THE QUESTION
少なくとも11の傷は最期をどこまで語れるのか? | Bosworthでの死を法医学から読む
STORY SO FAR
前回「なぜ「99.999%」本人と言えたのか?|DNA・系図・年代測定を統合した同定」で確認した論点を受け、この回では少なくとも11の傷は最期をどこまで語れるのか? | Bosworthでの死を法医学から読むを扱う。
CASE053-05では、Skeleton 1がRichard III本人であるという結論が、DNA一つではなく、考古学・骨学・年代測定・系譜・遺伝学を統合した結果であることを確認した。[1]
その統合モデルの中で、周死期損傷は本人説を支持する一つの証拠だった。
Richard IIIは1485年8月22日、Bosworthの戦いで死亡した。[10]
では、骨格に残った傷から、その最期をどこまで再現できるのか。
University of Leicesterと2014年のLancet論文が確認したのは、少なくとも11の周死期損傷である。
内訳は頭蓋に9か所、頭蓋より下の骨格に2か所。
しかし「11の傷がある」という数字だけで、11回の攻撃が順番に再現できるわけではない。
骨は傷の一部しか残さない。
刃が皮膚や筋肉だけを切った傷は消える。
打撃が臓器を破壊しても骨へ痕跡を残さないことがある。
そして今回確認された傷には治癒反応がないため、死の直前に受けたものと、死亡直後に遺体へ加えられたものを骨だけで完全に区別することはできない。
さらに、傷同士が重なっていないため、どれが先でどれが後だったかも決められない。
したがって、Richard IIIの最期を読むときの基本姿勢は、
「骨に残った事実」と「そこから最も合理的に推定できる場面」を分ける
ことである。
結論を先に言えば、骨格はRichardが頭部に集中的な攻撃を受け、そのうち頭蓋底の少なくとも二つが致命傷になり得たことを強く示す。
一方、骨盤と肋骨の傷は、甲冑を着た戦闘中には加えにくい位置にあり、死後または甲冑を外された後に加えられた可能性が高い。
ただし、「誰が」「何回目に」「どの武器で」「どの姿勢のRichardへ」攻撃したかを、骨だけから映画のように再現することはできない。

傷の順序、攻撃者数、特定武器を断定する図ではない。
まず「周死期損傷」とは何か
研究チームは、骨の傷に治癒の痕跡がなく、破断面が生きた骨に近い状態で壊れた特徴を持つものをperimortem trauma、周死期損傷と判断した。
ここでいう「周死期」は、死亡の瞬間だけを意味しない。
死の直前から死後まもない時期までを含む。
生きた骨は水分と有機成分を含み、乾燥して長期間経過した骨とは割れ方が異なる。
そのため、墓の中で何百年も後に折れた骨と、死亡前後に新鮮な状態で傷ついた骨をある程度区別できる。
しかし、骨の治癒が始まる前に死亡した場合、
「致命傷になる数秒前の攻撃」
と
「死亡直後に遺体へ加えられた攻撃」
の境界は骨には残らない。
University of Leicesterが繰り返し強調しているのはこの点である。
少なくとも11の傷はすべて死亡前後の短い時間帯に生じたと考えられる。
だが、その順序は決められない。
これはRichard IIIの死亡場面を考えるうえで最も重要な制約の一つである。
11の傷は「見つかった最低数」でしかない
Lancet論文では、頭蓋に9、頭蓋より下に2、合計11の周死期損傷が報告された。
University of Leicesterの一般向け解説では「at least eleven injuries」と表現されている。
「少なくとも」である理由は単純だ。
骨へ届かなかった傷は残らない。
刀剣が皮膚や筋肉だけを切った場合。
打撃で内臓が損傷した場合。
軟部組織に刺創があっても骨に接触しなかった場合。
そうした傷は500年以上後の骨格からは見えない。
したがって、Skeleton 1が受けた攻撃回数を11回と断定することはできない。
骨で確認できる最小数が11である。
同じ一撃が複数の骨に痕跡を残す場合もあれば、一撃が骨へ一切痕跡を残さない場合もある。
「傷の数」と「攻撃の数」は同義ではない。
頭部に9か所――攻撃が集中していた
11のうち9は頭蓋に集中する。
これはRichardの死亡状況を考えるうえで大きな特徴である。
Lancet論文は、頭部の複数損傷が後期中世の武器と整合するとした。
University of Leicesterは、複数種の刃物による攻撃と考えられ、複数人から攻撃された可能性を示すとしている。
ただし、骨から攻撃者の人数を直接数えることはできない。
複数の異なる武器痕があることは、一人が複数武器を使った可能性も理論上は残す。
したがって「複数人に囲まれた」という解釈は、骨格だけでなくBosworthに関する歴史記録と組み合わせた推定である。
それでも、頭蓋に繰り返し鋭器損傷が集中しているという観察自体は動かない。
傷1~3――頭頂後方をかすめた刃
University of Leicesterが傷1~3として示すのは、頭蓋の左後上方から頭頂部にかけての浅い刃痕である。
鋭い刃が頭蓋表面をかすめ、骨の表層を削り取るような小さな傷を残している。
傷の内部には細かなstriations、線条痕が見られた。
とくに傷1と傷2の線条痕には共通した特徴があり、同じ刃で作られた可能性がある。
University of Leicesterは、剣のような武器が候補になり得るとしている。
ここで重要なのは、「剣と断定」ではないことだ。
骨へ残った刃痕の形、方向、線条から、鋭い刃物が接触したことは分かる。
中世後期の戦場で使われた武器を踏まえれば剣は合理的候補だが、実物の武器が残って照合されたわけではない。
また、この浅い傷だけで死亡したとは考えにくい。
頭部への攻撃が複数回あったことを示す一群として意味を持つ。
傷4――頭頂部を貫く小さな穿孔
傷4は、頭頂部にある小さな穿孔性損傷である。
尖った鋭器が頭蓋へ入り、内側の骨を押し込むほどの力が加わっていた。
University of Leicesterは、rondel daggerのような先端の鋭い武器を例として挙げている。
rondel daggerは中世後期に用いられた短剣の一種で、甲冑の隙間を狙う用途とも関連する。
ただし、これも「使用武器はrondel daggerだった」と断定できるわけではない。
傷から推定できるのは、強い力を伴う尖った鋭器が頭蓋を穿孔したというところまでである。
この傷も深刻ではあるが、研究チームが最も明確な致命傷候補としたのは別の二つだった。
傷5――頭蓋底を大きく切り取った損傷
もっとも劇的な傷の一つが、後頭部から頭蓋底にかけて骨の一部が大きく切り取られた傷である。
University of Leicesterは、非常に鋭く大きな刃を相当な力で振るわなければ生じにくい損傷としている。
halberd、ハルバードのような武器と整合するが、特定の武器種を確定することはできない。
Lancet論文では、この頭蓋底損傷は致命傷になり得るものの一つと評価された。
頭蓋底の大きな欠損は、脳や重要な血管・神経構造へ甚大な損傷を与える。
University of Leicesterの解説でも、この種の損傷は致命的だったとされる。
ここで歴史記録と接点が生まれる。
Richard IIIの死については、頭部への強烈な攻撃を伝える後世の記録がある。
ただし、骨学はその記録に登場する特定の兵士や特定の武器を名指しで証明することはできない。
骨が支持するのは、
大きく鋭い刃による強力な頭蓋底損傷が存在し、致命的であり得た
という部分である。
傷6――頭蓋底から深く侵入した刃
もう一つの主要な致命傷候補が傷6である。
頭蓋底の下方から刃物が侵入し、頭蓋内部を深く通った。
University of Leicesterによれば、内部反対側に刃先が到達した痕跡があり、侵入深度は約10.5cmと推定された。
第一頸椎、atlasにも対応する切痕がある。
剣または類似の鋭い刃が候補とされる。
Lancet論文は、この傷と傷5の二つを、Richardの死亡原因として最も可能性が高い頭蓋損傷と評価した。
ここで「二つとも受けた後も長時間戦った」といった時間順序は分からない。
どちらが先だったかも不明である。
傷同士が重なっていないため、法医学的なsuperimpositionから順番を決めることができない。
言えるのは、両方とも死亡前後に生じ、どちらも単独で致命的になり得るほど深刻だったということだ。
「二つの致命傷」が意味すること
致命傷候補が二つあると、「どちらで死んだのか」と一つへ絞りたくなる。
しかし骨格だけではそれはできない。
第一の損傷で即死した可能性もある。
第一の損傷で致命的状態になった直後に第二の損傷を受けた可能性もある。
ほぼ同時に連続して受けた可能性もある。
死亡後ごく短時間に一方が加えられた可能性も、骨だけから完全には排除できない。
Lancet論文の結論が慎重なのはそのためである。
研究チームは「二つの頭蓋底損傷が最も可能性の高い死亡原因」としたのであって、秒単位の死亡シーケンスを再現したわけではない。
傷7・8――下顎と右頬
傷7は下顎右側、顎付近の切創。
傷8は右頬部を貫く矩形の穴で、短剣のような道具による穿孔が候補とされる。
University of Leicesterは、これらの一部が死亡後のsymbolic punishment blows、象徴的な「制裁」の傷であった可能性も示している。
ただし、ここは事実と解釈を分ける必要がある。
事実として観察されるのは、顎と頬への鋭器損傷である。
「侮辱目的だった」という部分は、傷の位置、歴史的背景、遺体の扱いに関する記録などを合わせた解釈である。
さらにLeicesterの解説は、顔面に傷がありながらも顔全体が識別不能になるほど破壊されてはいない点に注目する。
敗北した王の遺体を公衆へ示すなら、顔がRichard本人と認識できる状態であることに意味があった可能性がある。
これも合理的な歴史的推定ではあるが、骨だけで「顔を識別可能に保つ意図があった」と証明できるわけではない。
傷9――右下顎の細かなtool mark
傷9は右下顎に残る細かな線条痕である。
鋭い武器によってついたtool markと考えられている。
この傷も、特定の武器名や攻撃姿勢まで確定する材料ではない。
しかし頭部・顔面周囲に複数の鋭器損傷が存在することを補強する。
ここまでで、頭蓋・下顎を含む頭部周辺に9か所の周死期損傷が確認されている。
傷10――右第10肋骨の切創
頭部以外の一つが、右第10肋骨の切創である。
University of Leicesterは、鋭いknifeまたはdaggerのような刃によるものとしている。
この傷が重要なのは、戦闘時の甲冑との関係である。
15世紀後半の高位騎士が戦闘で用いるプレートアーマーなら、胴体背面は防護される。
その状態で肋骨へこのような刃が届くのは難しい。
したがって研究チームは、この傷が死亡後、あるいは甲冑や衣服を外された後につけられた可能性を考えている。
ここでも「確実に死後」と言うべきではない。
Lancet論文やUniversity of Leicesterの表現は、甲冑があったなら戦闘中には生じにくいためpost-mortem injuryの可能性が高い、という推論である。
傷11――骨盤を後方から貫く鋭器損傷
もっとも象徴的に語られやすいのが、骨盤の傷である。
刃は後方から右臀部方向へ入り、骨盤内部へ深く達した。
University of Leicesterは、剣や短剣のような鋭器によるものと説明している。
Lancet論文では、この骨盤損傷も解剖学的には致命傷になり得るものの一つに数えられた。
しかし同時に、研究チームはこれが戦闘中に加えられた可能性を低く見ている。
理由は甲冑である。
Richardが戦闘時にプレートアーマーを着ていたなら、臀部・骨盤周囲も一定程度保護される。
しかも他の所見からは、頭部ではhelmetがない一方、身体にはまだarmourが残っていた可能性がある。
そのため骨盤の深い刺創は、Richardが死亡した後、甲冑を外された状態で加えられた可能性が高いと解釈された。
University of Leicesterは、これをhumiliation、遺体への侮辱行為だった可能性とも結びつける。
ただし、その動機自体は骨に刻まれているわけではない。
なぜ「頭部は無防備、身体は甲冑あり」と推定されたのか
研究チームの死亡シナリオで重要なのが、helmetとbody armourの違いである。
University of Leicesterによれば、確認された頭蓋損傷は、15世紀後半に使われた適切なhelmetを装着したままでは生じにくい。
そのためRichardは戦闘中のどこかでhelmetを失った、あるいは外された可能性がある。
一方で、前腕や手に典型的なdefensive woundsが見られず、胴体の骨にも頭部ほど多数の戦闘損傷がない。
Lancet論文はこれを、身体にはまだ甲冑があったため、刃や打撃の多くを金属装甲が受け止めた可能性と結びつけた。
この推定を合わせると、
頭部だけが露出し、身体はなお甲冑で守られていた局面で、頭部へ集中的な攻撃を受けた
というシナリオが成立する。
これは骨格と当時の装備知識を統合した推定であって、戦場を直接観察した記録ではない。
防御創がない=抵抗しなかった、ではない
現代の刃物事件では、前腕や手に防御創があるかどうかが攻撃状況を考える手掛かりになる。
Richardの骨格には、明確な防御創が確認されなかった。
しかし、これを「Richardは抵抗しなかった」と解釈してはいけない。
第一に、手や前腕をプレートアーマーやガントレットが保護していた可能性がある。
第二に、軟部組織だけの防御創は骨には残らない。
第三に、実際の戦闘では武器を持っていた手の動き、馬上か地上か、周囲の人数など多くの要因がある。
したがって「防御創がない」という所見は、身体に甲冑が残っていた可能性を補強する材料にはなるが、抵抗行動の有無までは決められない。
何種類の武器が使われたのか
傷の形状から、研究チームは複数種類の鋭器を想定した。
剣のような刃。
短剣・rondel daggerのような尖った武器。
halberdのような大きな刃。
しかし、骨に残る傷は「武器の指紋」ではない。
刃幅、刃先形状、角度、力、骨へ当たった場所によって、異なる武器でも似た傷を作る場合がある。
逆に同じ武器でも当たり方が変われば違う痕跡になる。
University of Leicesterのforensic analysisではmicro-CTを用いて傷の三次元形状や内部損傷を詳しく観察した。
それでも「この一本のhalberd」「この形のsword」と個体レベルで特定したわけではない。
正確なのは、
「後期中世の戦場で使用された複数タイプの鋭利な武器と整合する」
という表現である。
micro-CTが加えた情報
Richard IIIの傷分析では、通常の目視だけでなく、whole-body CTとmicro-CTが使われた。
micro-CTは小さな骨試料を高解像度で撮影し、表面から見えにくい内部破壊や刃の軌跡を三次元的に確認できる。
たとえば傷6では、入口だけでなく、刃が頭蓋内部の反対側へ達した痕跡まで確認できた。
これによって侵入方向や深さの推定精度が上がった。
一方で、画像技術が高精細になっても、時間順序が自動的に分かるわけではない。
傷同士が重ならず、すべて治癒反応がない以上、CTでも「傷5が最初、傷6が二番目」とは決められない。
高精度な観察と、歴史的場面の完全再現は別物である。
最初に報じられた「矢じり」は傷ではなかった
発掘直後、脊柱付近から金属片が見つかり、「arrow-head、矢じりではないか」と報じられたことがある。
しかし後のX線分析で、これは矢じりではなく釘であることが確認された。
Roman activityに由来する可能性のある金属片で、埋葬とは無関係とされた。
この修正は、調査プロセスを見るうえで象徴的である。
発掘直後の仮説と、分析後の結論は同じではない。
Richard IIIという歴史的人物が候補になると、すべての異物や傷を戦闘物語へ結びつけたくなる。
しかし科学的調査では、合わない解釈は後から捨てる必要がある。
「馬から落ちた」「helmetを失った」はどこまで分かるのか
Richard IIIの最期については、馬を失い、地上で包囲されて死亡したという歴史的叙述が広く知られている。
骨格分析は、その全場面を直接証明するわけではない。
骨から比較的強く言えるのは、
- 頭部に多数の鋭器損傷がある
- その中に少なくとも二つの致命傷候補がある
- その頭蓋損傷は適切なhelmetを装着した状態では生じにくい
- 身体の他部位は頭部ほど損傷していない
- 前腕・手に骨性防御創がない
- 肋骨と骨盤の傷は、甲冑装着時には生じにくい
ということだ。
ここから、
「戦闘のある時点で頭部防護を失い、身体はなお甲冑で守られていた」
というシナリオはかなり合理的である。
しかし、helmetが落馬時に外れたのか、戦闘中に脱落したのか、敵に外されたのかは骨からは分からない。
「後頭部から斬られた」だけでも場面は決まらない
頭蓋底損傷の位置から、Richardが背後から攻撃されたと説明されることがある。
ただし、後頭部に傷があるからといって、必ず「逃げているところを背後から斬られた」とは限らない。
戦場では身体の向きが短時間で変わる。
屈んでいる、倒れかけている、膝をついている、馬から降りた直後など、同じ傷の方向を生む姿勢は複数考えられる。
武器の長さや攻撃者の高さも影響する。
法医学的には傷の位置と軌道を示せても、その瞬間の全身姿勢まで一意に逆算できない。
したがって、Richardの「勇敢な最期」や「逃走中の死」といった政治的・物語的評価を、傷の方向だけから決めることはできない。
遺体への侮辱という解釈
肋骨と骨盤の傷、そして一部の顔面損傷は、死後の遺体へ加えられた可能性が議論されている。
とくに骨盤の刺創は、甲冑を着た戦闘中には加えにくく、臀部方向から深く入っている。
University of Leicesterは、敗れた王へのsymbolic insult、侮辱行為だった可能性を示している。
この解釈は、Richardの遺体が衣服を剥がされて馬に載せられLeicesterへ運ばれたとする歴史記録とも接続される。
しかし、ここでも「骨が侮辱の意図を証明した」わけではない。
骨から分かるのは傷の位置、方向、周死期性。
甲冑知識から、戦闘中には生じにくいと推定できる。
歴史記録から、遺体が粗雑に扱われた可能性が補強される。
それらを合わせて「死後のhumiliation injury」という解釈が成立する。
証拠層を混ぜないことが重要である。
Lancet論文が示した死亡原因
2014年にオンライン公開されたLancet論文「Perimortem trauma in King Richard III: a skeletal analysis」は、現代法医学的手法で骨格全体を検討した。
研究では、9の頭蓋損傷と2の頭蓋外損傷を確認。
そのうち解剖学的に致命傷になり得るものは三つ――頭蓋底の二つと骨盤の一つ――とした。
ただし、骨盤損傷は甲冑を着用した戦闘中には生じにくいため、死後に加えられた可能性が高い。
その結果、最も可能性の高い死亡原因として残るのが二つの頭蓋底損傷である。
これは「一本のhalberdが確実にRichardを殺した」という結論ではない。
二つの深刻な頭蓋損傷のどちらか、あるいは双方が致命的だった可能性が高い、という結論である。
歴史記録と法医学は一致したのか
Bosworth後の記録には、Richardが戦場で激しく戦い、頭部への攻撃で倒されたという叙述がある。
一部ではWelsh soldiersやhalberdに言及する。
骨格は「頭部への強烈な鋭器攻撃」という大枠では、そうした記録と整合する。
しかし骨は特定の人物名や部隊名を示さない。
「Welsh infantrymanがこの一撃を与えた」といった個別の物語は、歴史記録側の情報である。
法医学が補強できるのは、
- 頭部へ複数回の鋭器攻撃
- helmetがない状態だった可能性
- 頭蓋底への致命的損傷
- 身体には甲冑が残っていた可能性
- 一部の傷は死後に加えられた可能性
という構造である。
歴史記録と骨格の一致は価値があるが、両者を一つの「完全再現映像」にしてはいけない。
検証ポイント|Richard IIIの11の傷
Q1. 骨格には何か所の傷があったのか?
少なくとも11の周死期損傷が確認された。Lancet論文では頭蓋に9、頭蓋より下に2と報告されている。
Q2. 11回攻撃されたという意味か?
違う。骨に残った最低11損傷であり、軟部組織だけの傷は残らない。また一撃が複数の痕跡を作る可能性もある。
Q3. 傷の順番は分かるのか?
分からない。傷同士が重ならず、いずれにも治癒反応がないため、どれが先だったか決定できない。
Q4. 死ぬ前の傷と死後の傷を区別できるのか?
骨だけでは完全にはできない。周死期損傷は死亡直前から死後まもない時期を含む。
Q5. 致命傷はどれだったのか?
Lancet論文では三つが解剖学的に致命傷になり得るとされた。二つは頭蓋底、もう一つは骨盤。ただし骨盤の傷は死後に加えられた可能性が高いため、最も可能性の高い死亡原因は二つの頭蓋底損傷である。
Q6. halberdで殺されたと確定したのか?
確定していない。大きな頭蓋底損傷はhalberdのような大型の鋭利な武器と整合するが、特定武器を確定することはできない。
Q7. helmetは着けていなかったのか?
少なくとも頭蓋に残る傷は、当時の適切なhelmetを着用した状態では生じにくい。戦闘のある段階でhelmetを失っていた可能性が高い。
Q8. 身体の甲冑も脱いでいたのか?
むしろ頭部以外の損傷が少なく、手や前腕に骨性防御創がないことから、身体にはまだ甲冑があった可能性がある。
Q9. 肋骨と骨盤の傷は死後のものか?
可能性が高いと解釈されているが、骨だけで絶対に死後と断定することはできない。甲冑を装着した戦闘中には生じにくい位置であることが主な根拠。
Q10. 骨盤の傷は遺体への侮辱だったのか?
その可能性が提案されている。ただし「侮辱」という動機は骨そのものから読める事実ではなく、傷の位置、甲冑、歴史記録を合わせた解釈である。
Q11. 脊柱に矢じりが刺さっていたのか?
いいえ。発掘初期に矢じりかもしれないとされた金属片は、後のX線分析で釘と確認され、埋葬とは無関係とされた。
Q12. 法医学でRichardの最期を完全再現できたのか?
できない。死亡原因候補と攻撃の性質はかなり絞れるが、攻撃順序、正確な姿勢、攻撃者、具体的な武器個体までは決められない。
骨が示したのは「最期の映像」ではなく、制約条件だった
Richard IIIの傷は、発見プロジェクトの中でも最も劇的な情報の一つだった。
頭部に集中する損傷。
頭蓋底を大きく切り取る刃。
10cmを超えて頭蓋内部へ達する鋭器。
甲冑を失った後に受けたと考えられる頭部攻撃。
そして、死後の遺体へ加えられた可能性のある骨盤・肋骨の傷。
これらを見ると、Bosworthの最期を一連の映像として再構成したくなる。
しかし、法医学的に価値があるのはむしろ「再現できない部分」を残したことだ。
傷の順序は分からない。
死亡直前と直後を骨だけでは完全に区別できない。
武器の種類は候補までしか言えない。
骨に残らない追加損傷があった可能性も高い。
それでも、死亡原因についてはかなり絞れる。
Richardは頭部に激しい鋭器攻撃を受けた。
その時、頭部防護は失われていた可能性が高い。
二つの頭蓋底損傷はいずれも致命傷となり得る。
身体の他部位が比較的守られていることは、甲冑がなお残っていた可能性と整合する。
骨盤の深い刺創など一部は、死後の遺体への攻撃だった可能性が高い。
これが、骨から言える範囲でのRichard IIIの最期である。
次のCASE053-07では、話を1485年から2012~2015年へ戻す。[1]
本人確認後、Richard IIIの遺骨をどこへ再埋葬するかは、新たな争点になった。
発掘許可は何を求めていたのか。
York側の主張はどのような法的争いになったのか。
司法審査で裁判所は何を判断し、何を判断しなかったのか。
そしてなぜ2015年、Richard IIIはLeicester Cathedralへ再埋葬されたのかを追う。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] Appleby, J. et al., “Perimortem trauma in King Richard III: a skeletal analysis”, The Lancet 385(9964), 253–259 (2015; online 2014) DOI: 10.1016/S0140-6736(14)60804-7
- [2] University of Leicester, “Injuries”
- [3] University of Leicester, “Wounds to left rear of skull and top of skull (injuries 1–3)”
- [4] University of Leicester, “Fatal wounds on the back and base of skull (injuries 4–6)”
- [5] University of Leicester, “Wounds to the lower jaw and right cheek (injuries 7–8)”
- [6] University of Leicester, “Injuries to the mandible, rib and pelvis (injuries 9–11)”
- [7] University of Leicester, “How Richard III died”
- [8] University of Leicester, “Forensic analysis using micro-CT”
- [9] University of Leicester, “What the bones can’t tell us”
- [10] Buckley, R. et al., “‘The king in the car park’: new light on the death and burial of Richard III in the Grey Friars church, Leicester, in 1485”, Antiquity 87(336), 519–538
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