THE QUESTION
発見後、遺骨はなぜレスター大聖堂に再埋葬されたのか? | 司法審査から2015年まで
STORY SO FAR
前回「少なくとも11の傷は最期をどこまで語れるのか?|Bosworthでの死を法医学から読む」で確認した論点を受け、この回では発見後、遺骨はなぜレスター大聖堂に再埋葬されたのか? | 司法審査から2015年までを扱う。
2012年8月、Greyfriarsの駐車場からSkeleton 1が見つかった。
2013年2月、University of Leicesterは、その遺骨がRichard III本人であると発表した。
そこで調査は終わらなかった。
次に問題になったのは、
「この遺骨を、最終的にどこへ埋葬するのか」
だった。
Richard IIIは1485年にGreyfriarsのchoirへ葬られた。
しかしGreyfriarsは宗教改革後に解体され、墓の位置も失われた。
2012年に発見された時点で、そこは教会墓地ではなく市街地の駐車場である。
つまり、発掘した遺骨をそのまま元の墓穴へ戻すという単純な選択肢ではなかった。
しかも発見されたのは、単なる無名の中世人骨ではない。
England最後の戦死王であり、Yorkshireとの結び付きも強く、現在まで歴史的評価が争われ続けるRichard IIIだった。
Leicester。
York。
Westminster。
「王はどこに眠るべきか」という問いは、考古学・法律・宗教・地域意識・王室との関係を一つに巻き込んだ。
最終的にRichard IIIが2015年3月26日、Leicester Cathedralに再埋葬されたのは、2014年のHigh Courtが「Leicesterこそ歴史的に最善」と選んだからではない。
むしろ逆である。
Leicester Cathedralへの再埋葬は、発掘前からプロジェクトの基本方針として組み込まれ、2012年の発掘許可・人骨移動許可の枠組みに接続されていた。
その後、Plantagenet Allianceが「もっと広い協議をすべきだった」と司法審査を求めたが、High Courtは、Secretary of Stateにそのような法的協議義務はなく、既存の許可を再検討しなかった判断も公法上不合理ではないと判断した。
裁判所はYorkとLeicesterを歴史コンテストとして比較し、勝者を決めたのではない。
既に成立していた行政・許可プロセスへ、裁判所が介入すべき違法性があるかを審査したのである。
Leicester Cathedralという案は、遺骨発見後に突然出てきたのではない
Richard IIIの探索プロジェクトでは、発掘前から「もし遺骨が見つかればLeicester Cathedralへ再埋葬する」という方向が存在していた。
2014年のHigh Court判決によれば、2011年4月20日の関係者会合では、Richard IIIの遺骨が発見された場合、Leicester Cathedralへの再埋葬が考古学上のbest practiceに合い、RichardとLeicesterの強い歴史的関係にも整合するという認識が共有された。[9]
発掘計画のWritten Scheme of Investigationにも、Richard IIIと確認された遺骨はLeicester Cathedralへ再埋葬する方針が入っていた。
理由の一つは距離である。
Leicester Cathedral、当時の正式名称ではCathedral Church of St Martinは、Greyfriarsの旧埋葬地に近いconsecrated ground、聖別されたキリスト教施設だった。
考古学的に発掘されたChristian human remainsは、可能であれば元の墓地に近い教会・教会墓地へ尊厳をもって再埋葬するという考え方とも整合した。
さらにRichardはBosworthで死亡後、Leicesterへ運ばれ、Greyfriarsで500年以上埋葬されていた。
Leicester Cathedralには発見以前からRichard IIIの記念碑も置かれていた。
したがって「発見した大学が地元に残したかったから」という一要因だけでLeicesterが選ばれたわけではない。
発掘計画そのものが、Richardの元の埋葬地と同じ都市・同じ教区に近い宗教施設へ戻すという考え方で組み立てられていた。
2012年8月、人骨が出た時点で発掘は一度止まった
CASE053-03で見たように、2012年8月25日、最初のtrenchから人の脚骨が現れた。
人骨が見つかった以上、考古学チームは好きなように掘り上げて分析することはできない。
発掘は止められ、正式なexhumation licence、人骨の掘り出し・移動を認める許可が必要になった。
ULASのRichard Buckleyは2012年8月31日、Ministry of Justiceへ申請した。
申請では、Greyfriarsの調査で最大6体の人骨を科学分析のために掘り上げること、そして「万一Richard IIIの遺骨が発見された場合」はSt Martin’s Cathedral, Leicesterへ再埋葬する意向が示されていた。
この段階では、Skeleton 1がRichard IIIだと確認されていたわけではない。
むしろ発見確率は低いと考えられていた。
それでも、もしRichardだった場合の出口まで先に計画されていたのである。
Ministry of Justiceの許可は何を認めたのか
2012年9月3日、Secretary of State for JusticeはBurial Act 1857 section 25に基づくlicenceをUniversity of Leicester側へ発給した。
許可には、人骨の取り扱いをdecency、尊厳を保って行うこと、作業中は人骨が公衆の視線にさらされないようにすることなどの条件が付いていた。
また遺骨は、Jewry Wall Museumへ収蔵するか、St Martin’s Cathedral、あるいは法的に埋葬可能な場所へ再埋葬するという文言になっていた。
この許可文だけを読むと、複数の選択肢があるようにも見える。
実際、後の司法審査でもそこは論点になった。
High Courtは、licence単体ではなく、申請書とMinistry of Justiceのcovering letterを合わせて読むべきだと判断した。
申請時にRichard IIIと確認された場合の意図がLeicester Cathedralだと明示され、許可側もその理解で発給していたからである。
判決は、その許可がSecretary of Stateによって変更されない限り、ULASはRichard IIIの遺骨をLeicester Cathedralへ再埋葬する義務を負うという読み方を示した。
ここで重要なのは、licenceが「Leicester Cathedralが歴史的に唯一正しい墓所」と宣言したわけではないことだ。
これは発掘・人骨移動を法的に行うための行政許可であり、その中に再埋葬条件が組み込まれていた。
2013年2月4日、本人確認と同時に再埋葬計画も表へ出た
2013年2月4日、University of LeicesterはSkeleton 1がRichard III本人であると発表した。
同じ場で、University、Leicester City Council、Leicester Cathedralは、Leicester Cathedralで再埋葬する方針を確認した。
この時点から議論が一気に拡大する。
Richardは若い時期から北部England、とくにYorkshireと強い関係を持っていた。
Council of the Northの拠点やYorkでの活動、北部貴族としての経歴を理由に、York Minsterへ埋葬すべきだという声が上がった。
ほかにWestminster Abbeyを支持する意見もあった。
2013年2月6日にはCity of YorkがSecretary of StateへYork Minsterでの再埋葬を求める意見を送った。
ただし、York Minster自身が一貫してRichardの遺骨を要求したわけではない。
翌2月7日、York MinsterはLeicester Cathedral側の希望を支持する声明を出し、その後はよりneutralな立場へ移った。
したがって、この争いを単純に「Leicester Cathedral対York Minster」と書くのは正確ではない。
Yorkへの埋葬を求める政治的・市民的運動と、York Minsterという教会組織の公式姿勢は分けて考える必要がある。
Plantagenet Allianceとは何だったのか
法的争いの中心になったのはPlantagenet Alliance Limitedである。
High Court判決によれば、これはStephen Nicolayが設立したnot-for-profit entityで、Richard IIIのcollateral descendants、傍系子孫を名乗る複数の人々を代表して訴訟を進めた。
Richard III本人には現在まで続く直系子孫はいない。
ここでいう「relative」は、兄弟姉妹や祖先を経由して何世代も離れた傍系親族である。
判決は、そうした生存傍系子孫が世界に何百万人単位で存在し得ることも指摘した。
Plantagenet Allianceの目的は、単に「Yorkへ持って行け」と命令を求めることではなかった。
法的には、
Richard IIIと確認された後、Secretary of Stateや関係機関は、再埋葬地について親族や一般市民を含む適切なconsultationを行うべきだったのではないか
という公法上の問題を提起した。
最終的な実質的希望はYork Minsterを選択肢として正式に検討させることだったが、司法審査の形式は「どの都市がRichardにふさわしいか」という歴史論争そのものではなかった。
行政手続が合法だったかが争われたのである。
Judicial Reviewは「再埋葬地を裁判官に選んでもらう裁判」ではない
ここはCASE053-07の最重要点である。
Judicial Review、司法審査は、裁判所が行政機関に代わって「最も良い政策」を決める制度ではない。
今回のHigh Courtも、Richard IIIをLeicesterとYorkのどちらへ埋葬すべきかを歴史的 merits で投票したわけではない。
裁判所が検討した中心は、
- Secretary of Stateにpublic consultationを行う法的義務があったか
- 本人確認後にlicenceを再検討しなかったことが不合理だったか
- 十分な情報収集をしないまま決めた違法があったか
- UniversityやLeicester City Councilに公法上のconsultation dutyがあったか
という問題だった。
判決文自体が、行政判断について裁判所が見るのはpoliticsではなくrationalityだという趣旨を明確にしている。
したがって2014年5月の結果を、
「High CourtがRichard IIIはLeicesterに埋葬されるべきだと歴史的に認定した」
と書くのは誤りである。
なぜ「親族への相談義務」が認められなかったのか
Plantagenet Allianceは、Richard IIIのようにidentifiableな遺骨なら、関係する親族へ意見を聞くべきだと主張した。
一般に現代の墓から識別可能な遺体を移す場合、next of kinへの配慮は重要になる。
しかしRichard IIIの場合、死亡から500年以上経過している。
近親者はいない。
傍系子孫をどこまで「親族」としてconsultすべきかを定める明確な境界もない。
High Courtは、common law上すべての行政判断に一般的なconsultation dutyがあるわけではないとした。
法定義務。
相談すると約束した場合。
確立した相談慣行。
相談しないことがconspicuously unfairとなる例外的状況。
そうした根拠が必要になる。
裁判所は、Richard IIIのように500年前の歴史人物が考古学的に発見された場合、遠い傍系子孫へ相談するという確立した慣行は存在しないと判断した。
また「前例のない特別な事件だから相談義務を作るべき」という主張についても、exceptionalだからというだけで範囲不明の新しい義務を作るのは適切でないとした。
「一般市民へ広く聞けばよかった」という主張も通らなかった
Alliance側は、親族全員を探し出す必要がなくても、webなどを通じて広くpublic consultationを行えると主張した。
しかし裁判所は、そのconsultationの範囲をどこで区切るのかという問題を重視した。
Leicester住民。
York住民。
Richard III Society。
歴史研究者。
教会。
王室。
何百万人いる可能性がある傍系子孫。
全国一般市民。
誰の意見をどの重みで数えるのか。
司法審査で裁判所自身が、そのような制度設計を新たに作ることはできない。
判決は、相談が政治的には望ましい場面があったとしても、それと「法律上、相談しなければ違法」という結論は別だとした。
Secretary of Stateは、本人確認後にlicenceを見直す必要がなかったのか
もう一つの中心論点は、2012年の段階では「本当にRichard IIIが見つかる可能性は低い」と考えられていたことだった。
ところが2013年2月、候補骨格は本当にRichard本人と確認された。
ならば、その時点でMinistry of Justiceはlicence条件を一から再検討し、Yorkを含む選択肢を正式に調べ直すべきだったのではないか。
High Courtは、この主張も退けた。
裁判所が確認したのは、Secretary of Stateが既にかなり多くの情報を持っていたことだった。
Leicester Cathedralは発掘地点に近い。
元のGreyfriarsと同じ地域にある。
プロジェクト関係者は発掘前からLeicester再埋葬を計画していた。
Leicester City Councilも同意していた。
Church of England側もLeicesterを受け入れていた。
Royal Householdも代替案を積極的に求めていなかった。
York Minsterは遺骨を自ら要求していなかった。
YorkとLeicester双方に強い世論が存在することも、政府は把握していた。
この状況で、Secretary of Stateがさらに新しいpanelやpublic consultationを設けなかったことを「合理的行政判断ではあり得ない」とまでは言えない、と裁判所は判断した。
つまり、追加調査が可能だったかと、追加調査をしなかったことが違法だったかは別なのである。
Richard自身は「Yorkに埋めてほしい」と残していたのか
York埋葬論でしばしば出るのが、Richard IIIはYorkに強い愛着を持ち、そこへ葬られることを望んでいたはずだという議論である。
High Courtもこの点を検討した。
RichardがYorkに大規模なchantry、祈祷施設を設けようとしていた計画などは知られている。
しかし裁判所は、それをRichard本人の明確なburial wish、埋葬地指定とみなすことはできないとした。
判決は、Richardが自分の墓所についてdefinitive wishesを残した直接証拠はないと整理している。
したがって、
「Richard本人の遺言でYork Minster埋葬が指定されていたのに無視された」
という事実関係ではない。
一方、
「Richardは北部との関係が深かったのでYorkの方が歴史的にふさわしい」
という意見は歴史解釈として存在し得る。
裁判所が否定したのはYorkとの歴史関係ではなく、それが行政許可を違法にするほど明確な本人意思として証明されているという主張である。
UniversityにもPublic Law上のconsultation dutyはなかった
Judicial ReviewではUniversity of Leicester自身の立場も争われた。
High Courtは、今回のexhumation、保管、再埋葬に関してUniversityやULASがpublic functionを行使していたとは言えないとした。
ULASはBurial Act 1857 section 25のlicenceをprivate bodyとして申請し、private bodyとして受けていた。
したがってUniversityに対して公法上のconsultation dutyを課すことはできない。
Leicester City Councilについても、遺骨が土地から正式にexhumedされた後、Councilが再埋葬地を決める法的権限や相談義務を持つという主張は認められなかった。
この点も、
「Leicesterの行政・大学・大聖堂が一体となって勝手に王の墓を決め、裁判所が追認した」
という単純な構図ではないことを示す。
誰にどの権限があり、誰にどの公法上の義務があるかが個別に検討されたのである。
2014年5月23日、Judicial Reviewはdismissされた
High CourtのDivisional Courtは2014年5月23日、Plantagenet Allianceのapplication for Judicial Reviewをdismissした。
判決の結論は、
争われた行政判断へ裁判所が介入するpublic law groundsはない
というものだった。
Secretary of Stateにconsultation dutyはなかった。
licenceを再検討しなかったことも、公法上不合理ではなかった。
Universityにも今回の局面で公法上の相談義務はなかった。
Councilにも、遺骨が土地から移された後に再埋葬を左右する権限・相談義務は認められなかった。
これによって、Leicester Cathedralへ再埋葬する既存計画を法的に止める障害はなくなった。
ただし繰り返すが、
裁判所がLeicesterを新たに選んだのではない。
Leicesterへ進む既存の行政・許可プロセスを覆す法的理由が認められなかった。
この違いが重要である。
判決後、問題は「どこへ埋めるか」から「どう埋めるか」へ移った
Judicial Reviewが終わると、再埋葬の実務準備が本格化した。
Leicester Cathedralでは新しい墓所と内部空間の整備が必要だった。
Leicester City Councilは2014年6月17日、Cathedralの工事を進めるため、最大£250,000のunderwriting assuranceを提供する決定を行った。[9]
Council資料では、Cathedral内の建設工事やprofessional feesを含む費用は約£1 millionとされ、大口寄付とfundraisingを組み合わせて整備する計画だった。
ここから先は、司法判断よりも宗教施設・都市・大学が実際に再埋葬を成立させる工程になる。
2015年3月15日、骨は棺へ納められた
2015年3月15日、University of LeicesterでRichard IIIの遺骨をcoffinへ納めるprivate ceremonyが行われた。
骨学者Jo Applebyら研究チームが遺骨を配置した。
小骨や研究試料も含めて納められ、再埋葬後に再び墓を開けて研究する計画はないとされた。
外側のoak coffinを製作したのはMichael Ibsen。
CASE053-05で登場した、Richard IIIの姉Anne of Yorkから母系でつながる現代親族である。
本人同定のためにDNAを提供した親族が、最終的な棺を制作する役割も担った。
これは法的要件ではなく、2015年の再埋葬プロジェクトが持った象徴的な構成だった。
3月22日、UniversityからCathedralへ管理が移った
2015年3月22日、Richard IIIの棺はUniversity of Leicesterを出発した。
Bosworth Battlefield周辺を経由し、Richardの最後の移動と関連するLeicestershireの各地を通り、Leicester市内へ戻った。
その日の最終地点がLeicester Cathedralだった。
Universityの記録によれば、Richard Buckleyは、Ministry of Justice licenceのholderとしてUniversityが担ってきた遺骨のcareをCathedral側へ正式に引き渡した。
これは単なるceremonial processionではない。
2012年に発掘許可を受けた大学が保管してきた遺骨が、最終的な埋葬を行う宗教施設へ渡る節目でもあった。
3日間のlying in repose
3月23日から25日、Richard IIIの棺はLeicester Cathedralでlying in reposeとなった。
Cathedralの記録では、3日間で20,000人を超える人々が弔問した。
500年以上、墓の位置すら失われていた王の遺骨が、再び公的な葬送儀礼の中心に置かれたことになる。
ただし2015年の行事は、1485年のburialをそのまま再現したものではない。
Richard IIIはRoman Catholic Englandの王として生きたが、Leicester Cathedralは現代Church of Englandのcathedralである。
再埋葬行事ではAnglicanの枠組みを中心としながら、Roman Catholic Churchの代表も参加し、Richardの宗教的・歴史的背景を意識した構成が取られた。
2015年3月26日、Leicester Cathedralへ再埋葬
3月26日、Service of Reintermentが行われ、Richard IIIの遺骨はLeicester Cathedralの新しい墓へ埋葬された。
翌27日、新しいtombstoneが公開された。
現在の墓は、Greyfriarsにあった1485年の墓そのものではない。
元のGreyfriars siteから近いが、別の宗教施設に新たに設けられた最終墓所である。
したがって地図を見る場合も、
2012年の発掘地点=Greyfriars
2015年以降の墓所=Leicester Cathedral
を混同しないことが重要である。
MAP|現在の再埋葬先
Google MapsでLeicester Cathedralの位置を確認
このリンクは現在のRichard III墓所であるLeicester Cathedralの位置確認用であり、1485年のGreyfriars埋葬地点を示すものではない。
なぜ最終的にLeicesterだったのか
ここまでの経緯を一つにまとめると、理由は一つではない。
第一に、発掘前からLeicester Cathedral再埋葬がプロジェクト計画へ組み込まれていた。
第二に、Greyfriarsの元墓所に近いconsecrated groundであり、考古学的Christian remainsの再埋葬先として合理的だった。
第三に、2012年のexhumation licenceと申請書の組み合わせが、その方針を法的・実務的枠組みにした。
第四に、Royal Household、Church of England、Leicester側関係機関などが、Leicester Cathedral案に重大な異議を示していなかった。
第五に、Yorkを含む別案を正式なpublic consultationで比較すべきだというJudicial Reviewは、2014年にdismissされた。
第六に、Richard自身がYorkなど別の墓所を明確に指定したという証拠は確認されなかった。
これらが積み重なって、2015年のLeicester Cathedral再埋葬へ進んだ。
「LeicesterがRichardに最もふさわしい都市だと裁判所が決定した」
のではない。
既に存在したLeicester再埋葬計画を法的に再オープンしなければならない理由が、High Courtでは認められなかった。
その後、Cathedralと地域社会が実際の墓所・儀礼を完成させたのである。
検証ポイント|再埋葬とJudicial Review
Q1. Leicester Cathedralは遺骨発見後に急きょ候補になったのか?
いいえ。発掘前の計画段階から、Richard IIIが見つかった場合はLeicester Cathedralへ再埋葬する方針が存在した。
Q2. 人骨を掘り上げるのに許可は必要だったのか?
必要だった。2012年に人骨が見つかったため発掘を一度止め、ULASがMinistry of Justiceへ申請し、Burial Act 1857 section 25に基づくexhumation licenceを得た。
Q3. licenceには「必ずLeicester Cathedral」とだけ書かれていたのか?
licence本文にはJewry Wall Museum、St Martin’s Cathedral、または法的に埋葬可能な墓地という文言があった。ただしHigh Courtは申請書・covering letterと合わせて読み、Richard IIIと確認された場合の合意された方針はLeicester Cathedralだったと判断した。
Q4. York Minster自身がRichardの遺骨を要求してLeicesterと裁判したのか?
違う。Yorkへの再埋葬を求める意見は強く存在したが、York Minsterは当初Leicester Cathedralを支持し、その後neutralな立場を取った。Judicial Reviewを起こしたのはPlantagenet Alliance Limitedである。
Q5. Plantagenet Allianceは何を求めたのか?
Richard IIIの遠い傍系親族などの意見を含め、再埋葬地についてpublic consultationや適切な再検討を行うべきだったと主張した。実質的にはYork Minsterを正式な候補として検討させることを目指していた。
Q6. High CourtはLeicesterとYorkのどちらが歴史的に正しいか判断したのか?
していない。裁判所は行政判断の合法性・合理性・consultation dutyの有無を審査した。
Q7. 親族へのconsultation dutyは認められたのか?
認められなかった。500年以上前の歴史人物について、遠い傍系子孫へ相談する確立した法的慣行や一般的義務はないとされた。
Q8. Secretary of Stateは本人確認後、licenceを見直す義務があったのか?
High Courtは、既に持っていた情報の下で見直しを行わなかった判断が公法上不合理とは言えないとした。
Q9. University of Leicester自身にpublic law上のconsultation dutyはあったのか?
High Courtは、今回University/ULASがpublic functionを行使したとは認めず、公法上のconsultation dutyはないと判断した。
Q10. Richard自身がYorkへ埋葬してほしいと遺言していたのか?
そのようなdefinitive wishを示す直接証拠は確認されていない。Yorkとの強い歴史的関係はあるが、それと明確な埋葬指定は別である。
Q11. Judicial Reviewの結果は?
2014年5月23日、High CourtはPlantagenet Allianceのapplicationをdismissした。既存のLeicester再埋葬計画を裁判所が止める公法上の理由は認められなかった。
Q12. 再埋葬はいつ行われた?
2015年3月26日、Leicester CathedralでService of Reintermentが行われた。
「王の墓」を決めたのは、一つの判決ではなく連続したプロセスだった
Richard IIIの再埋葬は、発掘プロジェクトの付録ではない。
むしろ発見後に初めて明らかになった、もう一つの難しい問題だった。
考古学者は遺骨を見つけることができる。
遺伝学者は本人同定へ近づける。
法医学者は死の状況を分析できる。
しかし「発見した歴史人物を現代社会でどこへ埋葬するのか」は、科学だけでは答えられない。
Richard IIIの場合、その答えは発掘前の計画、Burial Actに基づくlicence、教会・大学・自治体の役割、王室の姿勢、Yorkを支持する世論、司法審査という複数の制度を通って形成された。
High Courtは墓所を設計しなかった。
Richardの政治的評価もしなかった。
YorkよりLeicesterを愛していたと認定したわけでもない。
裁判所が行ったのは、政府や関係機関の決定へ介入するpublic law上の理由があるかを確認することだった。
その結果、既存のLeicester Cathedral計画は維持された。
そして2015年3月26日、1485年の簡素なGreyfriars burialから約530年後、Richard IIIは再びLeicesterの地へ埋葬された。[1]
次のCASE053-08では、この一連の発見がRichard III像を実際にどこまで変えたのかを整理する。
骨格は側弯を確認した。
傷は戦場死の一部を可視化した。
DNAは本人同定を強く支えた。
しかし、それで「善王か悪王か」「Princes in the Towerに何が起きたか」「Tudor propagandaはどこまで虚偽だったか」まで解決したわけではない。
最後は、科学が確定したことと、なお歴史解釈として残ることを明確に分ける。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] The Queen (on the application of Plantagenet Alliance Ltd) v Secretary of State for Justice & Others, [2014] EWHC 1662 (Admin), High Court of Justice, Divisional Court, 23 May 2014
- [2] High Court of Justice, “King Richard III permission judgment” (2013)
- [3] University of Leicester, “The stirrings of controversy”
- [4] University of Leicester, “The road to reinterment”
- [5] University of Leicester, “Preparing the king for reburial”
- [6] Leicester Cathedral, “Timeline: Richard and Leicester”
- [7] Leicester Cathedral, “King Richard III”
- [8] Leicester Cathedral, “Reinterment day”
- [9] Leicester City Council, “Leicester Cathedral – Reinterment of King Richard III”, decision of 17 June 2014
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