THE QUESTION
発見はリチャード3世像をどこまで変えたのか? | 分かったこと・分からないこと
STORY SO FAR
前回「発見後、遺骨はなぜレスター大聖堂に再埋葬されたのか?|司法審査から2015年まで」で確認した論点を受け、この回では発見はリチャード3世像をどこまで変えたのか? | 分かったこと・分からないことを扱う。
2012年8月にGreyfriarsの駐車場でSkeleton 1が見つかってから、Richard IIIについて多くのことが具体的になった。[10]
墓は本当にLeicesterのGreyfriarsに残っていた。
遺体はRiver Soarへ投げ捨てられていなかった。
骨格は30代前半の男性で、重度の脊柱側弯を持っていた。
頭部には激しい周死期損傷が集中していた。
母系DNAは現代親族と一致し、Y染色体は一致しなかった。
年代測定、骨学、外傷、系譜、DNAを統合すると、Skeleton 1がRichard IIIである確率は極めて高くなった。
さらに同位体分析から、食生活や人生の移動についても新しい情報が得られた。
しかし、発見によって「Richard IIIの謎が解けた」とまで言うと話が変わる。
骨格は王の身体について多くを語った。
王の政治判断については語らない。
DNAは遺骨の身元を強く支持した。
1483年にTower of Londonから姿を消したEdward Vと弟Richardに何が起きたかは説明しない。
側弯は実在した。
それだけで後世の文学作品や年代記に書かれた人格描写が正しいことにも、逆にすべて虚偽だったことにもならない。
Bosworthの傷は死亡状況の一部を具体化した。
誰がどの一撃を与え、何秒後に死亡したのかまでは復元できない。
Richard IIIの発見が歴史研究にもたらした最大の価値は、「悪王だったか、名君だったか」という古い二択へ新しい判決を下したことではない。
むしろ、長く一つの物語として語られてきた人物像を、
考古学で確定できること
骨学・遺伝学で強く支持できること
歴史資料を解釈しなければならないこと
現在も答えがないこと
へ分解したことである。
最終Articleでは、CASE053-01から07までの結果を、この四つの層に整理する。[10]
まず「墓が失われた」という伝説が修正された
発見以前、Richard IIIの遺体について最も有名だった伝承の一つが、Greyfriars解散後に墓が破壊され、骨がRiver Soarへ捨てられたというものだった。
しかし2012年の発掘で、この物語は成立しなくなった。
Greyfriarsの建物は1538年のDissolution後に失われた。
地上から教会が消え、土地利用も変化した。
それでも墓穴そのものは地下に残っていた。
後世の建築は驚くほど近くまで迫っていたが、Skeleton 1の主要部分はほぼ完全な状態で保存されていた。
つまり「Richardの墓が失われた」とは、
遺骨そのものが消滅した
という意味ではなかった。
正確には、
Greyfriars churchの建物と、墓がどこにあったのかという都市空間上の記憶が失われた
のである。
CASE053-03で見た発掘の意味もここにある。
駐車場の地下から偶然王を掘り当てたのではなく、古地図、土地境界、修道院配置、trenchから出た壁と床を順に読み、church、choirへ位置を絞り込んだ。
発見は「伝説の墓を発見した」というより、失われた都市構造を考古学的に再構成した結果だった。
「駐車場の王」は、発見方法の奇抜さだけが本質ではない
Richard III発見は、世界的には“king in the car park”という強いイメージで知られるようになった。
中世Englandの王が現代の市役所駐車場の下にいたという対比は、確かに象徴的だった。
しかし学術的に重要なのは、駐車場という意外な場所ではない。
その場所が、旧Greyfriars siteの上に連続して存在していたことである。
近代都市化は建物を消したが、地下考古学層をすべて消したわけではなかった。
University of Leicesterの発掘は、歴史資料から推定された修道院の場所を、実際の壁・床・cloister・chapter house・church・choirへ結びつけた。
それによって歴史文献の記述と物理的空間が再接続された。
Richard IIIだけでなく、Greyfriarsという中世Leicesterの一部そのものが再発見されたのである。
確定したこと1|Skeleton 1はRichard III本人と考えてよい
シリーズ最大の問いについては、現在ほぼ決着している。
Skeleton 1はRichard III本人とみなす十分な科学的根拠がある。
CASE053-05で確認したように、その結論はDNA単独ではない。
成人男性。
30~34歳。
1485年前後と整合する年代。
Greyfriars choirの埋葬。
Richardに伝わる身体特徴と整合する重度の側弯。
Bosworthでの戦場死に整合する周死期損傷。
母系親族と一致するmtDNA。
一方で一致しなかったY染色体。
こうした有利・不利双方の情報を統合した結果、全証拠のlikelihood ratioは約670万。
非常に懐疑的なpriorを使っても、Richard本人であるposterior probabilityは約99.9994%となった。
したがって、このCASEでは「Richard IIIとされる遺骨」「おそらくRichard」という距離を毎回置く必要はない。
研究上はRichard IIIの遺骨として扱ってよい。
ただし、その強さを説明するときは「DNAで99.999%」と短縮しない。
発見の本質は複数の独立証拠が同じ人物へ収束したことにある。
確定したこと2|重度の脊柱側弯は実在した
Richard IIIの身体像について、発見は一つの重要な論争を終わらせた。
脊柱の大きな湾曲は実在した。
Skeleton 1には、死後に墓の中で曲がっただけでは説明できない椎骨そのものの変形があった。
診断は重度の思春期発症特発性側弯。
CTを用いた再構成では約70~90度の湾曲。
右肩は左より高くなった可能性が高い。
この部分については、「Richardの身体的左右差は全部Tudor側の創作だった」とする説明は維持しにくくなった。
同時に、骨格は後世の極端な身体像も支持しなかった。
萎縮した腕を示す骨学的証拠はない。
脚骨は左右対称で、明白な跛行を示す形成異常もない。
脊柱は大きく湾曲しているが、全体のバランスは比較的保たれていた。
大腿骨長から推定される本来の身長は約1.74m。
つまり発見が確定したのは「身体に異常があった/なかった」という二択ではない。
どの異常があったか
まで具体化したことである。
変わったこと|文学的な「身体=人格」という結び付きが弱くなった
後世のRichard III像では、身体の歪みと人格の悪を結び付ける表現が繰り返された。
Thomas Moreの記述、さらにShakespeareの劇はその代表である。
しかし、現代の骨学が確認したのは身体の形態であって、人格ではない。
側弯は骨に残る。
野心、残酷さ、勇気、猜疑心は骨には残らない。
この区別が、発見後のRichard像を考えるうえで重要になった。
骨格によって一部の身体描写が現実の特徴と接続したからといって、同じ史料・文学作品に書かれた政治的悪行まで一括して科学的に裏づけられたわけではない。
逆も同じである。
Shakespeareが演劇的誇張を行ったからといって、Richardに関する不利な歴史記録がすべて「Tudor propaganda」で無効になるわけでもない。
発見は、史料を丸ごと真実か虚構かに分類するのではなく、一文ずつ別の証拠と照合する必要性を強くした。
確定したこと3|Richardは激しい頭部損傷を受けて死亡した
BosworthでRichardが戦死したこと自体は発見前から知られていた。
骨格は、その「戦死」を法医学的に具体化した。
少なくとも11の周死期損傷。
うち9は頭蓋・顔面周辺。
とくに二つの頭蓋底損傷は、単独でも致命的となり得る。
頭蓋の傷は当時の適切なhelmetを装着した状態では生じにくい。
身体の損傷が頭部ほど多くないことは、body armourがなお残っていた可能性とも整合する。
これによって、
「Richardは戦場で死亡した」
という歴史事実から、
「頭部防護を失った状態で複数の鋭器攻撃を受け、頭蓋底の深刻な損傷が死亡原因となった可能性が高い」
というところまで解像度が上がった。
しかしここでも限界がある。
傷の順序は分からない。
11傷=11回の攻撃ではない。
halberdは候補であって証明済みの凶器ではない。
骨盤の深い傷は死後の侮辱行為だった可能性が高いが、その「意図」は骨そのものからは読めない。
科学は最期を詳細化したが、完全な映像を再生したわけではない。
分かったこと4|王になった後、食生活は変化した可能性が高い
Richard IIIの研究は身元確認だけで終わらなかった。
炭素、窒素、酸素、ストロンチウムなどのstable isotope分析によって、人生の異なる時期の移動と食生活も調べられた。
歯は幼少期。
大腿骨は比較的長い成人期。
肋骨は死亡前の数年間。
それぞれ異なる時間スケールの情報を保存する。
University of Leicesterによれば、Richardの食生活は高タンパクで、陸上動物だけでなく海産物をかなり含んでいた。
さらに大腿骨と肋骨の同位体差から、人生最後の数年間、つまり王となった時期に、より豪華な食事やimported wineの摂取が増えた可能性が示された。
これは「王だから豪華な食生活だった」というイメージを単に確認したのではない。
同一人物の骨の部位ごとに異なる更新速度を利用し、生活の変化を時間方向に捉えた点が重要である。
また、この海産物摂取は放射性炭素年代が当初やや古く見えた問題を理解するうえでも重要だった。
分かったこと5|Richardは腸内寄生虫にも感染していた
墓の腹部付近の土壌からはroundworm、回虫の卵が検出された。
これは王の身体について非常に日常的な情報である。
高位の王であっても、中世社会に広く存在した寄生虫感染から完全に隔離されていたわけではない。
一方で、感染の重症度は分からない。
軽い感染なら症状がほとんどなかった可能性もある。
Richardが慢性的な腹痛に苦しんでいた、とまで書くことはできない。
この例は、CASE053全体の考え方をよく表している。
分析技術によって「回虫に感染していた」は言える。
そこから日常症状を詳細に物語化するのは別の段階である。
分かったこと6|顔や目・髪について、以前より制約を置けるようになった
Richard IIIには、生前に描かれたことが確実な同時代肖像が残っていない。
知られている主要肖像は、死後数十年以降のものである。
発見後、頭蓋骨の3D scanを使ってcraniofacial reconstructionが行われ、筋肉や皮膚の厚さをモデル化した胸像が作られた。
さらにDNA分析から、Richardは青い目であった確率が96%、金髪であった確率が77%と推定された。
ただし金髪というのは必ずしも死亡時の髪色を意味しない。
University of Leicesterも、幼少期の髪色を反映し、成人するにつれて暗くなった可能性があるとしている。
この情報をもとに、死後に制作された複数肖像のうち、Society of Antiquaries所蔵像が遺伝学的特徴と比較的よく整合すると提案された。
ここでも「本当の顔が完全復元された」とは言えない。
頭蓋骨から顔の基本形状には制約を置ける。
しかし耳の細部、脂肪、皮膚状態、表情、髪型など、骨から直接分からない要素は推定になる。
facial reconstructionは証拠に基づくモデルであって、写真ではない。
では「Richardは本当に醜かったのか」という問いに答えられるか
答えられない。
「醜い」は骨学的測定値ではない。
顔貌復元や脊柱の形から外見の一部を推定することはできる。
しかし美醜は文化的・個人的評価であり、科学的な本人同定の対象ではない。
Richardの身体が後世の政治的・文学的表象に利用されたことを検討することはできる。
だが、
「骨格が見つかったのでRichardは実は美男だった」
という結論も、
「側弯が確認されたので昔の醜悪な描写は正しかった」
という結論も、どちらも証拠の範囲を越える。
未解決1|Princes in the Towerに何が起きたのか
Richard IIIについて最大の歴史的論争の一つが、Edward Vとその弟Richard, Duke of York――いわゆるPrinces in the Towerの失踪である。
1483年、二人はTower of Londonに入り、その後、公の場から姿を消した。
二人が殺害されたとみる説は長く有力だが、誰が命じ、誰が実行し、正確にいつ死亡したのかは現在も確定していない。
Historic Royal Palacesも、この事件を現在なお議論され続ける謎として扱っている。
Richard IIIは長く最有力容疑者とされてきた。
王位を得た人物であり、二人が生存していれば政治的脅威となり得たからである。
一方、BuckinghamやHenry Tudorを含む別の関与説も存在する。
1674年にTowerで二人の少年と考えられた骨が発見され、Westminster Abbeyへ埋葬されたが、その身元も現代的な意味で確定していない。
ここでCASE053の発見は直接役に立たない。
Richard III自身のDNAが得られたことは、将来、適切な許可と検査対象が得られれば親族関係を検討する材料になり得る。
しかし2012年のGreyfriars発見それ自体は、Princesの運命を解決していない。
したがって、
Richard IIIの遺骨発見で、Princes殺害の濡れ衣が晴れた
とも、
Richard IIIの遺骨発見で、彼が犯人だったことが証明された
とも言えない。
この問題は依然として文献史料と未確定の物的証拠をめぐる歴史論争である。
未解決2|「Tudor propaganda」はどこまでRichard像を作ったのか
Richard IIIをめぐる議論では“Tudor propaganda”という言葉が頻繁に使われる。
BosworthでRichardを倒したHenry Tudorの王朝にとって、前王を否定的に描く政治的動機があったこと自体は理解しやすい。
Thomas MoreはRichard死後に執筆し、Shakespeareはさらに後世のElizabethan Englandで劇を書いた。
そのため、両者の描写を同時代の中立的記録のように扱うことはできない。
しかし、
「Tudor期に書かれた否定的情報だから全部嘘」
という逆方向の処理もできない。
Richardに肩の左右差があったことは、骨格と整合する。
一方、萎縮した腕や明白な跛行は骨格から支持されなかった。
つまり発見後に可能になったのは、宣伝か真実かを作品単位で決めることではなく、
個々の主張を独立証拠で検証すること
だった。
同じ年代記の中でも、ある身体描写は骨と合い、別の人物評価は検証不能ということがある。
この細分化こそ、発見が歴史叙述へ与えた実質的な変化である。
未解決3|Richard IIIは「良い王」だったのか「悪い王」だったのか
これはそもそも自然科学だけで答える種類の問いではない。
Richardの統治期間。
法律。
財政。
北部統治。
反乱。
王位継承の経緯。
Edward Vの扱い。
Hastingsの処刑。
Bosworthへ至る政治状況。
こうした評価は文書史料を使って検討する必要がある。
骨格から分かるのは身体と死亡の一部である。
王としての能力や政策評価は、骨密度にもDNAにも保存されない。
そのため発見後も、Richard III Societyなど再評価を進める立場と、Richardの王位獲得や政治行動を厳しく見る研究は並存する。
科学的同定が強固になったことと、政治的人物評価が一つに決着することは別問題である。
未解決4|最後の数分間を完全に再現すること
CASE053-06で見たように、二つの頭蓋底損傷は死亡原因として有力である。
しかし、それでもBosworthの最後の数分間を完全に再現することはできない。
いつ馬を失ったのか。
いつhelmetを失ったのか。
何人が攻撃したのか。
どの傷が最初だったのか。
どちらの致命傷が先だったのか。
死亡後どれほど時間が経って骨盤や肋骨の傷が加えられたのか。
骨はこの順序を記録していない。
歴史記録と武器・甲冑研究を組み合わせればシナリオは作れる。
しかし複数のシナリオが同じ骨損傷と整合する場合、科学的には一つへ固定できない。
「Richardの最期が分かった」という表現は、死亡原因の解像度が上がったという意味なら正しい。
完全なbattle reconstructionが完成したという意味なら誤りである。
未解決5|Richard自身は、自分の身体をどう感じていたのか
側弯についても、骨から分からないことは多い。
痛みがあったか。
長時間の騎乗で疲労したか。
衣服で肩の左右差をどの程度隠していたか。
周囲の人々が日常的にどれほど意識していたか。
本人が自分の身体をコンプレックスと感じていたか。
これらは骨には残らない。
歴史人物の身体を科学的に調べられるようになると、つい心理まで復元できるように感じる。
しかし骨学的所見と心理状態の間には大きな距離がある。
Richard IIIを「側弯を持つ一人の人間」として具体化することと、その内面を創作することは別である。
発見によって「史料の価値」は下がったのではない
考古学・DNAが劇的な成果を出すと、「文献より科学の方が正しい」という構図で語られることがある。
Richard IIIのCASEは、むしろ逆を示している。
発掘地点を探すには歴史資料が必要だった。
Greyfriarsの位置とRichardの埋葬場所について文献情報がなければ、駐車場を掘る理由がない。
本人同定にはRichardの死亡年齢、死亡場所、埋葬記録、身体描写、系譜が必要だった。
DNA比較には歴史系譜が必要だった。
骨格の傷を解釈するにはBosworthと中世武器・甲冑の知識が必要だった。
一方、文献だけでは確認できなかった身体と墓の情報を、考古学と自然科学が補った。
つまりRichard III発見は、
歴史資料 vs 科学
の勝負ではない。
歴史資料 × 考古学 × 骨学 × 遺伝学 × 統計学
を接続したから強かった。
発見は「Tudor史観を覆した」のか
限定的には、従来のRichard像を修正した。
しかし全面的に覆した、とは言えない。
修正された具体例はある。
遺体はRiver Soarへ捨てられていなかった。
身体には実際に側弯があったが、萎縮した腕や明白な跛行は骨から確認されなかった。
死は頭部への激しい攻撃と整合する。
高位者らしい食生活の変化も確認された。
一方、Richardの王位獲得の正当性。
Hastings処刑の評価。
Princes in the Tower。
政策・統治の評価。
こうした問題は発見前と同じく、主として文献史学の対象である。
したがって、発見が覆したのは「Tudor史観」という巨大な一枚岩ではなく、
個別に検証可能だったいくつかの具体的主張
だと考える方が正確である。
2012年の発見が持ったもう一つの意味――都市の地下に歴史が残る
CASE053にはRichard IIIという著名人以外の意味もある。
Greyfriarsは地上からほぼ完全に消えていた。
その上には道路、建物、駐車場が形成された。
それでも地下の壁、床、墓、human remainsは部分的に残っていた。
都市は新しい建物で古い時代を完全に消去するとは限らない。
むしろ何層にも重なって保存する。
Richard IIIの発見は、歴史的都市におけるurban archaeologyの力を一般社会へ非常に分かりやすく示した。
目に見えるhistoric buildingがない場所でも、地図・地籍・古記録・地下遺構を結びつければ、失われた空間を再構築できる。
「駐車場の下から王が出た」という奇跡的な物語だけで終わらせるより、こちらの方が再現可能な教訓である。
そして「本人が見つかった」後も、研究は続いた
2013年2月の本人確認会見は、一つの終点のように見えた。
しかし実際には、その後も研究は続いた。
2014年にはDNA・系譜を統合した査読論文がNature Communicationsに掲載された。
外傷研究はLancetで公表された。
同位体分析から食生活と移動が検討された。
寄生虫研究も行われた。
側弯の臨床的意味も分析された。
さらに再埋葬をめぐる司法審査と制度上の議論が続き、2015年にLeicester Cathedralへの再埋葬へ至った。
つまりRichard IIIのCASEは、
「発掘して発見した」
ではなく、
探索 → 発掘 → 身元仮説 → 多分野分析 → 統計的同定 → 法的・社会的処理 → 再埋葬
という長い工程だった。
検証ポイント|発見で何が変わったのか
Q1. Richard IIIの遺体はRiver Soarへ捨てられていたのか?
いいえ。2012年、Greyfriars churchのchoirに対応する場所からほぼ完全な骨格が発見された。
Q2. Skeleton 1がRichard III本人であることは現在も疑わしいのか?
合理的疑いを超える水準で本人と同定されている。複数独立証拠の統合による結論で、最も保守的なモデルでも約99.999%だった。
Q3. Richardには本当に身体的な脊柱変形があったのか?
あった。重度の思春期発症特発性側弯が確認された。
Q4. Shakespeareの描写はすべて正しかったのか?
いいえ。側弯という基礎となる身体特徴は実在したが、萎縮した腕や明白な跛行は骨学的に確認されなかった。また人格描写は骨から検証できない。
Q5. Richardの最期は完全に分かったのか?
死亡原因候補はかなり具体化したが、攻撃順序、正確な姿勢、攻撃者、武器個体などは確定できない。
Q6. RichardがPrinces in the Towerを殺害したかどうかは解決したのか?
していない。二人の運命と責任主体は現在も歴史的議論の対象である。
Q7. 発見によってRichardが「良い王」だったと証明されたのか?
されていない。政策や政治的責任は文献史料から評価する問題であり、骨格・DNAは回答しない。
Q8. Richardの顔は完全に復元されたのか?
頭蓋骨から科学的なcraniofacial reconstructionは作られたが、写真のような完全復元ではない。DNAから青い目96%、金髪77%という確率推定も得られた。
Q9. 食生活まで分かったのか?
stable isotope分析から、動物性タンパク質や海産物を含む高位者らしい食生活、さらに人生最後の数年間の食生活変化が示唆された。
Q10. 王でも寄生虫に感染していたのか?
腹部周辺の土壌からroundwormの卵が見つかった。ただし感染の重症度や症状は分からない。
Q11. 科学が歴史資料を不要にしたのか?
逆である。探索・同定・系譜・死亡状況の解釈はいずれも歴史資料なしでは成立しなかった。今回の成果は複数分野の統合による。
Q12. Richard III発見の最大の意味は何か?
一つの伝説を別の伝説へ置き換えたことではなく、人物像を検証可能な論点へ分解し、確定事実・確率的推定・歴史解釈・未解決問題を区別できるようにしたことにある。
最終結論|見つかったのは「答え」ではなく、答えられる範囲だった
527年間失われていたRichard IIIの墓は、2012年、Leicesterの駐車場の地下から見つかった。[1]
この出来事は、歴史ミステリーとしてあまりに完成度が高い。
最後のPlantagenet king。
Bosworthでの敗死。
失われた修道院。
消えた墓。
駐車場。
曲がった脊柱。
頭蓋の傷。
遠い親族のDNA。
そして2015年の再埋葬。
だからこそ、このCASEは一つのきれいな「真実発見物語」へまとめたくなる。
しかし実際の研究はもっと慎重だった。
骨格はRichardの身体を具体化した。
DNAは身元を強く支持した。
放射性炭素と同位体は年代と生活史を補った。
法医学は死亡状況を狭めた。
考古学は失われたGreyfriarsの空間を再構築した。
司法審査は、発見した歴史人物を現代社会でどう扱うかという別種の問題を可視化した。
一方で、Princes in the Towerは解決していない。
Richardの政治的責任も、王としての総合評価も科学では決まらない。
ShakespeareやThomas Moreを丸ごと真実/虚構へ分類することもできない。
最後の数分間も完全には戻らない。
それがこのCASEの最も重要な結論である。
科学が歴史を「全部解決した」のではない。
科学によって、何を事実として言え、何を確率として言え、何を依然として解釈として扱うべきかが、以前より明確になった。
Richard IIIは、発見前より単純な人物になったのではない。
むしろ逆である。
「醜い悪王」「Tudor propagandaの被害者」「最後の騎士王」といった一枚のラベルでは処理しにくくなった。
墓は見つかった。
身体は分かった。
死の一部も分かった。
それでも、歴史上の人物としてのRichard IIIは、史料を読み続けなければ理解できない。
駐車場の下から現れたのは、完成した答えではなかった。
500年以上積み重なっていた物語を、もう一度証拠ごとに分解して考え直すための実物だった。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] University of Leicester, “Richard III: Discovery and identification”
- [2] University of Leicester, “Discovering the remains”
- [3] University of Leicester, “Identifying the remains”
- [4] University of Leicester, “What the bones can’t tell us”
- [5] University of Leicester, “What we know now”
- [6] University of Leicester, “The face of a king”
- [7] University of Leicester, “Richard III’s diet and lifestyle”
- [8] Historic Royal Palaces, “The Princes in the Tower: murdered or survived?”
- [9] King, T. E. et al., “Identification of the remains of King Richard III”, Nature Communications 5, 5631 (2014)
- [10] Appleby, J. et al., “Perimortem trauma in King Richard III: a skeletal analysis”, The Lancet 385(9964), 253–259
- [11] Lamb, A. L. et al., “Multi-isotope analysis demonstrates significant lifestyle changes in King Richard III”, Journal of Archaeological Science 50 (2014), 559–565
リチャード3世|最後の王の遺骨はなぜ駐車場から発見されたのか 第8回 全8回 全8回を見る
- 01 リチャード3世の遺骨はなぜ駐車場から見つかったのか?|527年後の発見と同定を追う
- 02 1485年、リチャード3世はどこで死に、なぜGreyfriarsに葬られたのか?
- 03 リチャード3世|駐車場のどこを掘ったのか?|Greyfriars発掘とSkeleton 1発見まで
- 04 リチャード3世|骨格は何を語ったのか?|年齢・脊柱側弯・身体像を検証する
- 05 リチャード3世|なぜ「99.999%」本人と言えたのか?|DNA・系図・年代測定を統合した同定
- 06 リチャード3世|少なくとも11の傷は最期をどこまで語れるのか?|Bosworthでの死を法医学から読む
- 07 リチャード3世|発見後、遺骨はなぜレスター大聖堂に再埋葬されたのか?|司法審査から2015年まで
- 08 発見はリチャード3世像をどこまで変えたのか?|分かったこと・分からないこと