の記事全体の土台になる。
なぜ、あれほど異常な密度まで成長できたのか
九龍城寨の外観だけを見ると、「無計画だったから」と説明したくなる。
それは一部では正しい。
通常の建築承認や土地利用規制が十分に機能しない状況は、多層化と増築を促した。
しかし、それだけではない。
城寨は横方向へ無限に広がれる場所ではなかった。
元の城寨に由来する境界の中へ都市機能が集中した。
さらに、近くには啓徳空港があり、航空安全のため建物の高さには制約があった。
つまり九龍城寨は、「横へも自由に広がれず、上へも無制限には伸ばせない」空間だった。
この条件は重要である。
もし土地が横方向に拡大できれば、建物密度を下げながら市街地を広げることもできる。
逆に高さを無制限に伸ばせれば、高層タワーのような形へ向かう可能性もある。
九龍城寨はそのどちらでもなかった。
狭い平面の中で、一定の高さまで建物を詰め込む方向へ発展した。
その小さな立体的な箱の中に、住宅、店舗、工場、診療所、通路、階段、設備が重なっていった。
現代の計画都市のように、道路を先に引き、用途地域を分け、建物ごとにセットバックや採光条件を整えるのではない。
必要が発生するたびに個別の建物が建ち、改修され、接続される。
その結果、街路と建物、共有空間と私有空間の区別が曖昧な立体都市が形成された。
九龍城寨の異様さは、単純な「無秩序」ではなく、複数の制約の中で人々が空間を最大限利用し続けた結果でもある。
1987年、撤去が正式に決まった
城寨の高密度化は永遠には続かなかった。
1987年、香港政府は九龍城寨を撤去し、跡地を公園にする方針を正式に発表した。
この決定は、単に古い建物を取り壊す都市再開発ではなかった。
そこには多数の住民、事業者、権利関係、補償問題が存在していた。
政府の議会資料では、当初の予備調査で約1万世帯規模の再収容が必要になると見込まれていた。
その後、補償や移転をめぐる交渉が続く。
したがって「1987年に撤去が決まり、すぐ消えた」という理解も正確ではない。
決定から実際の解体完了までには数年を要した。
住民の移転、事業補償、権利確認、個別の異議、建物の明け渡しと撤去が段階的に進められた。
政府檔案處には、1980年代後半から1990年代にかけての補償請求者に関する多数の記録が残っている。
九龍城寨の最後は、一度の解体工事で終わったのではない。
長い行政処理と交渉の末に、都市そのものが少しずつ空になっていった。
1990年代に入ると建物の撤去が本格化し、香港政府資料では解体は1994年までに完了したとされる。
政府檔案處の2017年年報も、九龍城寨が1994年4月までに完全に解体されたと説明している。[5]
長く香港の都市景観の中で異物のように存在した高密度建築群は、ここで物理的に消滅した。
撤去と補償の具体的な過程はCASE060-07で扱う。
解体によって、1847年の城寨が再び姿を現した
皮肉なことに、20世紀の建築群を取り壊す過程で、それよりはるかに古い九龍城寨の痕跡が再発見された。
解体時に行われた考古学調査では、かつての南門と東門の基礎が確認された。
南門跡では、「南門」と「九龍寨城」の文字が刻まれた石額も見つかった。
1847年に造られた城塞の痕跡が、約150年後、巨大な高密度都市の下から現れたことになる。
香港政府は南門遺構を現地保存することを決めた。
旧衙門も解体を免れ、修復された。
高密度な建物群が完全に姿を消したあと、跡地には九龍寨城公園が整備され、1995年12月22日に一般公開された。
現在の公園は約3万1000平方メートルで、清朝初期の江南庭園を意識した設計になっている。
ここで注意すべきなのは、現在の公園が解体前の城寨内部をそのまま保存した場所ではないことである。
かつての路地や建物配置が残っているわけではない。
残されたのは、南門遺構や旧衙門など一部の歴史的構造物と、城寨が存在した土地そのものだ。
南門遺構と旧衙門は1996年に法定古蹟となった。
現在の跡地と保存遺構についてはCASE060-08で詳しく見る。
「無法地帯」という言葉では説明できない都市
九龍城寨が今も強い関心を集める理由の一つは、その見た目にある。
巨大な壁のような建物群は、現代の都市計画から外れた世界に見える。
そのため、九龍城寨はしばしばディストピアやサイバーパンクの原型のように扱われる。
しかし、史料に基づいて見ると、本当に興味深いのは外見だけではない。
九龍城寨では、通常なら一つの行政制度の下で整理されるはずの要素が分離していた。
土地の境界は管理される。
建物の高さにも航空安全上の制約がある。
警察や消防は活動する。
水や郵便などのサービスも存在する。
一方で、通常の建築承認や一部の営業規制は十分に適用されない。
その隙間で、住民、地主、建築業者、商店、工場、診療所などが独自に都市を更新していく。
この組み合わせが、九龍城寨を作った。
だから九龍城寨を理解するとき、「誰も管理していなかった」と結論づけると、多くの事実が説明できなくなる。
逆に「政府が実質的に普通の街と同じように管理していた」と言っても、あの都市形態は説明できない。
九龍城寨は、その中間にあった。
制度が完全に消えた場所ではなく、制度が部分ごとに異なる強さで作用した場所だった。
この見方に立つと、写真の印象も変わる。
無秩序な建築群は、単なる行政失敗の残骸ではなく、特殊な政治条件の下で土地と建物を使い尽くした結果として見えてくる。
暗い通路も、屋上動線も、密集した住居も、それぞれが孤立した奇景ではない。
限られた面積、増える人口、弱い建築規制、高さ制限、事業活動、行政サービスという複数の条件が同時に作用した結果である。
なぜ世界中で九龍城寨のイメージが残ったのか
九龍城寨の建物は1994年までに消えた。
それでも、その存在感はむしろ解体後に強まった。
理由の一つは、解体直前に撮影された大量の写真や研究記録が、他の都市にはほとんどない空間を可視化したことにある。
外から見ると巨大な壁。
中へ入ると細い通路。
上を見上げても空がほとんど見えない場所。
一方で屋上へ出れば、住民の生活空間と航空機の接近経路が同じ視野に入る。
この極端な対比が、九龍城寨を現実の都市でありながら架空世界のように見せた。
しかし、このCASEでは「奇妙な景観」をゴールにはしない。
重要なのは、その景観を生み出した仕組みである。
なぜそこだけ制度が違ったのか。
なぜ横ではなく上へ増えたのか。
なぜ犯罪のイメージが強い一方で、普通の家庭生活や商売が成立したのか。
なぜ政府サービスが存在するのに、無許可建築や無登録診療が残ったのか。
そして、なぜ1987年まで大規模な撤去が行われなかったのか。
九龍城寨の魅力は「常識外れの街だった」という驚きだけではない。
都市を成立させる制度の一部を外したとき、別の仕組みがどのように代替し、どこに限界が現れるのかを実例として見ることができる点にある。
九龍城寨は、一つの巨大な「SYSTEM」だった
九龍城寨の歴史を一本の流れとして見ると、都市の姿が段階的に変化していることが分かる。
1847年、清朝の軍事・行政拠点として城壁都市が造られる。
19世紀末、香港をめぐる境界問題の中で特殊な政治的位置に置かれる。
1899年、清朝の官吏と兵士が離れる。
日本占領期には城壁が撤去される。
戦後、人と建物が増え、1960年代以降に多層化が加速する。
1970年代から1980年代には、限られた土地の上に極端な高密度都市が成立する。
1987年、撤去が正式決定される。
1994年、建物群の解体が完了する。
1995年、跡地に九龍寨城公園が開園する。
そして1996年、南門遺構と旧衙門が法定古蹟となる。
この約150年の変化を、「犯罪都市の盛衰」とだけ捉えるのは狭すぎる。
そこには国際政治、土地境界、行政、建築、人口、経済、公共サービス、住民生活、航空安全、再開発、文化財保存が絡んでいる。
一つの要因で説明できないからこそ、九龍城寨はREAL CASE FILEで「SYSTEM」として扱う価値がある。
次の記事では、まずその根本にある問いを掘り下げる。
なぜ、香港の都市の中に九龍城寨だけが「統治の隙間」のような状態で残ったのか。
1847年の城塞建設から1898年・1899年の転換、そして戦後香港まで、制度と境界の歴史を追う。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] Hong Kong Antiquities and Monuments Office, “Remnants of the South Gate of Kowloon Walled City, Kowloon Walled City Park.”
- [2] Hong Kong Antiquities and Monuments Office, “Former Yamen Building of Kowloon Walled City, Kowloon Walled City Park.”
- [3] Lawrence W. C. Lai, “Kowloon Walled City: A Case of Land Administration of a Disputed Territory,” Land 13(12), 2024
- [4] Shunichi J. Watanabe and Masahiro Ibayashi, “Spatial Structure of the Kowloon Walled City Slum, Hong Kong,” Journal of the City Planning Institute of Japan, Vol. 28, 1993
- [5] Hong Kong Government Records Service, Annual Report 2017, Kowloon Walled City archival holdings overview
- [6] Hong Kong Leisure and Cultural Services Department, “Design of the Park,” Kowloon Walled City Park
- [7] Hong Kong “Fun in 18 Districts,” “Kowloon Walled City Park.”
九龍城寨|巨大密集都市はどう生まれ、なぜ消えたのか 第1回 全8回 全8回を見る
- 01 九龍城寨とは何だったのか?|巨大高密度都市の成立から解体まで
- 02 なぜ九龍城寨は「統治の隙間」に残ったのか?|1847年の城塞から戦後香港まで
- 03 九龍城寨はなぜ巨大な建築群になったのか?|無秩序な増築と高密度化の構造
- 04 九龍城寨で人々はどう暮らしていたのか?|住居・工場・店・診療所の日常
- 05 九龍城寨は本当に「無法地帯」だったのか?|犯罪・警察・行政介入の実像
- 06 九龍城寨の水・電気・排水・衛生はどう成り立っていたのか?|非公式都市インフラの実態
- 07 なぜ九龍城寨は解体されたのか?|1987年の決定から補償・再収容・撤去まで
- 08 九龍城寨の跡地には何が残ったのか?|南門・衙門・公園と現在