THE QUESTION
リチャード3世の遺骨はなぜ駐車場から見つかったのか? | 527年後の発見と同定を追う
1485年8月22日、イングランド王リチャード3世はボズワースの戦いで敗れ、32歳で死亡した。[12]王位を得たヘンリー・テューダー、のちのヘンリー7世の時代が始まり、リチャードの遺体はレスターへ運ばれた。彼は市内のフランシスコ会修道院Greyfriarsの教会に埋葬されたが、16世紀の宗教改革で修道院は解散・解体され、その後の市街地化の中で墓の正確な位置は分からなくなった。
それから527年後の2012年。レスター中心部の駐車場を発掘していた考古学チームが、人骨を発見した。骨格には顕著な脊柱側弯があり、頭蓋骨を中心に戦闘を思わせる損傷が残っていた。さらに発掘地点は、失われたGreyfriars教会の内陣と推定される場所だった。
ただし、この時点で「リチャード3世を発見した」と断定されたわけではない。
骨は誰のものか。死亡年代は合うのか。32歳で死亡した王と年齢は一致するのか。脊柱の状態は史料と整合するのか。戦場で死亡した人物とみてよいのか。そして、500年以上を隔てた血縁関係をDNAで追跡できるのか。
大学の考古学、骨学、放射性炭素年代測定、安定同位体分析、法医学、系譜学、古代DNA解析が一つずつ候補を絞っていった。そして2013年2月4日、University of Leicesterは、Greyfriarsで発見された「Skeleton 1」がリチャード3世本人であると発表した。さらに2014年の査読論文では、遺伝学的証拠と非遺伝学的証拠を統合した保守的な尤度比が約670万対1と計算され、本人であるという証拠は圧倒的だと結論づけられた。
この事件が興味深いのは、「王の遺骨が偶然、駐車場の下にあった」からだけではない。
むしろ本質は、歴史資料から失われた建物の位置を復元し、限られた発掘範囲から教会の構造を読み取り、発見した骨について複数の独立した証拠を重ね、最後に統計的に本人同定まで到達した点にある。
つまりこれは、527年間行方不明だった王を「見つけた話」であると同時に、歴史学・考古学・法医学・遺伝学が一つの問題へ接続された巨大な本人確認作業だった。
「駐車場の下から王が出た」は正しい。しかし、それだけではない
リチャード3世発見を紹介する記事では、「駐車場を掘ったら王の骨が出てきた」という説明がよく使われる。
事実として、発掘地点はレスター中心部の駐車場だった。University of Leicesterも、2012年8月にRichard III Society、Leicester City Councilと協力してGreyfriarsの発掘を開始し、そこで戦闘損傷と脊柱の湾曲を持つ骨格を発見したと説明している。
しかし、「場所が完全に分からない状態で適当に駐車場を掘った」という意味ではない。
University of Leicesterが現在公開している発掘記録では、Greyfriarsそのものの所在地が歴史から完全に消えていたわけではないことが強調されている。地図、土地利用の記録、旧修道院に関する史料、都市の区画などから、修道院がおおむねどの範囲に存在したかは追跡できた。
問題は、地上に修道院建築が残っていなかったことだった。
中世の修道院は解体され、その上には近世・近代・現代の建物や道路、駐車場が形成されている。地表を見ても「ここが教会の内陣だった」「この数メートル先に王の墓がある」とは分からない。したがって考古学チームが探したのは、単に「Greyfriarsがあった土地」ではなく、その地下に残った壁、床、回廊、教会などの遺構から建物全体の配置を再構成し、Richardが埋葬されたとされる教会内陣へ近づくことだった。
この違いは重要である。
失われていたのはレスターという都市でも、Greyfriarsという名前でもない。失われていたのは、都市の下に埋もれた修道院の具体的な平面配置と、その中にあった一つの墓の位置だった。
駐車場は「偶然そこにあった現代の地表面」であり、発掘の目的地はその下に残る中世のGreyfriarsだった。
1485年――王は戦場で死に、レスターへ戻された
発見の意味を理解するには、527年前へ戻る必要がある。
リチャード3世は1483年にイングランド王となったが、その治世は約2年で終わった。1485年8月22日、ボズワースの戦いでヘンリー・テューダー軍に敗れ、戦死した。University of Leicesterの研究ページや2014年のNature Communications論文はいずれも、Richardが32歳で死亡し、その死がプランタジネット朝の終焉とテューダー朝の始まりを画する出来事になったと整理している。
戦場で死亡したRichardの遺体は、勝者側によってレスターへ運ばれた。
大学の歴史整理によれば、遺体は市内で人々の目に触れる状態に置かれ、その後Greyfriarsの教会へ埋葬された。埋葬は王にふさわしい大規模な国葬ではなく、比較的簡素なものだったとみられている。後にヘンリー7世が墓を整備したとされるが、Greyfriars自体が1538年に解散し、その後建物が解体された。
ここから墓の「消失」が始まる。
重要なのは、骨がどこかへ移されたことが確認されていたわけではないという点である。修道院の建物が失われ、市街地の土地利用が変化した結果、墓の正確な位置を示す物理的な手掛かりが地上から消えた。
後世には、Richardの遺骨が修道院解体時に掘り出され、川へ投げ込まれたという伝承も生まれた。しかし、2012年の発掘が示したのは、その有名な物語とは逆の結果だった。
墓は消えていなかった。
地上から見えなくなっていただけだった。
2012年――考古学者は「王の骨」ではなく、まず修道院を探した
2012年のGreyfriars Projectでは、いきなり一つの墓を狙って穴を掘ったわけではない。
考古学的には、まず修道院の構造を確認する必要がある。
University of Leicesterの記録によると、プロジェクトは2012年8月24日に正式に始まり、翌25日から最初のトレンチの掘削が進められた。[1]最初の段階で人の埋葬を示す痕跡が現れ、その後約10日間の発掘によって、発見地点がGreyfriars教会の内陣に位置することが明らかになっていった。
発掘では、後世の建築物や解体時の瓦礫を取り除きながら、中世の壁、床、回廊などの位置関係を確認する。
第1・第2のトレンチからchapter houseやeastern cloister walkに関係する遺構が確認されると、そこから教会がどの方向に延びていたかを推定できる。建物の一部分が分かれば、平面配置の他の部分を逆算できる。そうして教会の位置、さらにchoir、すなわち内陣の位置が絞り込まれていった。
その過程で発見されたのがSkeleton 1だった。
2012年9月5日、骨格が本格的に発掘された。9月12日にはUniversity of Leicesterが、脊柱に湾曲があり、戦闘に関連する可能性のある傷を持つ男性骨格を発見したと公表し、Richard IIIである可能性があることを明らかにした。
ここで「可能性」とされたことは重要である。
発掘場所が合う。
性別が合う。
おおよその年齢が合う。
脊柱の特徴が史料と整合する。
戦闘時の損傷と考えられる傷がある。
これらは非常に強い手掛かりだったが、一つひとつはRichard IIIだけに固有の特徴ではない。
そのため、発見と本人確認は分けて考える必要がある。
2012年に見つかったのは、「Richard IIIの可能性が非常に高い骨格」であって、科学的検証を終えた本人確認結果ではなかった。
骨格が持っていた、異常なほど条件の揃った特徴
Skeleton 1が注目された最大の理由は、複数の条件が同時に一致したことにある。
まず、成人男性だった。
骨学的には20代後半から30代後半、より狭い推定では30~34歳とされた。Richard IIIは死亡時32歳であり、年齢条件は一致する。
次に、骨格には顕著な脊柱側弯があった。
Richardについては、後世の記述や肖像イメージの影響から極端な身体変形が語られてきた。一方、骨格が示したのは「せむし」という単純な像ではなく、重度のscoliosis、すなわち脊柱側弯だった。University of Leicesterによれば、右肩が左肩より高く見えた可能性はあるが、骨には萎縮した腕や歩行障害を示す証拠はない。
さらに、骨格には少なくとも11か所の周死期損傷が確認された。
特に頭蓋部には大きな損傷があり、戦場で死亡した人物という歴史記録と整合する。ただし、骨から傷を受けた順番までは決められない。また、死亡直前の傷と死亡直後の傷を骨だけで完全に区別することもできない。ここは後のCASE053-06で詳しく扱う。
そして最も重要なのが場所である。
骨格は、Richardが埋葬されたと伝えられるGreyfriars教会の内陣にあった。
年齢、性別、身体的特徴、戦闘損傷、埋葬位置。
これだけでも候補としては極めて強い。
しかし、研究チームはここで止まらなかった。
「DNAが一致したから本人」ではない
Richard IIIの本人確認は、しばしば「子孫とDNAが一致した」と一行で説明される。
これは完全な誤りではないが、かなり重要な部分を省略している。
第一に、500年以上前の人物について、「本人のDNAサンプル」が別に保管されているわけではない。
Skeleton 1からDNAを抽出できても、それ単独では名前は分からない。比較対象となる既知の血縁者が必要になる。
そこで研究チームは、Richardの家系を系譜学的に追跡し、母系と父系の血縁者を探した。母系で継承されるミトコンドリアDNA、父系で継承されるY染色体をそれぞれ比較し、骨格のDNAと照合した。
結果は単純な「全部一致」ではなかった。
ミトコンドリアDNAは、生存する母系親族との間で非常に強い一致を示した。一方、Y染色体は調査した父系親族と一致しなかった。
ここだけを取り出せば、本人同定に矛盾があるように見える。
しかし、父系の系譜ではRichard本人から現代の比較対象者まで多数の世代を挟む。そのどこかで、戸籍・系譜上の父と生物学的な父が異なる非父系事象が一度でも起きれば、Y染色体は系譜上の期待と一致しなくなる。University of Leicesterは、この不一致を含めて証拠全体を評価している。
つまり研究チームは、「都合のよいDNAだけ採用した」のではない。
一致した証拠も、不一致だった証拠も含めた。
そしてDNA以外の証拠と統合した。
これがRichard III同定の核心である。
年代測定も、最初から「1485年」と出たわけではない
放射性炭素年代測定も、この事件の方法論を理解するうえで興味深い。
Skeleton 1の肋骨から採取した試料は、University of Glasgow側のSUERCとUniversity of Oxfordの専門施設で測定された。ところが単純な測定結果は、Richardの死亡年1485年よりやや古い方向に見えた。
ここで研究チームは、安定同位体分析からこの人物が高タンパクで海産物を含む食生活を送っていたことを考慮した。
海洋由来の炭素を多く摂取すると、放射性炭素年代が実際より古く見える「marine reservoir effect」の影響を受けることがある。そのため食生活を踏まえた補正とBayesian modellingを行い、年代がRichardの死亡時期と矛盾しないことを確認した。
重要なのは、年代測定も「1485年という数字を直接当てた検査」ではないということだ。
年代測定の役割は、Skeleton 1がRichardの時代に生きた人物であるという条件と整合するか、あるいは明確に否定する年代が出ないかを検証することにあった。
本人確認は、一つの魔法の検査で完成したわけではない。
条件を一つずつ積み上げ、反証可能性を減らしていく作業だった。
最後は「証拠の束」を統計的に評価した
2014年、Turi Kingらの研究チームはNature Communicationsに本人同定研究を発表した。
論文では、考古学的位置、骨学、年代測定、遺伝学、系譜学などを分離して評価し、さらにそれらを統合して、「この骨格がRichard IIIである場合」と「Richard IIIではない無関係の人物である場合」のどちらが証拠をよりよく説明するかを比較した。
その保守的な統合尤度比は約670万対1だった。
これは「DNA検査の精度が99.999%だった」という意味ではない。
複数の証拠を合わせたとき、Richard IIIであるという仮説が別人仮説より圧倒的に支持された、という統計的評価である。
University of Leicesterも、この結論を「all the strands of 証拠」を合わせて判断したものとして説明している。
この表現は重要である。
Richard IIIの同定は、
- Greyfriars教会内陣という場所
- 年齢と性別
- 脊柱側弯
- 戦闘に整合する周死期損傷
- 放射性炭素年代と同位体
- 系譜
- ミトコンドリアDNA
- Y染色体の不一致も含む遺伝学的評価
を一つの証拠系として統合した結果だった。
どれか一つを外しても事件の理解は浅くなる。
2013年2月4日――「Skeleton 1」は王になった
発掘開始から約5か月後の2013年2月4日、University of Leicesterは記者会見で、Greyfriarsから見つかった遺骨がRichard III本人であると発表した。
ここで初めて、2012年9月に「Richard IIIの可能性がある」とされたSkeleton 1は、公的に本人と同定された。
この発表が世界的に注目された理由は分かりやすい。
歴史上著名な王の墓が500年以上不明だった。
その墓が都市中心部の駐車場の下に残っていた。
しかも骨格がかなり良好に残り、現代科学で本人確認までできた。
University of Leicesterによれば、骨格は足部や左腓骨など一部を欠くものの、500年以上地中にあったにもかかわらずほぼ完全な状態だった。19世紀の建築によるレンガ構造が骨格のわずか約90mm上まで達していた場所もあり、近代工事が少し深ければ遺骨が大きく破壊されていた可能性もあった。
つまり発見には、調査計画だけでなく保存の偶然も作用していた。
都市は何世紀にもわたり変化した。
修道院は解体された。
土地は再利用された。
その上に近代の構造物が建った。
それでも墓の主要部分は破壊されずに残った。
「なぜ今まで誰も見つけなかったのか」という問いと、「なぜ2012年には見つけられたのか」という問いの間には、都市考古学が扱う時間の層がある。
発見が修正したもの、発見しても分からなかったもの
Richard IIIの発見によって、少なくともいくつかの問題には物的証拠が加わった。
第一に、墓の所在である。
Richardの遺骨がGreyfriarsから移されて失われたという説ではなく、教会の埋葬地点付近に残っていたことが考古学的に確認された。
第二に、身体像である。
骨格には重度の脊柱側弯があったが、萎縮した腕など、後世の極端な身体描写を裏づける骨学的証拠はなかった。
第三に、死の状況である。
少なくとも11か所の周死期損傷が確認され、戦場で暴力的な死を迎えたという歴史記録と強く整合した。
第四に、遺伝学的特徴である。
母系DNAとの比較だけでなく、Y染色体の不一致まで含めて、王家の系譜を生物学的に検討する材料が得られた。
一方で、骨を発見したからといってRichard IIIをめぐる歴史上の論争がすべて解決したわけではない。
たとえば、彼がどのような王だったか。
王位継承をめぐる行動をどう評価するか。
「塔の王子たち」の失踪にどの程度関与したのか。
テューダー時代以降に形成された悪役像のどこまでが政治的宣伝で、どこまでが史実なのか。
こうした問題は、骨格のDNAや傷から直接答えを出すことはできない。
科学は強力だが、答えられる問いには境界がある。
Richard IIIの発見で最も重要なのは、歴史学を科学で置き換えたことではなく、それぞれの方法が答えられる範囲を接続したことだった。
2015年――二度目の埋葬
本人確認後には、別の問題が残った。
遺骨をどこに、どのように再埋葬するのか。
再埋葬先をめぐって司法審査も行われたが、裁判所自身が「Richard IIIをどこへ再埋葬するか」を決めたわけではない。2014年の判決は、争点が手続、義務、権限に関するものであり、再埋葬場所そのものを裁判所が決定する問題ではないと明示している。
最終的に遺骨はLeicester Cathedralへ移され、2015年3月26日に再埋葬された。
Leicester Cathedralの記録によれば、3月22日に遺骨はUniversity of Leicesterを離れ、Bosworth周辺を経由して大聖堂へ到着した。23日から25日まで安置され、26日に再埋葬式が行われた。
1485年の簡素な埋葬から530年後。
地上から失われたGreyfriarsの墓は、現代考古学によって再発見され、科学的に本人確認されたのち、別の場所で新しい墓を得た。
しかしCASE053で追うべき本当の物語は、ここまでの「奇跡的な発見」だけではない。
なぜGreyfriarsの位置を絞れたのか。
なぜ最初の発掘で重要な場所へ届いたのか。
骨格の側弯はどの程度だったのか。
「99.999%」という数字はどう計算されたのか。
Y染色体が一致しなかったのに、なぜ本人と判断できたのか。
少なくとも11の傷から、死の瞬間をどこまで復元できるのか。
そして、科学的発見は歴史上のRichard III像をどこまで変え、どこから先は変えられなかったのか。
次の記事では、まず1485年へ戻る。
ボズワースで死亡した王の遺体は、なぜレスターへ運ばれ、なぜGreyfriarsに埋葬されたのか。そして、確かに存在した王の墓は、どのように都市の地下へ姿を消していったのかを追う。
検証ポイント|この時点で確定していること
Richard IIIの死亡
1485年8月22日、Battle of Bosworthで死亡。死亡時32歳。
最初の埋葬地
レスターのFranciscan friary、Greyfriarsの教会内。研究ではchoirに埋葬されたとされる。
Greyfriars発掘開始
2012年8月。
Skeleton 1の発掘
2012年9月5日に本格的に掘り上げられ、9月12日にRichard IIIの可能性がある骨格として公表された。[8]
本人確認発表
2013年2月4日、University of LeicesterがRichard III本人と発表。
統合本人同定研究
2014年、Nature Communicationsに査読論文として公表。遺伝学的・非遺伝学的証拠を統合した保守的尤度比は約670万対1。
骨格の主な特徴
成人男性、推定30~34歳、重度の脊柱側弯、少なくとも11の周死期損傷。萎縮した腕を示す骨学的証拠はない。
DNA
母系のミトコンドリアDNAは生存血縁者との強い一致を示した。Y染色体は調査した父系血縁者と一致しなかったが、世代間の非父系事象で説明可能なため、他の証拠と統合して評価された。
再埋葬
2015年3月26日、Leicester Cathedralに再埋葬。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] University of Leicester, “Richard III: Discovery and identification”
- [2] University of Leicester, “Discovering the remains”
- [3] University of Leicester, “An overview of the Grey Friars project”
- [4] University of Leicester, “Identifying the remains”
- [5] University of Leicester, “Osteology – reading the bones”
- [6] University of Leicester, “Carbon dating and analysis”
- [7] University of Leicester, “Genetics and genealogy / DNA results”
- [8] King, T. E. et al., “Identification of the remains of King Richard III”, Nature Communications 5, 5631 (2014)
- [9] Historic England, “Greyfriars, Leicester”, National Heritage List for England 1442955
- [10] Leicester Cathedral, “Timeline: Richard and Leicester”
- [11] Leicester Cathedral, “King Richard III”
- [12] High Court of Justice, The Queen (on the application of Plantagenet Alliance Ltd) v Secretary of State for Justice, 2014
リチャード3世|最後の王の遺骨はなぜ駐車場から発見されたのか 第1回 全8回 全8回を見る
- 01 リチャード3世の遺骨はなぜ駐車場から見つかったのか?|527年後の発見と同定を追う
- 02 1485年、リチャード3世はどこで死に、なぜGreyfriarsに葬られたのか?
- 03 リチャード3世|駐車場のどこを掘ったのか?|Greyfriars発掘とSkeleton 1発見まで
- 04 リチャード3世|骨格は何を語ったのか?|年齢・脊柱側弯・身体像を検証する
- 05 リチャード3世|なぜ「99.999%」本人と言えたのか?|DNA・系図・年代測定を統合した同定
- 06 リチャード3世|少なくとも11の傷は最期をどこまで語れるのか?|Bosworthでの死を法医学から読む
- 07 リチャード3世|発見後、遺骨はなぜレスター大聖堂に再埋葬されたのか?|司法審査から2015年まで
- 08 発見はリチャード3世像をどこまで変えたのか?|分かったこと・分からないこと