THE QUESTION
骨格は何を語ったのか? | 年齢・脊柱側弯・身体像を検証する
STORY SO FAR
前回「駐車場のどこを掘ったのか?|Greyfriars発掘とSkeleton 1発見まで」で確認した論点を受け、この回では骨格は何を語ったのか? | 年齢・脊柱側弯・身体像を検証するを扱う。
CASE053-03で、Skeleton 1がGreyfriars教会のchoirに埋葬された人物であることまで確認した。
場所は合っていた。
では、墓から取り上げられた骨格そのものは、どこまでリチャード3世と一致していたのか。
ここで重要なのは、骨を「本人だと証明する一発の証拠」として見るのではなく、骨格から独立して読み取れる biological profile――性別、死亡年齢、体格、身長、病変、身体の左右差――を整理することである。
DNAはまだ使わない。
系譜も使わない。
放射性炭素年代も、戦闘損傷の細かな分析も、この段階では主役ではない。
まず、500年以上地中に残った一人の人間の骨格としてSkeleton 1を読む。
その結果は、後世に広まった「せむしの悪王」という極端なイメージとも、「身体の異常はすべてテューダー朝の中傷だった」という反対方向の単純化とも一致しなかった。
骨格が示したのは、その中間にある、より具体的な身体像だった。
Skeleton 1は30代前半の成人男性で、細身の骨格を持ち、重度の脊柱側弯があった。
しかし、萎縮した腕を示す証拠はない。
脚の骨は左右対称でよく形成され、明白な跛行を示す骨学的証拠もない。
脊柱の湾曲は大きかったが、身体全体が著しくねじれた「怪物的な外見」を意味するものでもない。
そして、この骨学的プロフィールは、1485年に32歳で死亡したRichard IIIについて同時代人が残したいくつかの記述と、かなり具体的な部分で重なっていた。
まず確認されたのは「ほぼ完全な成人男性の骨格」だった
Skeleton 1は、保存状態のよい骨格だった。
University of Leicesterによれば、足部、左腓骨、いくつかの小さな手の骨や歯などは失われていたが、それ以外は500年以上経過した人骨として非常によく残っていた。
欠損の一部は、1485年の埋葬時に失われたものではない。
墓の上には後世の建築が造られており、19世紀のレンガ構造が下肢からわずか約90mmのところまで迫っていた場所もあった。
足部などは、こうした後世の工事で失われた可能性が高い。
これは分析上、二つの意味を持つ。
一つは、骨格がほぼ一個体として残っていたため、身体全体の左右差や脊柱の形を比較できたこと。
もう一つは、「欠けている部分」と「生前から存在しなかった部分」を区別しなければならないことだ。
考古学的な人骨では、骨がないこと自体が病変を意味するわけではない。
埋葬後の土壌条件、建築工事、発掘以前の撹乱、小さな骨の保存性などによって、一部が消失することはある。
したがって、身体像を復元するときは、残存骨から積極的に確認できる特徴と、単に保存されなかった部分を分けて扱う必要がある。
Skeleton 1では、それでも身体の主要部分が十分に残っていた。
骨盤、長骨、頭蓋、そして何より脊柱がまとまって残ったことが、年齢・性別・身長・側弯の評価を可能にした。
性別――骨格は成人男性と一致した
骨学的分析では、Skeleton 1は男性と判断された。
人骨の性別推定では、一般に骨盤や頭蓋など、男女差が比較的現れやすい部位を組み合わせて評価する。
一つの骨だけで「男性」と決めるのではない。
骨盤の形態、頭蓋の特徴、骨格全体の頑健性など複数の情報を読み、確率的に判断する。
Skeleton 1は全体としてかなり華奢、つまりgracileな骨格だったが、それでも骨学的プロフィールは成人男性に一致した。
のちに遺伝学的分析でも性別は男性と確認されるが、重要なのは、DNA分析より前に骨格そのものが男性という独立情報を与えていたことである。
Richard IIIについて歴史記録から分かっている基本条件は男性である。
したがって、この結果は本人同定を確定させるほど強い証拠ではないが、候補から除外しないための最初の条件を満たした。
もし骨格が女性だったなら、その時点でRichard III説は成立しない。
逆に男性だったという事実だけでは、15世紀末のGreyfriarsに埋葬された多数の男性の中からRichardを一人に絞ることはできない。
骨学的証拠の役割は、こうした「一致している条件」と「それだけでは識別力が弱い条件」を一つずつ積み上げることにある。
年齢――「30~34歳」という狭い推定範囲
年齢も、Richard IIIとよく一致した。
University of Leicesterの骨学的評価では、Skeleton 1はまず20代後半から30代後半の成人と判断された。
さらに、骨の関節面などを標準的な死後年齢推定法で検討すると、30~34歳というより狭い範囲が得られた。
Richard IIIは1452年10月2日生まれで、1485年8月22日にBosworthで死亡したため、死亡時は32歳だった。[6]
つまりSkeleton 1の推定年齢範囲のほぼ中央に入る。
ここでも注意が必要である。
骨から年齢を読む方法は、戸籍のように「32歳」と一点で示すものではない。
成人になると、成長期のような明確な発育指標が減るため、関節面の変化、歯の状態、骨の成熟・変性などから幅を持って推定する。
生活習慣、栄養、個体差、疾患によって骨の変化速度も一定ではない。
したがって、Skeleton 1について正確なのは「32歳と測定された」ではなく、「骨学的に30~34歳と推定され、Richard IIIの実年齢32歳と整合した」である。[6]
この言い方の違いは小さく見えるが、科学的には重要だ。
本人を知っているから骨を32歳に合わせたのではなく、骨格から得られた独立した推定範囲に、歴史上のRichardの年齢が入ったのである。
身長――背骨がまっすぐなら約1.74m
長骨は、身長推定にも使える。
Skeleton 1では右大腿骨が完全に残っていた。
University of Leicesterによれば、この大腿骨の長さから推定すると、脊柱がまっすぐだった場合の身長はおよそ5フィート8インチ、約1.74mだった。
これは当時の男性として極端に小さい値ではなく、むしろ中世男性の平均よりやや高いと説明されている。
ここで「Richard IIIは小柄だった」という歴史的イメージと、一見矛盾する。
しかし、骨学的な推定身長と、実際に立ったときの見かけの身長は同じではない。
大腿骨から計算する約1.74mは、脚や体幹が正常な配置で伸びた場合の推定値である。
Skeleton 1には重度の脊柱側弯があったため、実際には体幹が短くなり、直立したときの見かけの身長はこの推定値より低くなった。
したがって、
「骨格の長さから見れば本来は約1.74m」
と
「生前の外見ではそれよりかなり低く見えた可能性がある」
は両立する。
ここでも骨は、単純なラベルより身体の構造を具体化した。
Richardは「生まれつき全身が小さい人物」だったというより、四肢の長さに対して体幹が相対的に短く見える身体だった可能性が高い。
最大の特徴――脊柱には明瞭な側弯があった
Skeleton 1でもっとも目立った身体的特徴は、脊柱だった。
CASE053-03で触れた通り、発掘時に脊柱を露出させた段階で、明らかなS字状の湾曲が確認された。
ただし、埋葬姿勢によって死後に背骨が曲がった可能性を除外しなければならない。
骨格は狭く短い墓穴へ無造作に入れられており、頭部も不自然な角度になっていたからだ。
そこで重要になるのが、個々の椎骨の形である。
側弯は、骨が地中で横へずれただけでは説明できなかった。
多くの椎骨そのものに左右非対称の形態変化があり、棘突起などもねじれ、椎間関節には変形に伴う変化が見られた。
つまり湾曲は埋葬後の配置ではなく、生前の脊柱変形だった。
研究チームはこれをsevere idiopathic adolescent-onset scoliosis、重度の思春期発症特発性側弯症と診断した。
「idiopathic」は、原因が完全には分からないという意味である。
先天的に骨が奇形だったということではなく、Richardの場合は10歳以降、成長期に側弯が進行したと考えられている。
これは人物像を考えるうえで大きい。
Richardが幼少時から明らかな脊柱変形を持っていた、と骨が示しているわけではない。
少年期から青年期へ成長する過程で、側弯が発達した可能性が高いのである。
70~90度――大きな湾曲だが、身体全体が崩れていたわけではない
CTデータから脊柱を再構成した研究では、Richard IIIの側弯角はおよそ70~90度の範囲と推定された。
現代医学でも大きな湾曲に分類される。
数字だけを見ると、非常に強い身体変形を想像しやすい。
しかし、湾曲の角度だけでは外見や機能を直接決められない。
研究チームが注目したのは、Richardの脊柱が大きく曲がりながらも、全体としてwell-balanced、つまり頭部と身体の重心が極端に横へ崩れない配置だったことである。
そのため、生前の外観は「背中全体が大きく突き出した人物」というより、胴が相対的に短く、左右の肩の高さに差がある人物に近かったと考えられている。
右側へ凸となる側弯に対応し、右肩は左肩より少し高くなった可能性が高い。
University of Leicesterは、この身体差は衣服や個人用に調整された甲冑によって、ある程度目立たなくできた可能性があるとしている。
つまり重度の側弯が存在したことと、遠目にも誰でも気づくほど劇的な外見だったことは同義ではない。
これが、骨格発見によって最も修正されたイメージの一つである。
「hunchback」ではない――側弯と後弯は別の問題
Richard IIIについては、英語圏で長く「hunchback」という表現が使われてきた。
Shakespeareの『Richard III』による影響も大きい。
しかし骨学的には、この言葉は正確ではない。
Skeleton 1で確認された主要な変形はscoliosis、脊柱側弯である。
これは脊柱が正面から見て左右へ湾曲し、椎骨の回旋を伴う状態を指す。
一般に「hunchback」と聞いて連想されるのは、背中が後方へ強く丸くなるkyphosis、後弯のイメージに近い。
Richardの骨格から確認されたのは、そうした典型的な「大きなこぶ状の背中」ではない。
もちろん実際の身体は三次元であり、側弯による回旋が胸郭や肩の高さへ影響する。
だから「背中は何も変形していなかった」と言うのも間違いである。
正確には、
重度の脊柱側弯は実在した。
しかし、後世の「せむし」という単純な身体像とは一致しない。
この二つを同時に保持する必要がある。
右肩が高い――同時代記録と骨が重なる
骨学的所見が興味深いのは、同時代に近い記述と接続できる点である。
15世紀末の年代記作者John Rousは、Richardについて左右の肩の高さが同じではなく、右が高く左が低かったという趣旨の記述を残した。
Rousの記述にはRichard死後の政治的評価が混ざるため、人物評全体を無批判に事実として使うことはできない。
しかし「肩の高さが左右で違う」という具体的な身体描写だけを見ると、右側の側弯から予想される外見と整合する。
さらに、Richardの存命中である1484年に会ったSilesiaの騎士Niclas von Popplauは、Richardを自分より少し背が高く、体つきはより細く、腕や腿も細い人物として記している。
この記述も、骨格が全体としてgracile、細身だったという評価と方向が合う。
重要なのは、骨学が史料を「証明した」のではないことだ。
史料と骨は別の証拠系統である。
骨から「右肩が高くなり得る側弯」「細身の体格」が読み取られ、独立した同時代記述にも「肩の左右差」「細身」という特徴が現れる。
別々の証拠が同じ身体像へ収束するから、意味がある。
「萎縮した腕」は骨から確認されなかった
一方、後世のRichard像のすべてが骨に対応したわけではない。
Thomas MoreやShakespeareにつながる伝統では、Richardは腕に障害があり、身体の一部が萎縮していたかのように描かれる。
しかしUniversity of Leicesterの分析では、Skeleton 1に「withered arm」を支持する骨学的証拠はない。
左右の上肢に、片方だけ著しく発達が悪いといった特徴は確認されなかった。
ここで「骨に証拠がない」と「絶対に腕に何の問題もなかった」は分けなければならない。
筋肉、神経、腱、軟部組織の異常は、骨へ明瞭な痕跡を残さない場合がある。
500年以上前の骨だけから、あらゆる運動機能を完全に復元することはできない。
それでも、少なくとも後世の物語が連想させるような顕著な上肢萎縮を裏づける骨変形は見つからなかった。
したがって「Richard IIIには萎縮した腕があった」と骨学が支持した、と書くことはできない。
明白な跛行も、骨格は支持しない
脚についても同じである。
University of Leicesterは、脚の骨が左右対称で、よく形成されていることから、Richardが明白な跛行をしていたことを示す証拠はないとしている。
側弯があると、骨盤の傾きや歩行に影響が出る場合はある。
しかしRichardの骨格から、「片脚が短い」「片側だけ骨が変形している」といった、明瞭な歩行障害を直接示す所見は確認されなかった。
そのため、
「側弯があったので必ず足を引きずっていた」
という推測は成立しない。
一方で、
「骨に跛行の証拠がないから、生前の歩行は完全に左右対称だった」
とまで言うこともできない。
歩き方は骨の形だけで決まらない。
疼痛、筋力、疲労、装具、衣服、日ごとの体調など、軟部組織と機能の要素が大きいからである。
骨が言えるのは、脚の骨そのものには明白な左右差や形成不全がない、というところまでだ。
重度の側弯でも「戦えなかった」とは言えない
70~90度という大きな側弯角を知ると、「そんな状態で騎乗や戦闘ができたのか」という疑問が出る。
しかし骨学的研究は、側弯の存在から直ちに大きな運動能力低下を導いていない。
University of Leicesterは、この程度の曲率であっても、肺容量低下によって運動耐容能が損なわれる状態だったとは考えにくいとしている。
また脚骨は対称で、明白な跛行の証拠もない。
もちろん、これだけでRichardが「全く痛みなく、健康な人と同じ運動能力だった」と証明できるわけではない。
側弯に伴う背部痛や疲労の有無、長時間の騎乗でどれほど負担があったか、甲冑装着時にどのような不快感があったかは、骨格だけでは測れない。
ここで言えるのはもっと限定的だ。
重度の側弯はあった。
しかし、その骨学的状態だけを理由に、Richardが騎乗や戦闘を行えないほど身体機能を失っていたと断定する根拠はない。
これは歴史記録とも矛盾しない。
Richardは成人後、軍事行動に参加し、1485年にはBosworthで実際に戦闘中に死亡している。
骨学はその史実を説明し直すというより、「側弯がある人物でも、その活動歴は成立し得る」身体像を示している。
歯から分かるのは、意外に日常的な情報だった
Skeleton 1の歯も調べられた。
University of Leicesterによれば、生前に失われた歯がいくつかあり、残った歯には軽度の摩耗、歯石、いくつかの虫歯が確認された。
第三大臼歯、いわゆる親知らずは通常より小さかった。
これらは王であることを示す決定的証拠ではない。
むしろ、人骨分析が「劇的な特徴」だけを扱うものではないことを示す。
歯の摩耗や歯石、齲蝕、喪失は、年齢、食生活、衛生状態、個体差などを考える材料になる。
ただし、ここから「Richardは甘いものを好んだから虫歯になった」といった具体的な生活習慣まで単純に推定することはできない。
食生活については、歯だけでなく炭素・窒素・酸素・ストロンチウムなどの同位体分析が別途行われている。
それはSkeleton 1の生活史を広げる重要な研究だが、このCASE053-04の主題は身体形態であるため、ここでは深追いしない。
骨が残さない情報は多い
Richard IIIの発見は、歴史上の人物を科学で「完全復元」したように語られがちである。
しかしUniversity of Leicester自身が、osteologyの解説で「what the bones can’t tell us」を独立項目として置いている。
骨から比較的強く言えるものはある。
成人男性であること。
死亡時年齢が30~34歳程度であること。
大腿骨長から推定される本来の身長。
重度の思春期発症特発性側弯があること。
右肩が左より高くなる可能性。
上肢に明白な萎縮を示す骨学的証拠がないこと。
脚骨が左右対称で、明白な跛行を示す形成異常がないこと。
歯の一部の状態。
一方、骨だけでは直接決められないものも多い。
日常的にどれほど痛かったのか。
疲労しやすかったのか。
どのような歩き方だったのか。
服を着たとき、他人が側弯にどの程度気づいたのか。
Richard自身が身体をどう認識していたのか。
周囲の人々がそれをどう評価していたのか。
そして当然ながら、政治判断、性格、道徳性、王としての能力も骨からは分からない。
骨格は人間の一部を保存する。
人間そのものを丸ごと保存するわけではない。
Shakespeareを「嘘」、骨を「真実」と単純化しない
Richard IIIの身体像を語るとき、もう一つ陥りやすい構図がある。
「ShakespeareがRichardを醜く描いた。しかし発掘によって、それが全部嘘だと判明した」
という物語である。
これは分かりやすいが、正確ではない。
骨格は実際に重度の側弯を示した。
つまり身体の左右差そのものが完全な創作だったとは言えない。
一方で、側弯から直ちに「せむし」「萎縮した腕」「明白な跛行」まで導くこともできない。
後世の文学的Richard像には、実在した身体的特徴と、政治的・文学的な誇張が混ざっている可能性が高い。
しかもShakespeareはRichardの死から100年以上後の人物である。
彼の戯曲は歴史記録ではなく、演劇作品として作られている。
したがって骨学が可能にしたのは、
「Shakespeareは正しかった/間違っていた」
という二択ではない。
もっと細かく、
- 脊柱側弯は実在した。
- 肩の高さには左右差が生じた可能性が高い。
- 体幹は相対的に短く見えた可能性がある。
- 上肢の顕著な萎縮を示す証拠はない。
- 脚骨は対称で、明白な跛行の証拠はない。
- 外見上の程度や日常機能には、骨だけでは決められない部分が残る。
と分解したことに価値がある。
歴史上のイメージを否定するのではなく、イメージを測定可能な項目へ分解したのである。
骨学は本人同定の「一部分」であって、単独の決め手ではない
ここまで見ると、Skeleton 1とRichard IIIの一致はかなり多い。
男性。
30~34歳。
細身。
大きな脊柱側弯。
右肩が高くなる身体形態。
戦場死を想起させる周死期損傷。
そしてGreyfriars教会choirという埋葬位置。
しかし、それでもosteologyだけで「この骨はRichard IIIである」と断定することはできない。
同じ時代に、同じ年齢帯の男性は他にもいる。
側弯は珍しい特徴ではあるが、世界でRichard一人だけに起こる病変ではない。
歴史記録との一致は識別力を高めるが、名前を骨に直接刻むものではない。
だからRichard IIIの同定では、複数の独立した証拠が組み合わされた。
考古学的位置。
骨学的プロフィール。
放射性炭素年代。
同位体。
歴史記録。
系譜。
ミトコンドリアDNA。
Y染色体。
これらを別々に評価し、最後に統計的に統合する。
CASE053-04が扱うのは、そのうち「骨格の人物像」という一層である。
次のCASE053-05では、ここまでの一致をDNAと系譜へ接続し、「99.999%」という数字が何を意味するのかを検証する。
検証ポイント|Skeleton 1の身体像
Q1. Skeleton 1は男性だったのか?
骨学的に成人男性と判断され、後の遺伝学的検査でも男性であることが確認された。
Q2. 死亡年齢は何歳と推定されたのか?
広い評価では20代後半~30代後半。標準的な関節面分析などを用いたより狭い推定では30~34歳。Richard IIIの死亡時年齢は32歳だった。
Q3. 身長はどのくらいだったのか?
完全な右大腿骨から、脊柱がまっすぐなら約1.74mと推定された。ただし重度の側弯によって、実際の見かけの身長はそれより低かったと考えられる。
Q4. Richard IIIは本当に「hunchback」だったのか?
骨格には重度の脊柱側弯があったが、一般的な「せむし」のイメージと同一ではない。主な変形は側弯で、右肩が左より高く、体幹が相対的に短く見える身体だった可能性が高い。
Q5. 側弯は生まれつきだったのか?
研究チームはidiopathic adolescent-onset scoliosis、思春期発症特発性側弯症と診断している。先天性ではなく、10歳以降に発達したと考えられている。
Q6. 側弯の程度はどのくらいだったのか?
CTを用いた再構成では、およそ70~90度の湾曲と推定された。大きな曲率だが、脊柱全体のバランスは比較的保たれていた。
Q7. 萎縮した腕はあったのか?
そのような顕著な上肢萎縮を支持する骨学的証拠は確認されていない。
Q8. 足を引きずって歩いていたのか?
脚骨は左右対称でよく形成されており、明白な跛行を示す骨学的証拠はない。ただし骨だけで生前の歩行を完全再現することはできない。
Q9. 重度の側弯なら戦闘できなかったのでは?
骨学的所見だけから、騎乗や戦闘が不可能なほど機能が低下していたとは言えない。研究チームは肺容量低下による運動耐容能障害を想定しておらず、脚骨にも明白な左右差はない。ただし痛みや疲労の程度は骨から直接測れない。
Q10. 骨格だけでRichard III本人と確定できたのか?
できない。骨学は年齢、性別、体格、側弯などがRichardと整合することを示したが、本人同定には考古学、年代測定、系譜、DNAなど他の独立証拠との統合が必要だった。
骨が修正したのは「身体異常の有無」ではなく、その具体像だった
Skeleton 1の発見以前、Richard IIIの身体については極端な二つの物語が対立しやすかった。
一方では、後世の劇や年代記に描かれた、著しく変形した悪王像。
もう一方では、その身体描写はすべて政治的宣伝で、実際には何の身体的異常もなかったという反論。
骨格は、そのどちらにも完全には乗らなかった。
Richard IIIには実際に重度の脊柱側弯があった。
そのため右肩がやや高く、体幹が相対的に短く見えた可能性が高い。
しかし、骨格は細身ではあっても均整を大きく失っておらず、萎縮した腕や明白な跛行を示す証拠もない。
大腿骨から推定される本来の身長は約1.74mだった。
つまり発見がもたらしたのは、「身体的特徴があったか、なかったか」という二択への回答ではない。
どの特徴が実在し、どの特徴は骨から支持されず、どこから先は分からないのかを細かく切り分けることだった。
そして、この切り分けは本人同定にも使われる。
30~34歳の男性。
Richardの同時代記述と整合する肩の左右差。
重度の思春期発症側弯。
Greyfriarsのchoirという墓の位置。
それぞれ単独では決定打にならない。
だが独立した証拠として積み重なる。
次に問うべきは、その積み重ねへ遺伝学を加えたとき、どこまで本人だと言えるのかである。
CASE053-05では、母系DNA、Y染色体、系譜、年代測定、考古学的条件を一つずつ分解し、最終的に示された「99.999%」が、何を計算した数字なのかを追う。[1]
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] University of Leicester, “Osteology – reading the bones”
- [2] University of Leicester, “Analysing the skeleton”
- [3] University of Leicester, “Scoliosis”
- [4] University of Leicester, “What the bones can’t tell us”
- [5] University of Leicester, “Identifying the remains”
- [6] Buckley, R. et al., “‘The king in the car park’: new light on the death and burial of Richard III in the Grey Friars church, Leicester, in 1485”, Antiquity 87 (2013), 519–538
- [7] Appleby, J. et al., “The scoliosis of Richard III, last Plantagenet King of England: diagnosis and clinical significance”, The Lancet 383 (2014), 1944
- [8] King, T. E. et al., “Identification of the remains of King Richard III”, Nature Communications 5, 5631 (2014)
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