THE QUESTION
駐車場のどこを掘ったのか? | Greyfriars発掘とSkeleton 1発見まで
STORY SO FAR
前回「1485年、リチャード3世はどこで死に、なぜGreyfriarsに葬られたのか?」で確認した論点を受け、この回では駐車場のどこを掘ったのか? | Greyfriars発掘とSkeleton 1発見までを扱う。
リチャード3世の遺骨発見は、「駐車場を掘ったら、たまたま王の骨が出てきた」という一文で紹介されることが多い。
実際、2012年にSkeleton 1が見つかった地表はレスター中心部の駐車場だった。しかし、発掘の実態は偶然任せの探索ではない。
考古学チームが解かなければならなかったのは、もっと段階の多い位置特定問題だった。
まず、中世のFranciscan friary、Greyfriarsの敷地を現代都市の区画へ重ねる。次に、その敷地の地下に残る壁や床から、どれがchapter houseで、どれがcloister walkなのかを判断する。そこから教会の方向を推定し、教会を発見する。さらに教会内部のchoirとpresbyteryを区別し、史料上リチャード3世が埋葬されたとされるchoirへ位置を絞る。
そして最後に、その内部にある墓の中から、リチャード3世の候補になり得る埋葬を探す。
University of Leicesterが整理したGreyfriars Projectの研究目標も、まさにこの順序だった。
- Franciscan friaryの遺構を見つける。
- 建物の位置と向きを判断する手掛かりを得る。
- friary内部で教会を特定する。
- 教会内部でchoirを特定する。
- choirの中からリチャード3世の遺骨を探す。
最初から第5段階だけを狙うことはできない。
リチャード3世の墓は「レスターのどこか」にあったのではなく、「Greyfriars教会のchoirにあった」と史料から考えられていた。したがって発掘は、失われた建築の平面図を地中から復元し、その座標系の中で墓の位置を読み直す作業だった。
この構造を理解すると、発掘初日に見つかった人骨が、なぜ発見直後には王の遺骨と判断されず、その後10日ほどかけて重要性を増していったのかも分かる。
骨そのものより先に、「その骨がどこに埋葬されていたか」を確定する必要があったのである。
Greyfriarsの「場所」は失われていたのではない
CASE053-02で整理した通り、16世紀にGreyfriarsが解散・解体されたあと、教会も墓碑も地上から姿を消した。
ただしUniversity of Leicesterは、Greyfriarsのsite自体は完全に失われたわけではなかったと説明している。
手掛かりの一つは街路名だった。
旧市街南東部にはFriar Laneが残り、Peacock LaneはかつてSt Francis’ Laneと呼ばれていた。19世紀にはGrey Friarsという通り名も使われるようになった。もちろん通り名だけで教会の位置までは分からないが、「この周辺にFranciscan friaryがあった」という地域レベルの記憶は消えていなかった。
古記録も同じ方向を示していた。
16世紀のJohn Leland、18世紀のJohn Throsbyなどの記録は、GreyfriarsがSt Martin’s、現在のLeicester Cathedral周辺の南側にあったことを大まかに示している。
問題は、その範囲のどこに教会があったのかだった。
中世の修道院建築は、解体後に土地が細分化され、庭、住宅、学校、事務所、道路、駐車場へ転換されている。教会の壁がそのまま地表に残っているわけではない。
しかも都市型friaryの平面配置は、すべてが同じではない。
典型的なFranciscan friaryでは、教会とcloister、chapter houseなどに一定の配置傾向がある。しかし都市内部では、既存の道路や敷地形状に合わせて配置が変形する場合がある。標準図をそのまま現代地図へ重ねれば教会が見つかる、というほど単純ではなかった。
したがって、2012年の発掘前に分かっていたのは「Greyfriarsがおおむねこの都市区画にあった」という範囲までだった。
教会の正確な輪郭、choirの位置、Richardの墓の座標は、依然として不明だった。
この違いが、Greyfriars Projectの出発点である。
1741年の地図を現代都市へ重ねる
探索範囲を狭めるうえで重要だったのが、古地図の比較だった。
17世紀初頭のJohn SpeedによるLeicester地図は有名だが、Greyfriarsの位置を正しく表示していなかった。University of Leicesterによれば、Speedの1610年図は北西部のBlack Friarsを「Graye Fryers」と誤って表示しており、この地図だけを頼りにすれば検索位置を誤る。
一方、18世紀になると地図の精度が上がる。
William Stukeleyの1724年図はSt Martin’s南側にGray Fryersを示し、Thomas Robertsの1741年図は、さらに具体的な区画として「Gray Fryers」を描いている。[1]
2011年、Philippa Langleyの依頼を受けたUniversity of Leicester Archaeological Services、ULASは、歴史資料・考古学資料・地図を組み合わせたdesk-based assessmentを実施した。
とくにThomas Robertsの1741年図と現代の市街地図を重ねるmap regressionによって、旧friary precinctの候補範囲を絞り込んだ。
ここで大きな制約が見えた。
University of Leicesterによれば、想定されるfriary siteの約83%は、すでに現代の建物などで覆われていた。
発掘できる場所は限られる。
残った候補は、Leicester City CouncilのSocial Services car park、旧Alderman Newton’s Schoolのplayground、そしてNew Street西側のprivate car parkという三つの比較的開けた空間だった。
つまり、考古学者は「広い敷地の好きな場所を掘れる」状況ではなかった。
現代の都市機能を壊さずに掘れる場所だけが調査対象になる。
さらにその開放空間にも、電力ケーブル、水道管、下水、近代建築の基礎が通っている可能性がある。
これが都市考古学の現実である。
中世遺構があると推定できても、その真上を自由に掘れるとは限らない。
地中レーダーは「王の墓」を映し出さなかった
2011年8月には、三つの候補地でGround Penetrating Radar、地中レーダー調査も行われた。
ここでありがちな誤解は、「レーダーで墓らしい影を見つけ、その場所を掘った」というものだ。
実際は逆に近い。
University of Leicesterによれば、GPRは電力ケーブル、水道管、下水などの現代設備と、いくつかの曖昧な反応を示したが、friaryの明確な建物平面を示すことはできなかった。
理由の一つとして、アスファルト下に存在する解体瓦礫の層が、中世遺構の反応を分かりにくくしていた可能性が考えられた。
したがって、GPR結果から墓の位置を決めたわけではない。
むしろ、レーダーで決定的情報が得られなかったため、事前に考えていたtrench配置を大きく変えず、実際に地面を開けて壁や床を確認する方法が選ばれた。
この点は発掘の性格をよく表している。
Richard III Projectは高度な科学技術だけで成功したのではない。
古地図、土地利用史、他のfriaryの建築パターン、試掘溝の配置、地層観察という古典的な考古学的手法を積み上げたうえで、必要な場所に科学分析を接続した。
掘れるのはfriary全体の約1%だった
2012年8月24日、Greyfriars Projectは正式に開始された。
しかし探索範囲の制約は厳しかった。
University of Leicesterの説明では、現代建物や道路を避けると、考古学者が調査可能だったのは識別されたfriary precinctのおよそ17%に相当する開放部分だけだった。
さらに時間と予算を考えると、実際に掘削できる面積はfriary precinct全体の約1%程度にすぎなかった。
これは重要な数字である。
「駐車場全体を掘り返して王の骨を探した」のではない。
ほとんどの地面は掘れない。
その1%で、まず修道院建物を捕まえ、そこから建物配置を推定し、教会とchoirまで到達する必要があった。
ULAS側の事前評価では、第1目標のfriary発見は現実的、第2目標の建物方向の推定は可能性が高い、第3目標の教会発見は可能性あり、第4目標のchoir特定はかなり難しく、第5目標のRichard III本人の墓発見は真剣には期待できないほどだったとされる。
結果だけ知っている現在から見ると、成功は予定されたものに見える。
しかし発掘前の条件から見れば、最終目標まで到達する確率は低いと考えられていた。
Trench 1――最初の数時間で人骨が現れた
8月25日、最初の試掘溝Trench 1の掘削が始まった。
Trench 1は幅約1.6m、長さ約30mで、Social Services car parkをおおむね南北方向に走るよう設定された。
最初に現れたのは中世の世界ではなかった。
アスファルトの下には、過去100年ほどに建てられた建物のレンガ・コンクリート基礎があり、それらを取り除いて初めて中世層へ到達できた。
その作業中、trench北端から約5m、現代地表から約1.5m下で、人間の左脚の骨が見つかった。
さらに注意して見ると、平行する右脚も確認され、乱された単独骨ではなく、埋葬された人骨である可能性が高いことが分かった。
これが後のSkeleton 1だった。
ただし、この瞬間に発掘チームが「Richard IIIを発見した」と考えたわけではない。
教会や修道院の近くを掘れば、人骨が出ること自体は不思議ではない。
中世の宗教施設には複数の埋葬が存在する。
しかも、この時点ではその墓がfriaryのどの建物に属するのか分かっていない。
University of Leicesterの記録でも、人骨は保護して一旦そのまま残されている。
まず必要だったのは、その墓を取り巻く建築遺構を読むことだった。
同じTrench 1からは、壁が抜き取られた跡、いわゆるrobbed wallや、低い石造構造、まとまった中世建築瓦礫が見つかった。
第1目標――Franciscan friaryの建物を見つける――は、初日に達成された。
しかし、王の墓を探すうえでは、まだ座標系の原点を見つけただけだった。
Trench 2――「通路」と「向かい合うベンチ」が建物の意味を変えた
翌8月26日、Trench 1をさらに調べると、壁Cと平行する別のrobbed wall Dが確認された。
ただしDの上には現役の電力ケーブルが通っており、重機で自由に追跡できなかった。
都市遺跡では、考古学的に重要だからといって現代インフラを無視することはできない。
同時にTrench 2が掘られた。
これも約30mで、Trench 1とほぼ平行に設定され、一部が重なる配置だった。
Trench 2では南北方向の壁EとF、その間に約2m幅の空間が見つかった。
瓦礫を除くと、タイル床の下地、段差、石段、出入口が確認された。
長い南北方向の狭い空間は、単なる部屋よりも通路らしく見えた。
ここでTrench 1側の低い石造物が重要になる。
壁Cに沿う構造には平らな上面と、丸みを持つ縁があり、基礎を持たない。さらに壁D側にも類似する構造があった。
二つが向かい合うように配置され、その間にタイル床がある。
研究チームは、これを人々が向かい合って座るbenchと解釈した。
friary建築で、修道士たちが向かい合って会合する空間といえばchapter houseが有力になる。
chapter houseは通常、cloisterの東側に張り出す形で置かれる。
もしTrench 1の空間がchapter houseなら、Trench 2の南北通路はeastern cloister walk、またはeast rangeに対応する可能性が高い。
ここで発掘は大きく前進した。
単に「中世の壁を見つけた」状態から、「friary平面図のどの部分を掘っているか」を推定できる状態になったのである。
第2目標――建物の位置と方向を読み解く――が達成された。
そしてchapter houseとeastern cloister walkの位置が分かれば、一般的なfriary配置との関係から、教会があるべき方向を予測できる。
発掘は、人骨を追うのではなく、建築を追うことで墓へ近づいていった。
教会はどこか――Trench 3を学校のplaygroundへ伸ばす
chapter houseの北側では、Trench 1内に大きく乱された帯状の部分Bがあった。
そこには大量の建築瓦礫があり、大きなwallが抜き取られた跡である可能性が考えられた。
もしこれが教会南壁なら、最初に見つかった人骨の位置も教会内部に近づく。
しかし近代のcellarによる破壊があり、Trench 1だけでは確定できなかった。
そこで9月1日、Richard Buckleyは第3のtrenchを、旧Alderman Newton’s Schoolのplayground側へ設定した。
Trench 3も約30mで、Trench 1とおおむね平行、一部を重ねるように掘られた。
目的は、wall Bの延長を探し、それが教会南壁なのか確認することだった。
結果は明瞭だった。
Trench 3から、約7.4m離れて平行する二本の大きなeast-west方向のrobbed wall、GとHが現れた。
その厚さと間隔は教会建築にふさわしく、周囲には床面、大きなタイル舗装、複数の埋葬の兆候もあった。
これによって、第3目標――friaryの中で教会を見つける――が達成された。
ここで初めて、初日にTrench 1で見つけていた人骨Aの位置が、単なるfriary敷地内の墓ではなく、教会東半部に入る可能性が高くなった。
Richardが埋葬されたと伝えられるchoirは、教会の東側にある。
つまり初日の人骨は、急に重要な候補へ変わり始めた。
教会を見つけても、choirはまだ見つかっていない
教会の壁G・Hを見つけただけでは、Richardの墓には到達しない。
教会内部にはnave、choir、presbyteryなど機能の異なる空間があり、Richardの埋葬場所として伝わるのはchoirだった。
そのため次の問題は、「今見つけた教会のどこがchoirなのか」である。
9月2日以降、Trench 3の床面が詳しく調査された。
そして9月5日、決定的な構造差が見える。
床タイルそのものは失われていたが、mortar beddingにはタイルの痕跡が残っていた。西側と東側で床パターンが異なり、東側へ一段高くなる段差もあった。
さらに西側の低い床には、教会南壁と平行する細い石壁が組み込まれていた。
これはchoir stallの基礎と解釈できた。
低い西側床がchoir、高い東側床がpresbyteryと考えると、建築構造が整合する。
外部のfriary建築専門家を含む検討でも、このchoir-presbytery解釈が支持された。
第4目標――教会内のchoirを特定する――が達成された。
ここで、最初の発掘日にTrench 1で見つかった墓が持つ意味が決定的に変わる。
壁BとTrench 3の教会南壁Gが直線上につながる。
Trench 3で確認された教会床と同じレベルの床がTrench 1の側面にも見える。
さらにTrench 1北端では教会北壁も確認された。
これらを組み合わせると、初日の墓はchoir南西部、南側choir stallに近い位置にあったと推定できた。
史料が伝えるRichard IIIの埋葬場所と一致する。
人骨を発見してから、その墓が「Richardが埋葬されたはずの場所」にあると証明するまでに、建物全体の読み直しが必要だったのである。
【地図】Greyfriars発掘地の現在位置
2012年のGreyfriars発掘地は、現在のLeicester中心部、New Street周辺に位置する。Historic EnglandはGreyfriarsをScheduled Monumentとして登録し、所在地をNew Street, Leicester, LE1 5NEとしている。
このリンクは、旧Greyfriars遺構と2012年発掘地周辺の現在の地理的位置を確認するためのものである。現代の道路・建物配置から、1485年当時の教会壁、choir、墓の細かな位置を直接読み取ることはできない。
発掘時の建物配置は、地下遺構から別途復元された考古学的平面として扱う必要がある。

説明用の概略図であり、測量図や正確な墓位置の現代地図転写ではない。
図解すると「chapter house → cloister → church → choir → grave」と進んだ
Greyfriars Projectの探索ロジックは、一本道として整理すると分かりやすい。
最初からRichard IIIの墓を示す印があったわけではない。
Trench 1・2でchapter houseとeastern cloister walkを推定する。
そこからfriary全体の向きを読む。
教会があり得る方向へTrench 3を置く。
壁G・Hと床面から教会を確認する。
床段差、tile impression、choir stall基礎からchoirとpresbyteryを分ける。
その平面をTrench 1へ投影する。
初日に見つけた墓がchoir南西部に位置することが分かる。
この流れが、CASE053のSELF_DIAGRAM D01「Greyfriars探索・発掘配置概略」で示すべき核心である。
図の主役はRichardの骨ではない。
建物の関係である。
chapter houseの位置が分かったからcloisterが分かり、cloisterの位置から教会を探す方向が定まり、教会の内部構造からchoirが分かり、そのchoir内に初日に見つけた墓が位置していた。
発見を「駐車場のRの下を掘ったら出た」という逸話へ縮めると、この考古学的推論の連鎖が消えてしまう。
9月3日――人骨を掘り上げる前に法的許可が必要だった
人骨が見つかったからといって、すぐに掘り上げて研究室へ運べるわけではない。
ULASは8月31日、1857年Burials Actに基づき、Ministry of Justiceへ最大6体の人骨をexhumeする許可を申請した。[1]
対象は無差別ではなかった。
Richard III候補になり得る埋葬――30代男性、教会東半部、可能なら致命的な戦闘損傷を持つ人物――を中心に調査する方針だった。
9月3日、許可が下りた。
この手順も重要である。
発掘の目的が著名人の探索であっても、他の埋葬を「候補ではないから自由に動かしてよい」わけではない。
実際、Trench 3の教会東半部では他の墓も見つかったが、年代がRichardよりかなり古いと判断されたものや、すでに有力候補が見つかっていたことから、必要以上に掘り起こさず、そのまま残された墓もあった。
考古学的調査は、見つけられるものをすべて掘る作業ではない。
調査目的と必要性に応じて、残す判断も含まれる。
9月4日から5日――Skeleton 1が全身を現す
9月4日、Trench 1の墓周囲を広げ、Jo ApplebyとTuri Kingらが墓土を慎重に除去し始めた。
人骨を傷つけないよう手作業で進められたため、その日のうちには完了しなかった。
9月5日、Jo Applebyとsite director Mathew Morrisが本格的に骨格を露出させた。
最初に脚、骨盤が現れた。足部は見つからなかった。
DNA汚染を避けるため、発掘時には特別な防護衣も用いられた。
さらに上半身へ進むと、墓穴の形そのものが普通ではないことが分かった。
墓は整った長方形ではなく、粗い菱形に近く、側面も不規則だった。遺体に対して墓がやや短く、頭部は不自然な角度で持ち上がるように収まっていた。
頭蓋骨には明らかな損傷があった。
そして脊柱を露出させると、はっきりしたS字状の湾曲が確認された。
この時点で、候補としての重みは急速に増した。
場所はRichardが埋葬されたと伝えられるGreyfriars教会のchoir。
性別は男性。
骨格は成人。
頭蓋部には戦闘に関連し得る傷。
脊柱には大きなscoliosis。
しかし、それでもまだ「Richard III本人」と確定したわけではない。
発掘が答えたのは、まずどこに、どのような人物が埋葬されていたかという問いである。
その人物の名前を確定するには、骨学、年代測定、同位体、系譜、DNAへ進まなければならない。
これはCASE053-04、05、06で分けて扱う。
「初日に見つかった」ことと「初日に王だと分かった」ことは違う
Greyfriars発見で最も誤解されやすいのが、この時間差である。
Skeleton 1の一部は8月25日、最初のtrenchを掘り始めた日にすでに見つかっていた。
結果だけ見れば、「初日に当たりを引いた」と言える。
しかし考古学的には、初日に見つけた人骨の意味はまだ分からなかった。
墓が教会外墓地なのか、friary内部の別空間なのか、教会内なのか、choirなのか。
これらを確定しなければ、「Richard IIIが埋葬された場所と一致する」という位置証拠にはならない。
そのためチームは、初日の墓をすぐ全面発掘するのではなく、周囲の建築遺構を調べた。
Trench 1からchapter houseの可能性。
Trench 2からeastern cloister walk。
Trench 3から教会壁。
床面とchoir stall基礎からchoir。
そして、その平面を元の墓へ戻す。
この順序を経て初めて、「最初の日に見つかった墓は、まさに探していたchoirの中にある」という位置関係が成立した。
発見のドラマは一瞬だったが、発見の意味を確定する作業は一瞬ではなかった。
検証ポイント|「駐車場の下から王が出た」を分解する
Q1. Greyfriarsの場所は完全に忘れられていたのか?
完全には忘れられていない。街路名、古記録、18世紀以降の地図などから、旧friary precinctのおおまかな位置は追跡できた。失われていたのは、教会の正確な平面と、choir、墓の位置だった。
Q2. 地中レーダーで墓を見つけたのか?
違う。2011年のGPRは現代設備や曖昧な反応を示したが、friary建物の明瞭な平面は得られなかった。最終的にはtrench excavationで壁・床・建築配置を読み取った。
Q3. 発掘可能範囲は広かったのか?
広くない。現代建築・道路の制約から、開放空間は想定precinctのおよそ17%。時間と予算を考えると、実際に掘れたのは全体のおよそ1%とUniversity of Leicesterは説明している。
Q4. Skeleton 1はいつ見つかったのか?
脚部は8月25日のTrench 1初日に確認された。ただし全面的なexhumationは9月4~5日に進み、9月5日に骨格が本格的に取り上げられた。
Q5. なぜ初日にRichard IIIだと分からなかったのか?
墓の建築上の位置が分からなかったからである。Trench 1・2・3からfriary、church、choirの配置を復元し、墓がchoir内部にあることを確認して初めて、Richard III候補としての位置証拠が成立した。
Q6. 駐車区画の「R」は墓位置の手掛かりだったのか?
違う。後から印象的な偶然として語られた現代の表示であり、考古学的根拠ではない。
Q7. 発掘された人骨は、その場でRichard IIIと確定したのか?
確定していない。発掘場所、性別、年齢、脊柱、損傷などから有力候補となった後、骨学、放射性炭素年代、同位体、DNA、系譜などの検証を経て、2013年2月4日にUniversity of Leicesterが本人と発表した。[9]
発見の本質は「当たりを引いた」ことではなく、位置情報を復元したことにある
Greyfriars Projectには、確かに大きな偶然があった。
発掘可能面積は小さかった。
最初のtrenchで人骨に当たった。
しかもその人骨は、後にRichard III本人と同定された。
近代建築の基礎も、骨格を完全には破壊していなかった。
しかし、偶然だけで説明すると、発掘の核心を取り違える。
考古学チームが行ったのは、曖昧な歴史地点を少しずつ高解像度化する作業だった。
「Greyfriarsはこの地区にあった」から始める。
古地図を重ね、発掘可能なopen areaを選ぶ。
Trench 1でfriaryの遺構を捕まえる。
Trench 2でcloister系統を読む。
chapter houseとeastern cloister walkから建物全体の向きを推定する。
Trench 3で教会壁を見つける。
床段差とstall基礎からchoirを特定する。
その座標を初日に見つけた墓へ戻す。
すると、墓はRichard IIIが埋葬されたと伝わる場所にあった。
この順序があるから、Skeleton 1は「駐車場から出た正体不明の骨」から、「Richard IIIである可能性を本格検証するに値する骨格」へ変わった。
そしてここから次の問題が始まる。
場所は合う。
では、骨そのものは何を語ったのか。
年齢、性別、身長、脊柱側弯、身体の左右差。後世の肖像や敵対的な記述とは切り分けて、500年以上残った骨からどこまで身体像を復元できるのか。
次のCASE053-04では、発掘場所ではなくSkeleton 1そのものへ焦点を移す。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] University of Leicester, “Knowing where to look” —
- [2] University of Leicester, “Grey Friars in old maps and plans” —
- [3] University of Leicester, “Where to dig” —
- [4] University of Leicester, “Finding the remains of the Franciscan friary” —
- [5] University of Leicester, “Identifying clues to the position and orientation of the buildings” —
- [6] University of Leicester, “Locating the church within the friary” —
- [7] University of Leicester, “Locating the choir within the church” —
- [8] University of Leicester, “Locating the mortal remains of Richard III within the choir” —
- [9] Buckley, R. et al., “The king in the car park: new light on the death and burial of Richard III in the Grey Friars church, Leicester, in 1485”, Antiquity 87 (2013), 519–538 —
- [10] Historic England, “Greyfriars, Leicester”, NHLE 1442955 —
リチャード3世|最後の王の遺骨はなぜ駐車場から発見されたのか 第3回 全8回 全8回を見る
- 01 リチャード3世の遺骨はなぜ駐車場から見つかったのか?|527年後の発見と同定を追う
- 02 1485年、リチャード3世はどこで死に、なぜGreyfriarsに葬られたのか?
- 03 リチャード3世|駐車場のどこを掘ったのか?|Greyfriars発掘とSkeleton 1発見まで
- 04 リチャード3世|骨格は何を語ったのか?|年齢・脊柱側弯・身体像を検証する
- 05 リチャード3世|なぜ「99.999%」本人と言えたのか?|DNA・系図・年代測定を統合した同定
- 06 リチャード3世|少なくとも11の傷は最期をどこまで語れるのか?|Bosworthでの死を法医学から読む
- 07 リチャード3世|発見後、遺骨はなぜレスター大聖堂に再埋葬されたのか?|司法審査から2015年まで
- 08 発見はリチャード3世像をどこまで変えたのか?|分かったこと・分からないこと