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1485年、リチャード3世はどこで死に、なぜGreyfriarsに葬られたのか?

ボズワースの戦いで馬上のリチャード3世を描いた歴史画
Edmund Blair Leighton, "Richard III at the Battle of Bosworth.jpg", via Wikimedia Commons, Public Domain / PD-Art. 出典 Public Domain / PD-Art

THE QUESTION

1485年、リチャード3世はどこで死に、なぜGreyfriarsに葬られたのか?

STORY SO FAR

前回「リチャード3世の遺骨はなぜ駐車場から見つかったのか?|527年後の発見と同定を追う」で確認した論点を受け、この回では1485年、リチャード3世はどこで死に、なぜGreyfriarsに葬られたのか?を扱う。

リチャード3世の墓が527年間「失われた」理由を理解するには、2012年の駐車場からではなく、1485年8月22日のボズワースから始める必要がある。[6]

この日、イングランド王リチャード3世はヘンリー・テューダーの軍と戦い、戦場で死亡した。王位は勝者へ移り、ヘンリー・テューダーはヘンリー7世となる。リチャードの遺体は戦場に残されたのではなく、レスターへ運ばれ、市民に死亡を確認させるように公開されたのち、Greyfriarsと呼ばれたフランシスコ会修道院の教会へ埋葬された。

しかし、ここで一つ注意が必要である。

「なぜGreyfriarsだったのか」という問いには、現在も確定した答えがない。

University of Leicesterは、ヘンリー7世が聖フランチェスコを崇敬していた可能性、修道士側が埋葬を引き受けた可能性、あるいは市庁舎に近く墓を管理しやすかったという実務的理由などを候補として挙げている。ただし、どれか一つを決定的理由として裏づける史料は残っていない。

分かっているのは、Richardの遺体がレスターへ運ばれ、おそらく8月25日ごろ、Greyfriars教会に比較的簡素な形で埋葬されたこと。そして考古学的発掘によって、その埋葬が豪華な王墓とはかなり異なるものだったことが確認された、という点である。

この「簡素な埋葬」と、その後1538年の修道院解散、建物の解体、土地の私有化が重なり、墓は地上から見えなくなっていった。

墓そのものがどこかへ消えたのではない。

墓の上に存在した建物、標識、記憶の座標が消えていったのである。

ボズワースで王朝が切り替わった日

1485年8月22日のBattle of Bosworthは、リチャード3世個人の死だけでなく、イングランド王位の移行を決定した戦いだった。

リチャードは1483年に即位したヨーク派の王で、ヘンリー・テューダーは彼に挑戦した側だった。戦闘の詳細や兵力配置については史料間に議論があるが、結果は明確である。Richardは戦場で死亡し、Henryが王位を獲得した。

Nature Communicationsの本人同定論文やUniversity of Leicesterの研究整理では、Richardは32歳で死亡し、プランタジネット朝最後の王、かつ戦闘で死亡した最後のイングランド王として位置づけられている。

戦いのあと、Richardの身体は勝者側の管理下に置かれた。

ここからは、王の遺体の扱いそのものが政治的意味を持つ。

中世の王位争いでは、敗者が本当に死亡したことを社会へ示す必要がある。とりわけ王位継承が争われた直後には、「前王は実は生きている」という噂や、本人を名乗る人物の出現が、新政権の安定を脅かす可能性がある。

University of Leicesterが紹介する同時代に近い記録では、Richardの遺体は戦場からレスターへ運ばれ、十分な尊厳をもって扱われなかったとされる。別の記録では、身体の一部を粗末な布で覆った状態で数日間、人々の目に触れるようにされたとも記される。

これらの記録には後世の敵対的な語りが混入している可能性を考える必要があるが、少なくとも「遺体をレスターへ戻し、人々が死を確認できるようにした」という大枠は考古学・歴史学の双方から支持されている。

なぜレスターだったのか。

Richardは戦いの直前にレスターを通過していた。市民にとって彼は、戦場へ向かう直前まで生きていた国王だった。そこへ死亡した身体を戻せば、政権交代が現実のものだと示す効果は大きい。

現代の映像報道も写真もない時代、遺体そのものが政治的事実を証明する媒体になったのである。

遺体は「王」としてではなく、敗者として戻ってきた

王の葬送という言葉からは、棺、儀礼、聖職者、大規模な行列、墓碑を想像しやすい。

しかし1485年のRichardの最初の埋葬は、そのイメージから遠い。

University of Leicesterが整理する史料では、Richardは通常の王室葬儀を受けず、Greyfriarsの教会へ埋葬された。Polydore Vergilなど後代の記録も、十分な葬儀儀礼を伴わない埋葬だったと伝える。

2012年の考古学的発掘は、この点を物理的にも補強した。

墓穴は整った長方形ではなく、不規則で、遺体に対して十分な長さがなかった。University of Leicesterの発掘記録によれば、身体は墓の中でやや窮屈な姿勢になり、頭部と胴体が端へ寄った状態だった。

棺を使用した証拠もなかった。

また、身体全体が密に包まれるような布製のshroudを示す明確な証拠も確認されていない。

ここから「遺体が粗雑に放り込まれた」とまで断定すると行き過ぎるが、少なくとも後世の王室埋葬のように慎重に設計された墓ではなかったと考えられる。

一方、埋葬位置そのものは軽視できない。

墓はGreyfriars教会のchoir、内陣の中に位置していた。

中世の教会内部に埋葬されること自体が一定の地位を示す。つまりRichardの埋葬には、「敗れた王を豪華に弔わない」という扱いと、「それでも教会内部の比較的重要な位置に埋葬する」という二つの側面が同居している。

だからこの墓を単純に「侮辱目的の穴」とだけ説明するのも不正確である。

なぜGreyfriarsだったのか――答えは一つに決められない

Richardの遺体がレスターへ運ばれたことは理解しやすい。

では、なぜ最終的な埋葬場所がGreyfriarsだったのか。

ここには決定的史料がない。

University of Leicesterは複数の可能性を紹介している。

一つは、勝者Henry VIIとフランシスコ会との宗教的関係である。Henryが聖フランチェスコへの信仰を持っていたため、その修道院が選ばれた可能性がある。

別の可能性は、Greyfriars側が遺体を引き受けたこと。

さらに実務的な説明として、修道院が当時のtown hallに近く、墓の存在を把握・管理しやすかったことも考えられる。

しかし、これらは「可能性」である。

歴史記事では、理由の候補が複数あるとき、そのうち最も物語として分かりやすいものを事実のように書いてしまいやすい。

CASE053ではそうしない。

RichardがGreyfriarsに埋葬されたことは高い確度で確認できる。

その墓が教会内陣にあったことは発掘で確認できる。

しかし「Henry VIIがこの理由でGreyfriarsを選んだ」とまでは確定できない。

この境界を残すことが必要である。

10年後、勝者ヘンリー7世は墓を整えた

1485年の埋葬が簡素だったとしても、そのまま永久に何の標識もない状態だったわけではない。

University of Leicesterの整理では、Richardの死から約10年後、Henry VIIは墓の上に適切な墓碑を設置したとされる。後世の記録では、色付きのアラバスターの板や王の姿を表した装飾があった可能性が示されているが、墓碑そのものは現存しない。

なぜ勝者が、倒した前王の墓を整えたのか。

ここでも単一の動機を断定することはできない。

ただし時期は興味深い。

Henry VIIの初期統治は安定一色ではなかった。ヨーク派の支持を背景にした王位僭称者が現れ、とりわけPerkin Warbeckは、自分がEdward IVの息子Richard of Shrewsburyであると主張し、Henry政権を揺さぶった。

University of Leicesterは、こうした政治的不安の時期にRichardの墓が整備されたことを、前王の死と新王朝の正統性を改めて示す象徴的行為として読む可能性を提示している。

つまり墓は単なる埋葬設備ではない。

誰が死に、誰が王位を継承したのかを記憶させる政治的装置にもなり得た。

1485年には敗者として簡素に埋葬され、その約10年後には墓碑が置かれる。

この変化は、Richard本人への評価が好転したと単純に理解するより、Henry VIIの政権が「前王は確かに死に、自分が王である」という秩序を固定していく過程の一部として見るほうが慎重である。

1538年――墓を隠したのは、宗教改革と都市の再利用だった

Richardの墓が後世に失われる決定的な転換点は、1538年に来た。

Henry VIIIの時代、イングランドでは修道院解散が進められた。

Greyfriarsも1538年11月に王権へ引き渡された。University of Leicesterによれば、当時すでに修道院は裕福な施設ではなく、残っていた修道士は7人だった。

その後、建物は解体されていった。

1545年、土地はJohn BellowとJohn Broxholmeへ売却され、残存建物の木材や石材の一部は他の建物の修繕へ再利用されたとされる。

ここでRichardの墓を識別していた教会という空間が消える。

教会の壁がなくなる。

内陣の位置が見えなくなる。

墓碑も失われる。

土地は別用途へ転換される。

それでも地下の墓穴と骨格はその場に残った。

この状態が、「墓は存在するが、地上から墓だと分からない」という状況を作った。

考古学的には珍しくない現象である。

都市では古い建物の上に新しい建物が造られる。道路、庭、住宅、商業施設、駐車場が何度も土地を上書きする。地表の景観が完全に変わっても、地下には前の時代の基礎、床、墓、廃棄物層が残ることがある。

Richardの墓は、まさにその時間の層の中へ入った。

「川に投げ捨てられた」という有名な話は、なぜ信じられたのか

墓の正確な位置が分からなくなると、空白を物語が埋める。

Richard IIIの遺体について最も有名になったのが、「修道院解体時に掘り出され、River Soarへ投げ込まれた」という伝承である。

この話はJohn Speedが1611年に記したことで広く知られるようになった。

しかしUniversity of Leicesterは、この伝承が実際の出来事から73年後に初めて文章化された点を指摘している。Speedが地元の口承を聞いた可能性はあるが、同時代の別資料による裏付けは乏しい。

しかも、同じ時代には逆方向の証拠もある。

Greyfriars跡地の所有者となったRobert Herrickは、庭にRichardを記念する碑を設けていたとされる。その文言は、Richardの身体がそこにあると認識していたことを示す内容だった。

Herrickは1540年生まれで、Greyfriars解体期に近い世代の人々から記憶を聞ける立場にいた。

つまり17世紀初頭には、

「Richardの骨は川へ捨てられた」

という物語と、

「Richardは旧Greyfriarsの敷地にまだ埋葬されている」

という認識が併存していたことになる。

後世には前者のほうが劇的で、広く流布した。

しかし2012年の発掘は、少なくとも結果としてHerrick側の認識に近かったことを示した。

骨格はGreyfriarsの教会跡で、埋葬された位置から大きく動かされずに残っていた。

527年間、川に投げ込まれていたのではない。

ずっと都市の地下にあった。

それでも「Greyfriarsの場所」は完全には忘れられていなかった

ここで、もう一つよくある誤解を修正する必要がある。

Richardの墓が失われたことと、Greyfriarsの敷地そのものが完全に不明になったことは同じではない。

University of Leicesterは、修道院のサイト自体は「never actually been lost」と説明している。

旧Greyfriarsの土地がレスター中心部のどのあたりにあったかは、歴史資料や地図、土地所有の記録からある程度追跡できた。

しかし、修道院の建物が地上から消えたため、教会が敷地のどこにあり、その内部のchoirがどこで、Richardの墓がその中のどこにあるかは分からなくなっていた。

これは位置情報の解像度の問題と考えると分かりやすい。

都市レベルではレスター。

地区レベルではGreyfriars跡地。

しかし建物レベルでは教会の正確な輪郭が不明。

さらに墓レベルでは座標が失われている。

2012年の発掘が解いたのは、最後の二段階だった。

地下遺構から修道院の平面配置を復元し、教会を見つけ、内陣を特定し、そこに残る墓を発見した。

だからRichard III発見の物語は、「伝説の場所をゼロから当てた」というより、歴史資料から候補地を絞り、考古学によって位置情報の解像度を一段ずつ上げていった探索だった。

発掘された墓は、1485年の埋葬をどこまで再現できるのか

2012年の墓穴は、文献史料だけでは分からなかった1485年の埋葬状況を補った。

University of Leicesterの記録では、墓は不規則で、遺体に比べ短かった。

身体は棺に入れられていなかった。

明確な棺金具などもなく、きつく身体を包むshroudを示す証拠もなかった。

腕や手の位置から、手首を前で結ばれていた可能性が議論されたこともあるが、これを断定するには慎重さが必要である。腐敗や埋葬姿勢、墓の狭さでも骨の位置は変わり得る。

確実に言えるのは、後世の大規模な王墓とは異なる、簡素で急いだように見える埋葬だったこと。

そして、それでも教会内陣という位置に置かれていたことだ。

物的証拠は、史料に書かれた「十分な王室葬礼を伴わない埋葬」と矛盾しない。

しかし、考古学は埋葬者の感情までは測れない。

「侮辱のためだった」

「単に時間がなかった」

「最低限の敬意は払われた」

といった意図については、墓穴だけから一つに決められない。

この区別は、Richard IIIを扱ううえで常に必要になる。

墓が失われた過程は、一度の事件ではない

Richardの墓は、ある日突然消えたわけではない。

複数の段階が重なって、位置情報が失われた。

1485年、Greyfriars教会に埋葬される。

約10年後、墓碑が整備される。

1538年、修道院が解散する。

その後、教会を含む建物が解体される。

1545年、敷地が売却され、土地利用が変わる。

近世には私有地・庭となる。

Richardの墓について相反する伝承が形成される。

さらに近代・現代の都市開発によって、地下遺構の上に別の建物や駐車場が置かれる。

その結果、2012年には「王の墓」ではなく、普通の都市空間にしか見えなくなっていた。

しかし地下では、中世の壁や床、墓穴が断片的に残っていた。

このため発見は、歴史上の場所を探す作業であると同時に、何百年もの都市改変を逆向きに解読する作業になった。

分かったことと、まだ断定できないこと

1485年から2012年までの墓の歴史には、確定度の異なる情報が混在している。

確度が高いのは、RichardがBosworthで死亡し、レスターへ運ばれ、Greyfriars教会に埋葬されたこと。

Greyfriarsが1538年に解散し、その後建物が解体されたこと。

発掘された墓が教会内陣にあり、簡素な埋葬状態を示したこと。

そして遺骨がその場所に残っていたことだ。

一方で、Greyfriarsが選ばれた具体的理由は確定できない。

遺体公開の細部も、史料ごとの政治的立場や成立年代を考慮する必要がある。

Henry VIIが約10年後に墓を整備した正確な政治的動機も、一つに断定できない。

River Soarへ投棄されたという伝承は2012年の発見によって実体的には否定されたが、その伝承がどのように生まれたかは完全には分からない。

このCASEで重要なのは、空白を物語で埋めないことである。

史料が示すこと。

考古学が示すこと。

後世の伝承。

現代の推定。

それぞれを同じ確度で扱わない。

その姿勢を保つことで、2012年の発掘がどこまで画期的だったかも、逆にどこまで「歴史資料の積み上げの上にあった発見」だったかも見えてくる。

次の記事――駐車場のどこを、なぜ掘ったのか

1485年に埋葬されたRichard IIIの墓は、1538年以降のGreyfriars解体と都市の変化によって、正確な位置が分からなくなった。

しかし、サイト自体は完全に忘れられていたわけではなかった。

では2012年、考古学チームは広い市街地の中から、どの場所を発掘対象にしたのか。

なぜ最初のトレンチから人骨が見つかったのか。

壁、回廊、chapter house、教会、choirの位置関係を、どのように地下遺構から復元したのか。

そして「Skeleton 1」は、発掘のどの段階でRichard III候補になったのか。

次のCASE053-03では、527年間の歴史から一気に2012年へ進み、Greyfriars発掘の設計と、王の墓へ到達するまでの考古学的な手順を追う。[8]

検証ポイント|1485年から墓が失われるまで

Richard IIIの死亡
1485年8月22日、Battle of Bosworthで死亡。[6]死亡時32歳。

遺体の移送
戦後、Richardの遺体はレスターへ運ばれ、公衆の目に触れる形で死亡が示されたとする同時代に近い記録がある。

埋葬時期
University of Leicesterは、おそらく1485年8月25日ごろにGreyfriarsへ埋葬されたと整理している。

埋葬地
GreyfriarsのFranciscan church。2012年の考古学調査で墓がchoir内に位置することが確認された。

Greyfriarsが選ばれた理由
確定していない。宗教的理由、修道士側の関与、立地上の実務性などが候補だが、単一の理由を断定できない。

墓の状態
墓穴は不規則で身体に対して短く、棺の証拠はなかった。簡素な埋葬だったという文献記録と整合する。

後の墓碑
Richardの死から約10年後、Henry VIIが墓を整備したとされる。

Greyfriars解散
1538年11月10日、Henry VIIIの修道院解散政策の中でGreyfriarsは王権へ引き渡された。

敷地売却
1545年、旧修道院敷地がJohn BellowとJohn Broxholmeへ売却された。建物は解体され、資材の一部は再利用された。

River Soar伝承
John Speedが1611年に記した有名な伝承だが、同時代資料による裏付けは乏しい。2012年に遺骨が旧Greyfriarsの墓から発見されたため、遺骨が川へ投棄されたという話は事実ではなかったことが確認された。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] University of Leicester, “Buried ‘without any pompe or solemne funeral…’”
  2. [2] University of Leicester, “The fate of the King’s body”
  3. [3] University of Leicester, “The Grey Friars – a brief history”
  4. [4] University of Leicester, “An overview of the Grey Friars project”
  5. [5] University of Leicester, “The king’s grave”
  6. [6] Buckley, R., Morris, M., Appleby, J., King, T., O’Sullivan, D., Foxhall, L., “‘The king in the car park’: new light on the death and burial of Richard III in the Grey Friars church, Leicester, in 1485”, Antiquity 87 (2013), 519–538
  7. [7] King, T. E. et al., “Identification of the remains of King Richard III”, Nature Communications 5, 5631 (2014)
  8. [8] Historic England, “Greyfriars, Leicester”, National Heritage List for England 1442955
  1. 01 リチャード3世の遺骨はなぜ駐車場から見つかったのか?|527年後の発見と同定を追う
  2. 02 1485年、リチャード3世はどこで死に、なぜGreyfriarsに葬られたのか?
  3. 03 リチャード3世|駐車場のどこを掘ったのか?|Greyfriars発掘とSkeleton 1発見まで
  4. 04 リチャード3世|骨格は何を語ったのか?|年齢・脊柱側弯・身体像を検証する
  5. 05 リチャード3世|なぜ「99.999%」本人と言えたのか?|DNA・系図・年代測定を統合した同定
  6. 06 リチャード3世|少なくとも11の傷は最期をどこまで語れるのか?|Bosworthでの死を法医学から読む
  7. 07 リチャード3世|発見後、遺骨はなぜレスター大聖堂に再埋葬されたのか?|司法審査から2015年まで
  8. 08 発見はリチャード3世像をどこまで変えたのか?|分かったこと・分からないこと

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